50話

 帰宅の時刻に迫り、報告書をまとめた城崎は帰る支度をしていた。小春の残り時間を思うならば、なるべく彼女の元にいてあげたかった。しかし上からは不要な残業と見なされるだけだろう。

 これ以上反発して目をつけられても仕方がない。あの非情な上層部のことだ。あまりしつこく出ると小春の処分の話が早まるかもしれない。それが城崎にとって最も恐ろしかった。今は大人しく帰った方が良い──。

 投げやりにそう言い聞かせ、城崎は時計を再確認して立ち上がる。


「時間か……小春。じゃあまた明日な」

「ええっ?帰っちゃうの?もう?」


 能登谷のデスクへ報告書を持っていこうと、玄関へ足を進めようとする飼い主を犬人の少女は引き止めた。彼女の小さな手は白衣の裾を破れんばかりに掴んで離す気配がなかった。


「馬鹿上司に報告書を出すんだ。それと……あの話をなんとか撤回してくれないかって懇願してくる」


 城崎は甘えん坊な飼い犬を尻目に言った。

 もちろん懇願というのは嘘だった。小春には最後まで出来る限り希望を持っていてほしかった城崎は、上層部への反抗の意思を彼女に示しておく必要があったのだ。

 そうすれば、処分決行日までは彼女の方も絶望のあまり行き過ぎた行動を取るなんてことはしないと考えたからだ。異動絡みで発生した空白の一ヶ月間のロス。犬種を問わない審査体制を事前に見抜けなかった監督者としてのリサーチ不足。上層部側を説得しきれなかった交渉力のなさ。

 どれも悲惨で粗末だ。犬人の担当者の風上にも置けない。小春への嘘は自身の過ちのせめてもの罪滅ぼしだった。それに、城崎は小春にだけは情けない飼い主だとは思われたくなかったのだ。

 小春は飼い主の言葉を聞くなり、裾を握る手の力を僅かに緩めた。彼女の冬毛の尻尾は枯れた植物のように垂れてしょぼくれている。


「……ふぅーん。ね、しろさき。もういいよ無理しなくて」

「もういいって何が?」

「本当はしろさきもわかってるんでしょ?これ以上はいくらなんでも無理だってこと」


 見透かされたような発言に、城崎は一瞬言葉が詰まる。


「何言ってんだよ。ほら離してくれ。な?」

「しろさき。もうがんばらなくてもいいんだよ?私、満足してるから」


 小春は務めてさっぱりとした口調だった。城崎にはそれが彼女なりの強がりなのかどうか判別できなかった。

 小春の目はまったく嘘をついていなかったのだ。それが不自然で奇妙だった。誰だって、最後の瞬間まで殺される未来を回避する選択に賭けたがるものなのではないか。それなのに、目の前にいる飼い犬は生きることを諦めるどころか、なにやら最初から拒んでいるようにさえ見えた。


 ──小春、君は……?


 城崎は彼女の方へと振り向き、視線の高さを合わせるために少し屈みながら声をかける。


「……そんなこと言うな。こっちは満足してない」

「でも……」

「大丈夫、安心しろって。絶対僕が助けてやるから。小春は何も心配しなくていい」


 城崎はその時辛うじて、渾身の明るい語り口と表情を飼い犬に振るうことができた。彼女を真正面から抱きしめる。腕の中にいる小春の頭をいつも通りに優しく撫で回す。

 その間、小春は黙って目を閉じていた。遠慮がちに彼女の手は飼い主の背中に回されるも、強い抱擁を返すことはなかった。


「必ずなんとかするから。だから変なことはしないでくれよ?」


 小春がそれに頷く。彼女の目は涙で潤んでいた。


「ありがと、しろさき。私なんかのために……」

「卑下なんかすんな。小春は立派だぞ」

「……しろさき」

「ん?」

「あのね、そのね……」

「なんだよ」

「と、トリックオアトリートっ」


 苦笑いが混じった涙声で小春はそう呟いた。またも変なタイミングで素っ頓狂なことを言われた城崎は、思わず肩を上下に揺らして笑った。場の湿った空気を消したかったのかもしれない。小春なりに気を利かせた発言だったのだろう。効果はあったようで、城崎は張りつめていた緊張が解けた気がした。


