52話
小春は夢を見ていた。それは夢というより、過去の場面のテープがあたかも巻き戻しされたように鮮明なものだった。
場面は二つ。彼女が他人の口から真実を聞いた時と、それを他人──否、他の犬に打ち明けた時のことである。
「……ねぇ。それで話ってなに?しろさきのことなんでしょ」
窓もカーテンも閉め切られているがために、空気が淀む暗い室内。その中で、一匹のやつれた犬人が鋭い目つきで研究員の樗木の方を見ている。
彼女達の姿をやや離れたところから眺めるのは、小春。一匹の犬人は過去の小春だった。彼女は自分自身を見ていた。彼女は今、真実を耳にしたあの場面を自ら立ち会っていたのだ。
──この時、しろさきに会いたくてしょうがなかったなぁ。
小春は冷静に眼前の巻き戻し再生を眺めていた。あの頃の複雑多重に混ざりあった生の感情が春の風のように通過していく。
自分を外から眺める夢は小春にも初めてのことだったが、驚くこともなかった。視界に自分がいるという不可思議な感覚は人間ならば違和感を抱く状況であるが、小春にはそうでもなかった。というのも彼女は普段から、自分とほぼ同じ外見をしているF型少女の存在を施設内で見慣れているからだ。自己の外側に、別の自己があるという違和感に根本的な抵抗がなかったのである。
犬とはそもそも人工的な生物である。人間の意図により同種、しかも遺伝的に近い個体同士であることも考慮されずに種という幻想を保持するためだけに命を次から次へと紡がれてきた動物なのだ。血を分ける間柄は数多い。人間が持つ種の個体関係よりも、自己という認識が薄いのは当たり前な話だ。
これに習い、小春は夢の中にいる過去の自身にさしたる恐怖感は湧かなかった。
「うん」
樗木の肯定が優しく犬人へ送られた。
小春はその後の一人と一匹のやり取りを黙って見つめた。
「早くして」
いらついた様子の犬人の低い唸り声。小春は自身のその声に微かに笑った。
「……単刀直入に言うとね、204ちゃんには秋の試験に落ちてほしいの」
「は?なにそれ」
犬人が叫びそうな声で抗議の空気を放つが、樗木も怯む気配はなかった。
「あなたが合格すると城崎くんが後々苦しむことになるの。だから……ううん、もちろんこれには理由があるんだよ。なにも私だって、あなたに無条件に死ねと言ってるわけじゃないわ」
「どういう理由?」
「それは──」
樗木の声が突然途切れる。彼女の口は動いていたが、傍観者の小春にはそこの部分だけが抜け落ちて、無音だった。既に知っているので改めて聞きたくないという彼女の心理的な防衛反応が無意識に夢の映像を加工したのだろう。
真実──それを聞き、犬人の表情は表情はみるみる戦慄のものへと変貌していく。首を振る犬人に、樗木が白衣の内ポケットからとある物を差し出して見せた。依然として彼女の口は小春にとっては無音だった。
犬人は経験のない場所に連れ出された幼犬のように身体が震えている。そこから間もなく樗木に対する拙い罵声と批判へ続いた。
──つらかったね、この時は……。
夢の中にいる過去の自分のことを慰めるように、小春は心の中で呟いた。
「ふざけんなっ!お前、ふざけないでよっ!許さないっ!しろさきと私のこと、なんだと思ってるのっ!?」
犬人は泣いていた。髪を振り乱しながら、叫び声を上げて樗木の喉元に掴みかかっていた。非力な女研究員を一人殺すなんて犬人には容易だった。樗木は全く抵抗しなかった。
「今から城崎くんに伝える?」
樗木はしゃがれた声で絞り出すように言った。彼女の首を絞める犬人の手の力が緩む。
「私を人質にすればいい。そしたら彼は絶対ここに来てくれる。協力するわ。それからのことは……あなたが決めて」
再現がここでぶつりと遮断された。
──ごめんね、おてき。
