53話

「わぁっ。えっへへー雪だ雪だぁー!」


 一夜明けた灰色の空の下。きゃあきゃあと愉しそうに声を上げながら、ドリームボックスの中庭を駆け回る小春。F型犬人である彼女の美麗な白髪、同じく白い冬毛で覆われた耳と尻尾が、降雪と景色に溶け込みかけていた。


「小春ー。寒いしもうそろそろ部屋に戻るぞ」


 その姿を近くで見守っていた城崎は、ネックウォーマーから口元を露出させて彼女を呼んだ。彼は寒さで身が凍えている。


「ええ〜。やだよぉ、まだ遊ぶもんっ。それ!」


 小春から投げられたのは返事ではなく雪玉だった。豪速球で城崎の腹に直撃する。その衝撃に城崎は声も上げられずに後ろ向きに倒れた。辛うじて起き上がり、飼い犬のことを焦点の定まらない目で追うと、次は頭に雪玉を喰らった。


「あはははっ。しろさき、雪合戦だよ!」

「あ、ああ。わかったって……」


 城崎は力なく笑った。洒落にならないぐらいの痛みが顔面と腹を襲っていたが、小春の爽快な笑顔を見てそれも失せた。

 小春の体調は快調そうだった。昨日の朝から始まった彼女の発熱も今朝には完全に引いたのだ。熱に関する報告書を能登谷に提出し、現在は朝の散歩に中庭に来ていた。丸一日も寝ていたので身体が鈍っているという彼女の苦言により、彼女と共に施設内の銀世界を歩いていたのだ。

 だが人工芝で平らな中庭に生まれた真っ白な世界にさしかかると、途端に小春は言うことを聞かなくなり、子犬のようにはしゃぎ回って歯止めがつかなくなっていた。

 仕方なく城崎は小春に習ってソフトボールぐらいの雪玉を作って、彼女に向かって投げた。手加減なしの投球だったが、彼女は難なく回避して反撃に出てきた。城崎も負けじと応戦する。


 ──雪で遊ぶのなんて、いつぶりだ?


 城崎は昔のことを思い出しそうとしたが、シロ以外に幼少期に特に思い出がなかったので、ついぞその記憶をたぐることは出来なかった。

 小春は飼い主との対戦が随分と嬉しいようで、激しく尻尾をばたつかせていた。去年の彼女は今以上に人目を避けていたから雪に触れ合う経験がなかったのかもしれない。その分、未知の季節の恩恵を味わっているようだ。


 十二月の愛知県で雪が積もることは数年ぶりだった。城崎も心做こころなししか胸が踊っている気がした。彼女と一緒に何かをしている時間が彼の心的な負担を取り除いていたのだ。中庭なので人目がないこともなかったが、もはや城崎と小春は互いの関係性を施設の職員たちに隠すことをやめていたので問題はなかった。

 秋の試験で城崎が上層部側に行った抗議活動により、既に一人と一匹の親密な関係は周りに露呈していたので、小春の部屋の外にいても、城崎は彼女に接する態度を取り繕うとはしなかった。195への担当異動後に生じた、あの一ヶ月もの悲劇は絶対に繰り返さないと固く誓っていたのだ。

 このことから当然、周囲は城崎を蔑視した。ドリームボックスの最古参たる佐中が書いた犬人理論とその論文を主軸とする一般の研究員は、犬人への愛情ある育成には初めから否定的な立場をとっているので、自由に小春を可愛がる城崎の味方は完全にいなくなった。彼ら普通の研究員たちからすれば、城崎は研究の仕事を疎かにする怠惰で成果のない研究員に映っていることだろう。城崎はそれで構わなかった。小春が殺処分される最後の瞬間まで、彼女と同じ時間を過ごせればそれで良いと考えていた。報告書などの作成は最低限行っていたが、残りの時間は彼女を愛でることだけに専念していた。


「いくよーっ。しろさき!」


 小春が犬人の身体能力を存分に活かしたアクロバティックな動きで雪上を走り、抱えていた雪玉を城崎へと投げつける。


「……やりやがったな小春っ」


 間一髪それをかわした城崎は、カウンターとして飼い犬の方に突撃した。雪玉を投げたのではなく、自身が小春へ直接駆け出したのだ。

 かじかむ身体に鞭打ち、城崎は疾走する。飼い主のその突然の行動に意表をつかれた小春は、抵抗できずに彼の腕に掴まった。しかし勢いがそこで止まらなかったのか、一人と一匹は姿勢を崩して雪の上に倒れた。



 施設中央棟の五階に位置する一室。暖房のよく効いたこの室内では品の良い紅茶の香りが漂っており、窓辺には二人の白衣姿の男がいた。

 彼らは中庭にいる一人と一匹の問題児コンビを見下ろしている。

 元気にはしゃぐそのコンビから目を離し、窓に背を向けた一方の男は投げやりな笑みをこぼす。


「あなたは相変わらず人が悪いですね。主任」


 一方の男である能登谷が部屋の主を呼んだ。主任──もう一方の男のことを過去の役職名で。

 能登谷は普段ならば、主任という男と二人っきりの時でもこの呼び方は決してしない。その証拠に、能登谷の口は皮肉っぽく歪んでいた。


「君だって同類だろう」


 主任の方はそれに面倒くさそうに応えた。

 能登谷は肩をすくめる。


「同類?はは、またキツい言い回しですね」

「そのように言ったからな」


 空気は重く棘のあるものだった。二人は長い付き合いだったが、未だ互いにやや遠い距離感を保っている。信頼からではない。どちらかと言えば警戒に近しいものだった。

 主任の方もそのことは認知しているが表には出していなかった。彼の方も能登谷に気を許していなかったのである。両者、仕事のために相手を利用し、ある時は相手から利用される間柄だった。


