51話

 深夜の道の駅での慟哭どうこくから一週間が経過した日の朝。この日は早朝から寒く、昨夜の雨が路面で凍っていた。それにもお構いなしに出勤の車が次々と走っていく。

 その道を外れ、城崎は職場が待つ山中への道へと車を進めるも、運転に集中していなかったのか右折してくる対向車と危うく接触しそうになった。だが彼はそれでも目が覚めず、相手からクラクションを鳴らされてようやく状況を呑み込んだ。


 城崎は寝不足だった。目を擦る。欠伸が止まらなかった。

 連日、ベッドの上でも彼は極度な緊張感と不安に襲われていた。どこにいても何をしていても小春の殺処分の件が頭からこびりついて洗い流せず、それで上手く眠れなくなってしまったのだ。事故一歩手前の場を切り抜け、車をいつもの山を上がる道へ入れる。木々に頭上を覆われる前に、フロントガラスに小さな氷の結晶がぽとりと落ちた。

 今度は安全を確かめると、城崎は車を路肩に停車して少し空を見上げる。灰色の空からは囁くような雪が降っていた。十二月上旬の愛知県での降雪は珍しいものだが、道の駅で初雪を生で見ていた彼にはさして驚きはなかった。


 ドリームボックス南棟に出勤し、ロッカーで着替えを済ませてから小春の顔を見に行った。

 飼い犬の部屋をノックする。欠伸する暇もなく、鼻歌と共に上機嫌な部屋の主が外に飛び出てくる。「帰宅」してきた飼い主への目いっぱいの愛情表現の抱擁だが、寝不足気味で体力のない飼い主には些か堪えた。


「おはよう小春」


 それでも笑顔で飼い犬のことを全身で受け止め、城崎は彼女の頭に手を置いて挨拶した。胸の辺りに彼女が顔を埋めてくる感触がこそばゆい。


「おはよしろさき。ね、しろさきは見た?すごいよ、雪ふってるんだよ!」


 ぴょこりと起きた小春の犬耳が顎に当たる。なにやらざらついた感じがした。朝、一応の洗顔はしたが、面倒で髭を剃るのを忘れていたと城崎は思い出した。

 朝から高血圧なテンションをかましてくる小春を無理矢理引き剥がそうとするが無意味だった。城崎は「みたいだな」と彼女に相槌を打つ。


「僕もここに来る時に見たよ。もう初雪とはね」


「うん!去年はもう少しおそかったよね?そうだ、この雪つもるかな?」

「どうだろうな。しっかし急に寒くなったな。施設も暖房入れてくれりゃいいのに」


 城崎は身震いし、大きな欠伸をした。目元の小さな涙を拭う。ぼやけた視界にはドアノブに手をかける小春がいる。


「あっ。ごめんねしろさき。寒かったよね?はいっていいよ」


 やっと離れた小春は先に部屋に入って飼い主を手招きする。そんな彼女に城崎は続く。

 廊下も大概だったが室内の方も寒かった。凍え死ぬほどではないが、上着をもう一枚着込まないとゆったりとは寛げそうになかった。


「しろさき。あとでお散歩いこ?」

「散歩?いいけど、外寒いぞ」

「だって雪の中だよ?ロマンチックじゃん」


 微笑む小春の白髪が揺れる。

 雪の季節。犬は外で猫はこたつ、か──。城崎は小さく笑う。


「分かったよ。その前にちょっと暖をとらせてくれ」

「うん。でも、ここ何もないよ?私のおふとん使う?」


 小春は足元に落ちている布団を拾って提示した。ドリームボックス側から犬人へ支給されている簡素な寝具のひとつだ。


「別にいいさ。風がない部屋の中ってだけでもありがたいし」

「そっか」


 小春は布団を元あった位置に戻した。布団ぐらいベッドの上に置いとけと注意しそうになるのをぐっと抑えた城崎は、彼女が長袖のパーカー上下姿で平然としている様子に違和感を覚えた。

 犬人は耐寒の面でも人間より優れていそうだが、実はそうでもない。犬種によるところが大きいはずなのだ。雑種の柴犬はセントバーナードなどに比べれば決して強くはないし、人間の遺伝子も体躯も少女だ。脂肪が少ない分、普通の成人男性よりもずっと寒さには分が悪いのである。犬人の服装は普段着のパーカーと試験時などに着る特殊な物があり、前者の方は夏服と冬服に別れる。半年ごとに入れ替わるのだ。ただ冬服の方はしっかりとした防寒着ではなかった。冬場に施設から逃亡されることを恐れたドリームボックスがそういったものを用意していないのである。

 数年前に一度だけ、この辺りでは稀に見る猛吹雪に見舞われた際に犬人の集団脱走があったことが原因らしい。施設側はかなり手こずったそうだが、全個体が山を降りきる前に警備部隊に射殺された。犬人たちは支給されている防寒着で体温が下がるのを防止していたので途中まで好調に逃げることができた。その教訓から、今年に至っても未だに犬人には分厚い防寒着は用意されていない。

 施設の暖房は大半の職員が過ごすエリア分しか効いていないが、雪国ではないので小春のような遠い区画にいる問題児も低体温症で死ぬことはないという判断もあるのだろう。酷い話だ。しかし、城崎の眼前の彼女は不平不満を一言も漏らそうとはしない。