小春はかつて殺しかけそうになった飼い主の同僚に謝罪した。次の瞬間、闇の中に放り出されたかと思ったが、場面が変わっただけだった。
「私だ……いち、私は……195だ」
秋の試験中、災害競技のステージとなった模擬的な倒壊家屋内に奇跡的に形成された空洞部分。そこにいた犬人は、もう一匹の大怪我を負っている犬人を前にして後ずさりした。
小春は、その構図を真横から眺める位置で立っていた。
──195……。
咳き込んで、夥しい量を吐血する彼女の片腕は質量のあるコンクリートの支柱で潰されていた。現場にいた犬人と合わせて小春も、思わず目を逸らした。
「……しくじってしまったようだ。競技続行不可、任務も遂行できない」
犬人は変わらず目を向けていないが、小春は興味本位で瞼の隙間から195の身体を見た。しかし彼女の怪我をした部位は目には映らず、ぽっかりと真っ白な穴が空いていた。あまりに思い出したくない光景は夢の中ではセーフがかかるらしい。小春は安堵して二匹の会話を傍聴する。
雨の音が瓦礫を通じて響いていた。
犬人はおそるおそるといった感じで195の近くへ寄った。
「お前……痛くないのか?」
「痛い」
「このマネキンはお前が?」
「そうだ。あれは競技への合格……任務に……必、必要な……」
195の声に荒い息が混じり始める。
犬人は傍に転がる代替マネキンに手を伸ばしたものの、数秒の逡巡を挟んでから、その手を195に差し伸べた。
「何をして……。204?」
「これからお前を助ける。黙ってて」
犬人は195に強めの止血処置を施しながら冷たい口調で言った。手際よく彼女を背中に背負う。血の勢いが少しだけ収まった。犬人は腕時計を見て、来た道をすぐに引き返した。道は洞窟と形容するよりはモグラの掘るトンネルに近かった。犬人が一匹ずつ通るのがやっとの道である。
しかし犬人は、瓦礫の中に埋もれていたカーペットのような大きな布地を見つけて拾い上げる。それで195をしっかりとくるんでから、救助犬のテキストに書かれていた要領で彼女の運搬を開始した。
──この時も、すっごい大変だったよね……。
狭い道を犬人に運ばれながら195は疑問まみれの顔つきだった。彼女は犬人の方に視線をやる。
「なぜ助ける?」
「黙っててって言ったけど」
「マネキン……はいらないのか?お前はなぜ自分の任務を果たさない?」
「これが今の私のにんむだよ。餡子は黙って」
「……あんこ?なんだそれは?テキストにはそんな単語……意味がわから、ない……」
項垂れながら意識を失った195に、犬人は頬を腕で拭いながら悲しそうに言う。
「どのみち──終わりだからね。何もかも。だからマネキンはいらないよ。ごめんね、しろさき……」
──そうだね。
小春は、過去の自分に別れを告げた。彼女は再び眠りの闇に呑まれた。
夢から目が覚める。そこには不気味なほど清潔な白い天井があった。
身体のだるさが和らいでいる──。額には、僅かな重量とぬるい布の感触があった。小春は身体を起こしながらそれに手をやる。水を含ませたタオルを畳んだ物だった。
最後の記憶は飼い主から受け取った不味いスプラッタ・ビスケットを食べ終えて、ベッドで寝るように言われた時の光景だった。それからあの夢。はっとして時計を見る。時刻はもう夕方だった。カーテンの閉まっていない窓の外ではとっくに薄闇が広がり、施設内に連立する照明灯の主張の強い光で雪が降っているのが映し出されていた。
「しろさき」
部屋の中を見回す。飼い主の姿がないと思っていたが、すぐ傍に彼がいた。床に座っていた。上半身をベッド上に伏せるようにして、小春に寄りかかるようにしている。寝息が聞こえる。
小春はタオルと飼い主の顔を交互に見てから、彼の頭をそっと撫でた。
「ありがと。しろさき……ずっと、私のことを看病しててくれたんだね?」
