54話
国道二十三号を走る、とある車の中。その運転席に座るのは、仕事着の白衣ではなく私服を着用する一人の若い研究員だった。
研究員はバックミラーに目をやり、追っ手の存在がないことを知ると安堵の息をもらした。片手で仕事用の端末も再三確認する。職場の人間からの連絡は一切届いていなかった。事態が発覚している様子がないところを見るに、彼立案の作戦は支障なく進んでいるようだった。
バックミラーの角度を調整し、鏡越しに後部座席の足元の方を一瞥する。そこには旅行などで使う布製の大きなバッグが外からの視線から隠れるようにして置かれていた。研究員は運転を続けながら、二回ほど空咳をする。
「……もう出てきていいぞ」
平坦な彼の声に反応し、あろうことかバッグがひとりでにもぞもぞと蠢き出した。
僅かな隙間から伸びた小さな手が、内側からジッパーのつまみを動かす。すると中からは、犬耳と尻尾を生やした華奢な体躯で白髪の綺麗な少女が出てきた。少女はやや疲れたような表情だったが、心底期待に満ちた笑みを浮かべていた。ちょうどそれは、遠足当日が心待ちで前夜に寝られなかった女児のそれによく似ていた。
「いいの?ね、もうここ外なのっ?」
後部座席におそるおそるといった感じに座った少女だったが、すぐに腰を上げて、前のめりになる姿勢で運転席の研究員へ顔を出した。少女はきょろきょろと落ち着きなく、興奮気味に車窓から外の夜景色を眺めている。
「そうだぞ。まだあまりドリームボックスから離れてはないけど、少なくとも警備部隊が仰々しく展開できるエリアはとっくに抜けてるよ。ここまで来れば一安心ってとこだ」
少女を尻目に研究員はそう答えた。彼は口調を柔らかくして続ける。
「……お疲れ様、小春。よく頑張ったな」
「うん!やったね、うまくいったねっ。しろさきっ!」
研究員であり自らの飼い主である城崎の左頬に頬ずりしながら、犬人の少女──小春は歓声を車内いっぱいに響かせた。
積もるほどではない雪がぽつぽつと降る、クリスマスイヴ。その日の夜、一人と一匹の作戦が決行された。
それはたった一夜限りのデートのための──ドリームボックス脱走作戦だった。
施設内から人の気配がなくなり始める十九時頃に開始され、作戦はトラブルなく順調に進行。小春を詰めたバッグを城崎が通勤用の車で外へと運び、二十時の今現在に至っていた。
城崎は左ウィンカーを照らすとハンドルを切って、高架道路の二十三号線から地上に降りるルートへと入る。
「まさかこんな上手くいくとはね。僕も驚いたよ」
「ね。私もびっくり」
小春は無邪気に微笑んだ。脱走自体なら彼女が既に四月の初めに挑戦したものの、あの時はすぐさま施設の警備網に引っかかったこともあって失敗してしまった。
しかし今回の脱走はそれとは根本から質が違った。犬人の彼女一匹による作戦ではなかったのだ。城崎という、れっきとした施設職員の助力を完全に受けられる状態で、綿密に練った計画の元に遂行しているものなのだ。身内の研究員に裏切られたのでは施設側にも止めようがなかっただろう。職員IDカードさえあれば簡単に進むほど逃亡は気楽なものでもなかったが、今回は犬人を外に出すには通常なら絶対にないほどうってつけな好条件が整っていた。
まず最初は首輪の件だ。犬人は担当の人間との盲・聴導犬の訓練時以外でも、発信機付きの首輪が常に装着されているので脱走は困難だった。
だがこの日は違っていた。昼に政府側からドリームボックスの実態を探る視察団が派遣されており、犬人の人権配慮のため、事前に全個体の首輪が外されていた。外部の人間がドリームボックスを見学しても、施設内の犬人へのぞんざいな扱いなどの異常性を汲み取られないような歪な対策がなされていたのだ。
どうせ犬人がつけられないのならと、上層部はこれを機会に、首輪に埋め込まれた発信機の機能チェックと電池の入れ替えなどの各種整備を裏で行わせることにした。その作業は残業で居残った保全班によって今夜中には完了し、明日の朝には再び全ての犬人が首輪をつけることになっていた。要するに、今夜に限れば犬人が施設に足を踏み出しても警備網には探知されない無防備な状況になっていたのである。
次に警備の件だ。無論、施設側も脱走対策はしていた。大半の犬人が住まう南棟の一区画に警備部隊を重点的に囲う配置をするなどの対策を行っていたが、小春は元からその区画とは離れたエリアで一人部屋に放ったらかしにされていたこともあり、警備の目は薄かった。加えて、試験での事故による優良個体・195の喪失や、その他にも再試験で落選して処分検討する羽目になった個体の痛手が予想よりも多かったのだ。そのため、警備部の犬人部隊に空いた穴は無視できないものになっており、警備能力は著しく低下していた。
また、僅かに残った警備部隊の犬人たちも首輪が外されていたので、彼女たちの異常行動を危険視する職員の猜疑の視線も濃かった。
万一、警備部隊から脱走個体が出現したとしたら?ドーベルマンやシェパードなどの強靭な犬人たちが突然こちらに反逆してきたとしたら──との具合に、身の危険を感じた職員側によって、警備用の犬人を一時的に武装解除するよう求める声が大きくなっていた。
この対応に追われた上層部は、生身の人間による警備のみで現場の安全を確保するべく、小春などの未来のない落選個体たちに注意を払う余力が完璧に消失することになった。
これらの好条件が奇跡的に重なった結果、城崎と小春は今夜限りではあるものの、極秘の外出に成功していたのであった。
小春を乗せ、城崎が運転する車はいよいよ街中へと突入していく。