 ──変だ。


「……小春。君は寒くないのか?」

「え?あんまり」


 飼い主が椅子に座ると、小春はそう答えながら、いつもと同じく床に腰を下ろして城崎の足に身体を寄せた。

 その身体は温かい。というより熱かった。小春の顔を見下ろす。頬ではなく彼女の顔全体が赤みがかっていて、呼吸も少し荒っぽかった。城崎は彼女の額に手で触れる。冷たい彼の手が瞬時にぬるくなっていく。


「熱があるみたいだぞ。風邪でもひいたか?」

「そう?体……ううん。なんともないよ?平気だよ?」


 首を横に振って目を伏せる小春は、身体をそそくさと飼い主から離した。一度くっつくと彼女の方からはテコでも動かないというのに──。


「そんなことないだろ。すごく熱いぞ」


 城崎は飼い犬の額に再度手を当てて体温を計ろうとするが、彼女によって振り払われた。


「……平気だってば」


 不愉快そうな低い小春の声を久しく聞いて、城崎は怖気つく。途端に彼女が人間よりも身体能力の高い獣の遺伝子が混じった存在であることを再認識させられる。

 そもそも彼女が構わないと言っているのなら、飼い主としてもこれ以上追求する意味はなかったが、この時の彼女はどこか殺気立ったように拒否した。単なる体調不良を誤魔化すことに何のメリットもないが──。城崎は懐疑的に腕を下げる。


 ──きっと、僕のことを気にしてるんだろうな。


 城崎はその答えしか出なかった。小春も殺処分のことについては一旦忘れ、諦めているのだろう。

 その上で飼い主となるべく楽しい日常を演じていたい気持ちがはたらいているのなら、この言動も頷ける。だが、それは目の前にいる不調をきたした犬人を放置する理由にはならない。少なくとも城崎にとっては。


「小春?身体を壊しちゃ元も子もないよ。大丈夫、僕が看病するから。今日は大人しくベッドで休──」

「だからなんでもないってばっ!」

「変な意地張るな。言うこと聞いてくれ」

「ちがうもんっ」

「嘘つくな!」


 少し語句を強めて叱ると、小春は立ち上がり、無言でそっぽを向いた。そのままベッドに転がった。

 小春は横向きに身体を休めている。雪の降る窓の外を見ているのだろう。その姿は後ろから見ると、ふて寝する子供そのものだった。城崎は声色を穏やかなものに直す。


「……なぁ。どうしたんだよ一体?体の調子が悪いなら正直に言ってくれればいいじゃないか」


 小春が顔の半分だけをちらりと後ろに向け、興味が消えたような重いため息を吐いた。彼女の人間らしい深刻な仕草を見るのは城崎でも初めてだった。彼女は顔をまた窓の方に向け、身体を縮めて寝る。耳を澄ますと僅かに鼻をすする音がした。華奢な上半身が震えていた。

 小春は泣いていた。城崎は困惑しながらも、足元に落ちていた掛け布団を彼女の体に被せた。


「ごめん、小春」


 彼女の返事はない。


「君の気持ちが……その、分からなくて。本当にどうしたんだよ?具合が悪いだけじゃないんだな?あぁ今は……僕がいない方がいいのか?」


 さっきと同様に何も反応はない。

 理由は不明だが小春の方で何かあったらしい。明白なのは、その理由が体調不良だけのことではなさそうだということだ。どっちみち今の城崎には意味が汲み取れるものではなかった。大人しくここは退散しておくことにしたが、布団の隙間から彼女の手が伸びていて、白衣の一部を親指と人差し指でそっと摘んでた。その指を握るとやはり熱かった。


「……ごめんね。しろさき」

「小春?」

「怒鳴っちゃってごめんなさい。そのね、朝からね、ちょびっとだけ無理してたの。でも、ね。しろさきとね……いつもみたいに過ごしたかったの。だから……」


 朝の小春の元気なハグを思い浮かべた。

 城崎は彼女の指を布団の中に優しく戻し入れる。


「やっぱりか。今更こっちに遠慮なんてしなくていいのに」

「……ごめんってば」


 もぞりと顔を向ける小春の顔は真っ赤だった。涙と鼻水で顔が汚れていた。いくらなんでも少し泣きすぎではないか、と城崎は苦笑した。熱で思考が曖昧になっているのだろう。


「水分をとらないと。それに栄養があるものも……小春、朝ご飯はもう食べたのか?」

「まだ」

「じゃあポストに糧食があるよな?取ってるから待っててくれ」

「ええー。けほっ……やぁだ」


 咳をしながら彼女はブーイングした。


「我慢しろよ。あのビスケットは不味そうだが栄養だけはありそうだし、こういう時にはうってつけだろ」

「……まずそう、じゃなくて、ほんとにおいしくないから嫌なの」


 笑い声を出すのが辛いのか、喉の奥を鳴らすように笑う小春。彼女からは殺気立っていたさきほどの雰囲気は丸々失せていた。そこには普段の甘えん坊な犬人が力なく布団にくるまっていた。


餡子あんこ

「なに?」

「今の私さ……お饅頭まんじゅうに見えない?餡子は私ね。布団は……皮」


 城崎には彼女の発言の真意が分からなかった。飼い犬の方もそれをわざわざ言う気はなかった。落雷の時の出来事を話すことになってしまうからだ。


「頭大丈夫か?こりゃ重症だな。糧食持ってくるから休んでろよ」

「……バカしろさき。感性ないね」


 この言葉の方は覚えがあった。二重丸。ドーナツを模して窓に描かれた、小春の下手くそな絵。それを見て、何を描いてあるのか分からないと切り捨てた時に彼女から手厳しく言われたものだった。


「大人だからな」


 城崎は、あの時と同じ言葉を彼女に返した。

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