「経過報告は?」


 主任は能登谷に視線も合わせず、ぶっきらぼうに訊ねた。


「城崎の奴から昨日と今朝の分が既に提出されましたよ」

「内容は?」

「F型の実験個体、雑種犬の204が発熱した……の一点張りでしたが?体温は昨日の午後三時時点で最大時三十九度七部だそうです。今朝は三十六度八分。それに、処方薬の申請書類も来ましたよ。まったく……あいつの過保護っぷりには驚かされ──」

「内容だけ教えろ」


 主任の剣幕のある言い方に能登谷は口を閉ざすも、すぐに調子を取り戻して飄々とした態度で振る舞う。


「本当にそれだけでした。発熱確認の報告、それと経過観察記録。コピーならこちらに」


 主任が日常の仕事で使う木目の綺麗な机。能登谷はそこに資料のプリントの束を投げ置いた。乾いた音が部屋中に伝わった。

 主任は変わらず部下の方は見ようとせず、窓から一人と一匹が雪の中で遊んでいる様子を神妙な面持ちで眺めていた。


「今の204を見てお分かりの通り、個体の身体には問題なさそうですよ。観察記録自体も──データベースにある通りで、犬人の発熱から平熱への移行段階とほぼ同じペースが確認されています。至って通常のものでした。これは単に普通の風邪ですかね?」

「いいや。おそらくは……」

「と言いますと?」


 能登谷はにやりと口角を上げた。その気配を感じ取った主任は彼の方に顔を向け、睨んだ。ティーカップを持つ主任の手に力が入った。次第にわなわなと震える。


「いい加減にしろ。仕事に戻れ」


 主任の怒声を聞くなり、能登谷は姿勢を正すと半歩下がった。それでも尚、彼の顔つきは意地の悪い微笑が張りついて剥がれそうにはなかった。


「……分かりましたよ。所長」


 能登谷が部屋から出ていく。切れ者の部下が完全に退室したことを再度確認してから、主任と呼ばれていた男──佐中は、一人残された所長室の窓辺でため息を吐いた。

 佐中は、部下がいる時は棚にしまっていた写真立てを出して丁度いい所に置いた。写真立ては二つあった。ひとつは黒い犬の写真が収められてるものと、一人の少女が写る写真が入ったものだった。



「──悪い、大丈夫か小春?」


 城崎は体を起こして、自身の下敷きになってしまった飼い犬に手を差し出した。

 雪のベールに隠された芝の上に大の字で仰向けの状態になっている小春は、倒れる時の身体の動きが面白かったのか、くすくすと笑っていた。

 降り注ぐ雪が小春のその笑顔にぽつぽつと落ちては消えていく。運動で呼吸が僅かに早くなり、活発に上下する少女の胸。笑った際に口から吐く息は人間と同じで白い煙だった。気のせいか、普段に比べて彼女のことが艶やかに見えた。


「大丈夫……──だよ!」


 小春はぼんやりしている城崎の手をぐいっと引っ張ると、自分は雪の上から起き上がりながらも、飼い主の体を地面へと戻した。そして彼女はすかさず作った雪玉を次々に飼い主に投下していく。


「あははっ!やーい。油断してるからだよ、しろさき。降参する?する?」

「するよ」

「じゃ今日のしろさきのおべんとう、ぜーんぶ私のだからね?」

「おい?それはあまりに──」

「降参する?」


 小春が怖い笑顔でもう一球投げる仕草をしたので、城崎は首肯した。その反応に彼女はにんまりと笑った。


「……まったくしょうがないな君は」

「えへへへ……あ、しろさき。はい」


 彼女はそう言って地面に転がる飼い主へ手を差し出した。礼を言い、その手を握った城崎は助けを借りながら立ち上がる。

 小春に脅し癖をつけてしまったかな、と反省するが、その気持ちも寒さと飼い犬の笑顔で消え去る。自分がそばにいてやれば、樗木を人質にした時のようなことは今後しないだろう──。城崎は飼い犬の服に付いた雪を払ってから、彼女の頭を上から横にかけて軽く撫でた。


 満足な様子で尻尾を振り続け、小春は上目遣いで飼い主の顔を見つめている。


「脅すことは知ってんのに要求はしょぼいんだな」

「しょぼくなんかないよ?しろさきのおべんとう、とっても美味しいもん」

「でもさ小春、もっと要求したいことがあるんじゃないのか?」


 城崎の言葉に、当の小春は一瞬分からなかったようだったが、少し間を置いて思い当たる節があったようで、眉を下げて視線も伏せがちになった。


「……しろさき、それってさ。もしかしてデートのこと?」


 デート。施設ではない外の世界で、街中で一緒に過ごすこと──それはかつての小春が試験前に無理に飼い主側に迫った約束だった。

  195の大怪我というアクシデントの対応により、残念ながら小春は試験には落ちてしまったので、彼女がこのことを口に出すことはなかったが、城崎は以前から気がかりだった。


「うん。試験に落ちてから……あれっきり君は話題にもあげなかったけど、本当は行きたいんだろ?」


「……いきたいよ。私だって」


 いじけた表情で赤くなった目を拭う小春は、鼻をすすった。彼女の犬耳は萎えて前に垂れていた。


「小春。いいぞ」

「へ?」

「僕が連れていってやる。どこに行きたい?」


 城崎は小春の手をとって、しっかりと両手で包んだ。彼女の手はとても温かった。

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