飼い主の寝顔を見るのは彼との付き合いの中では初の出来事だった。小春はそう意識すると、体全体がどぎまぎとした。そして熱くなった。熱は下がったはずなのに、と彼女は人間らしく苦笑した。
静かな時間だった。
雪降る中、誰も寄りつかない施設内の孤島で一人と一匹だけがいる。小春は飼い主が起きないように細心の注意を払いながら、彼の頭や肩をべたべたと飽きることなく触ったり、執拗に撫でた。犬には幸せな時間だった。この時間に終わりが来なければいいのに、と彼女は心の底から思った。だがそこで、飼い主がいつも施設から出ていく時間を優に一時間も超過していることに気づいた小春は、渋々彼を起こすことにした。残業してると上司から目をつけられるという飼い主の愚痴っぽいフレーズが頭をよぎったのだ。
しかしそれで普通に起こしては面白くない。驚かしてみたくなったので、小春は無防備な飼い主の耳元で大声を出すことする。
「しろさきっ!」
その大音量を聞くなり、びくっと身体を震わせ、慌てて目を覚ます飼い主の滑稽な様に小春はけらけらと笑った。
すぐに状況を悟ったのか、城崎もつられて眠そうに笑顔をこぼす。
「びっくりしたな……おはよう小春。おはようなんて時間じゃなさそうだけど」
「うん。おはよ、しろさき。あれ?あわてないの?」
時間を知るなり慌てふためく飼い主の姿を予想していた小春は、彼の落ち着きように首を傾げた。
「今日は残業申請したんだ。小春が安静にして眠った後、上司に君の発熱を報告してね。万一熱が下がらないようだったら数時間経過観察しろってことで……」
「それで……寝ちゃってたの?」
「らしいな。ははは」
──なーんだ。なら起こさなきゃよかった。
小春は半分恨めしく思ったが、経過観察という言葉に明るい予感が生まれる。
「じゃあじゃあさ、今日はさ?夏の訓練の時みたいにしろさきと夜遅くまで一緒にいられるの?」
「ああ。でもその調子じゃ、小春はもう元気そうだな?」
「ごほ、げほほっ。げほ、げほっ!」
彼の言葉が終わる前に四回ほど素早く小春は咳をした。無論、とってつけた空砲の咳である。飼い主の方もこれには呆れて苦笑いを返した。
「……あと数時間は念のためここにいるから」
「ほんとっ?えへ、だったら毎日風邪をひいてもいいかも」
「バカ言うなよ。風邪なんて苦しいだけだ。ほら、弁当食べるか?」
「え?おべんとう?」
飼い主から手渡されたいつもの弁当箱。空の容器の重さではなかった。小春は蓋を開けた。
鮭入りと思わしき大きなサイズのおにぎり、大小様々な良い香りのからあげ、甘そうな卵焼きたち──。彼女の目は、光を反射する水たまりのように美しく、透明な色彩を帯びた輝きが溢れていた。
「何とぼけてんだよ。朝に
「やったぁっ!しろさきのおべんとうだー!」
「喜んでくれて嬉しいけど、ちょっとは静かにな……はは」
「いただきまーすっ」
小春は受け取った弁当に早速がっついて食べ始めた。長い間眠っていて空腹だったようだ。五分とせずに平らげた彼女は、飼い主の方に弁当箱を返しながら微笑む。
「ごちそうさま」
「いい食いっぷりだ」
「うん……しろさき、ありがと。看病とかも色々……その、いつも頼ってばっかりでごめんね?」
「気にすんなよ。弁当だってこれからもずっと作ってやる。必要になったら今回みたいに世話だってな」
「──ずっと?」
小春は迷ったような声で聞き返した。彼女からすれば、飼い主の発言はこの上なく嬉しかったが、同時に苦しめる側面も持ち合わせていた。
「君の飼い主だからな。ずっとだ」
「……そっか。ね、しろさき」
「ん?どうした?」
「雪、キレイだね」
小春の発言に、城崎は視線を窓の方へとやった。その夜は更けても純白の雪が降り続けていた。
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