景色に感激する小春の感嘆の声に合わせるように、ドライブはすっかり長引いてしまい、気がつけば名古屋の中心地手前まで来ていた。冬の寒空の下で人々の営みの光に溢れかえる街は、すっかりクリスマスのムード一色に染まっている。
「念願の外の街だぞ小春。どうだ?車の中からと、南棟の屋上から眺めるのとだと、ものすごく違うだろ?」
「うんっ!すごいね、建物とか街灯とかこんなに近くで見るの、はじめてだよ!」
息巻いた様子で、小春はうるさく後部座席で跳ねていた。彼女の尻尾は座席のシートにバウンドするかの如く暴れまわっている。彼女のそのあまりの大袈裟な喜びように、城崎は外に連れてきて正解だったと思った。
「わぁすごいっ!しろさき、見て見てあそこっ。クリスマスツリーが立ってるよ!」
「お、ほんとだな」
小春の指さす右前方を見た。そこには華やかなイルミネーションに彩られている背の高いクリスマスツリーが立っていた。付近には写真撮影をしているカップルや家族連れが沢山いるようで、幸せな光景だった。
現実の醜い外の世界ではなく、まさしく小春が望んでいたような美しい世界だ。
──いずれにせよ、この日に小春を連れてこられて……良かった。
城崎は安心したようにアクセルの力を少し緩めた。彼は視察団の到来は噂話で聞いていたが、正確な日付は知る由もなかったので、脱走のタイミングがこの日になって本当に幸運だったと、普段は信じない神に向けて感謝したくなった。
「ねぇしろさき。ツリーってきれいだけど、どうしてクリスマスに必要なの?」
「単純に綺麗ならなんでもいいんじゃなかったのか?ま、そういうことはまた後でいくらでも調べられるさ。ほらデートなんだから難しいことは抜きにして楽しまなきゃな。小春、まずはどこに行きたい?」
「え、う〜ん……。じゃ、あのツリーのところ行きたい!」
「分かったよ」
小春はどうもクリスマスツリーがお気に召したようだった。ぱっと顔を明るくさせて言う彼女がたまらなく愛おしかった。
交差点の信号で車が止まると、城崎は後部座席へと振り向き、手を伸ばして犬人の少女の頭をしつこく撫でた。彼女はなされるがままではしゃぐように笑った。
その時、幸せそうな小春の顔と、かつての愛犬・シロの笑う表情が城崎の中で重なった気がした。
シロは出会ってから一年ほどの月日で去っていった。同様に小春もおそらくそうなるだろう。似通った犬同士が辿る、似通った未来。
もう冬だ。あと三ヶ月もない。殺処分までの時間は──。
城崎は口角が下がった顔を小春には見られたくなくて、信号を確認するフリをして前を向き、下唇を軽く噛んだ苦悩の顔つきをさっと笑顔に戻してからまた飼い犬の方に直す。
「けど、この辺で車を停めると迷惑になるから……どこか近い駐車場を探そうか。そこに車を置いて、ツリーの所まで歩くことになるけどいいか?」
「もちろんっ。街中でしろさきとお散歩するのも楽しそうだし、全然いいよ!」
小春に抱く幸福な感情に嘘偽りはなかったが、彼女の喪失という数ヶ月先の未来に対する巨大な恐怖も、この時の城崎の身体中に充満していたのは事実であった。それらは水と油のようにいくら混ぜったとしても、やがては分離し、どちらも前と変わらず残留するのだ。
幸せも恐怖も、常に隣り合わせなのだ。だが、遠慮なく笑う小春を前にして、城崎はもう少しだけ恐怖感のみを忘れていたいと思った。せめて今夜だけは、何があってもそうして彼女と幸せに浸かっていたいと彼は切に願った。
──デートは難しいことは抜きにして楽しまなきゃって、僕が言ったんだな。
今思うに、あれは小春に向けてのものではなく、自分自身に向けて発していた言葉だったのだろう。城崎は反省した。あの時から潜在的に恐怖が心を蝕んでいたのだ。
小春の好奇心の言葉を遮っただけでなく、どこまでも自分勝手な発言に、城崎は嫌気がさした。
愛犬がいずれは自分よりも早く死ぬという、避けようのない未来に対する人間の態度とはこんなものだ。考えることを辞める訳にはいかないが、考えたくもない──これに尽きる。
飼い犬がいつか死ぬだなんてことを考えるのは縁起でもない、言霊があるかも──そういう馬鹿らしい人間の都合を貫いて、いざ犬が死ねば、延々喚いて後悔し、また同じ過ちを繰り返すのが世間に蔓延る自称愛犬家の正体である。
そのことは、城崎も昔から嫌というほど知っていた。そして今は、自分もそうなりつつあることにも激しい嫌悪感が湧いた。
「小春」
耐えきれなくなって、彼は名前を呼んだ。
彼女に与えた名前。過去の犬と出会った季節への追憶の意味が込められた、偏愛の産物のその名を。
「ん?なぁに?」
「……呼んだだけだ」
信号が青になる。反吐の出る反省も、小春を撫でることも一旦中断して、ひとまず城崎は車を発進させる。
季節行事の際には空いてる駐車場を探すのには一苦労しそうだが、料金の高い場所なら多少の希望はありそうだった。城崎はカーナビの画面に触れて案内設定の操作をしながら運転する。ため息にしないように大きく深呼吸した城崎は、気を取り直して後部座席の犬人に話を振る。
「あ……そうだ。小春。後ろに服を積んであるから、駐車場に着く前にそれに着替えといてくれ」
「おきがえ?どうして?」
「今は車の中だからいいが、耳と尻尾を出したまま君を街に連れ出すにもいかないだろ?着替えのところにリュックとニット帽があるよ。犬の部分はそれで隠れるはずだから」
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