「また季節外れなイベント引っぱってきたな」

「うん。ダメ?」


 一人と一匹の顔はお互いの息遣いを感じる距離だった。城崎の腕の中で、小春は媚びるように瞬きを繰り返した。


「ハロウィンは仮装しないといけないぞ」

「してるよ?見て見て、かわいい耳と尻尾が生えてるよ」

「バカ言うなよ。小春は元から生えてるだろうに」

「でへへ〜。ダメかぁ」

「そうだなぁ、あはは」


 くだらなくも愛しい会話。彼女の身体の感触。心臓の鼓動、呼吸。微かな獣臭が混ざった少女の甘い匂い──。

 数ヶ月には跡形もなく消失する。社会にとっては過去のものになる。そして未来永劫、二度と取り戻せなくなる。かけがえのない存在──小春が。

 緊張は完全には消えていなかった。城崎は泣きそうになった。けれど決死に堪えた。嫌でも笑っていないと今にも涙が落ちそうだった。


「じゃあさじゃあさ……」


 飼い主の心情とは裏腹に、小春は天真爛漫な笑顔をしていた。彼女は両手の人差し指で左右それぞれの口の端を伸ばして歯を見せている。

 こうしてしっかりと彼女の八重歯の全体を見ることは城崎にとっても初めてだった。彼女のことで知らないことはまだ沢山あるのだろう。

 そう悟ると飼い主は内心やるせなくなったが、声質は変えずに飼い犬に驚いてみせる。


「おお、立派な犬歯なことで」

「でひょ?」

「でもその歯は何かの仮装になるのか?」

「きゅーけつひ」


 彼女は指を離しながら返事した。城崎はハンカチをポケットから出して、涎のついたその指を拭ってやる。


「吸血鬼?」

「うん。本で読んだよ。血を吸う鬼なの。それでね、吸血鬼も私みたいに歯がながーいんだって」

「そりゃあ物騒だな」

「今の私は吸血鬼だよ?こわい?」


 得意げに口を開き、歯を覗かせる小春はどこまでもいたいけな少女だ。城崎は考え込む仕草をした。


「……小春がもしそうならそうでもないか」

「む。それってどういう意味ぃ?」

「そのまんまだよ。君になら血を吸われても何も思わない」

「なにも?」

「うん」

「……かわいいって思ってくれない?」

「それはそう思うけど。小春が吸血鬼になっても怖いとか不安とか、嫌なことは思わないって言っただけだ」

「なぁんだ。よかった、ならいいや」


 安堵の息をつく小春が面白くて、城崎は思わず吹き出しそうになった。


「……それでね?しろさき」

「うん?」

「お菓子くれなきゃイタズラしちゃうよ?」

「あ、本題に戻るのか」


 こくりと素直に頷く小春。


「お菓子ならいくらでもあるんだがな」


 城崎は小春の頭を少々乱暴にくしゃくしゃと撫でてから、ポケットに入っていたありったけの個包装の菓子類を彼女の片手に持たせた。結構な量だったので、彼女の指の隙間からはカルパスやキャンディたちがぼとぼとと落ちていった。

 小春はあからさまに不満そうな顔をして頬を膨らませた。ちょうどガム風船のように。


 しかし彼女はすぐに何か閃いたように目を輝かせると、口笛を吹くように膨らんだ頬から空気を抜いた。彼女はそそくさと床に落ちた菓子を残さず拾い上げると、飼い主から貰った分も含めて、全ての菓子を自身のパーカーのポケットにねじ込んだ。

 素早く無駄のない動きだった。彼女とカルタをしても勝てないだろうな、と城崎は不意にそんなことを思った。

 菓子は相当な量だったので流石の小春も満足したらしいと安心する城崎だったが、彼女の次の言動には呆れ気味に笑うしかなかった。


 小春が再度手を差し出して言ったのだ。「トリックオアトリート」と。城崎は耳を疑った。


「ええ、おい?小春、君、今さ。僕から菓子受け取って──」


 驚くことに、小春は菓子を受け取ったことをなかったことにして、同じ選択を飼い主へ迫ったのだ。


「……お菓子くれなきゃイタズラするよ?」


 そう言いながら小春は城崎に顔を近づけた。お互いの鼻先同士が掠った。

 逃げるように仰け反る城崎は床に手をつき、尻もちをつく。そんな飼い主に彼女は「イタズラ」をしようとじりじりと距離を縮めてきた。


「もうお菓子持ってないよね?えへへへ」

「……いや、残念だったな小春。飼い主をなめるなよ?菓子なんていくらでもあるんだ」


 城崎はもう片方のポケットから取り出したありったけのそれを彼女の両手の上に山盛りにした。小春は負けじとポケットにそれを詰め込もうとしたが、多すぎて溢れかえってしまった。その光景に一人と一匹は顔を見合せると、声を上げて笑った。



 深夜。冷たい夜風が横頬を過ぎていく。寒かった。飼い犬の前では飲めない熱い缶コーヒーが身に染みる。吐いた息が格段に白くなり、さながら煙草の煙のようだった。


 城崎は独り、駐車場で立ち尽くしていた。

 能登谷のデスクに報告書だけ提出してドリームボックスから降りてきた彼は、一旦家に帰って仮眠をとった後、久しぶりに道の駅に出向いていたのである。国道二十三号内にあるそこは職場や家からは随分と遠い所にあり、時間も時間なので知っている人間はいなかった。駐車場には他に数台の車が停まっているが、運良く騒ぐ輩もいなかったので、辺りは静寂に包まれている。

 冬の夜空は曇っていて星は見えなかった。以前に小春と見上げた夏の夜空のことを想うが、寒さでそれも霧散した。寒いはずなのに城崎は外に出ていた。車に背中を預けて立っている自分が何故こうしているのか分からなかった。ただ、こうでもして身も心も独りにしていないと何かが壊れてしまいそうだった。


 握って持つ缶はずっと熱かったが、中身が空になるとすぐにスチールの無機質な温度に戻った。

 ふと、あの音が聞こえた気がした。台風が本格的に襲来してくる前にドリームボックスのどこかで聞いた音──空き缶が風に飛ばされていく、あの物悲しい寂しい音が。

 缶飲料というのは侘しい存在だ。製造コストは遥かに容器の方が価値があるというのに、求められるのは中の安い液体だけ。中身が無くなればすぐに用済みで捨てられる。犬人と同じで、捨てられる事が前提のモノなのだ。


 城崎は手にあるそれを見下ろしながら、前にもこんなことをしたことがあったと思い出す。

 ドリームボックスに転勤してくるよりも前、東京の別の研究施設で仕事をしていた頃。仕事で何か嫌なことがある度、ドライブが趣味でもないのに高速道路を走っては道中のサービスエリアや道の駅にて、何をするでもなくひたすら時間を潰すことが多々あったのだ。

 整備された長い道の最中にぽつんと佇むように待ち構えるサービスエリアや道の駅は、日が落ちてからその真価を発揮する。便利さの話ではない。あらゆる人間を受け止めながらも、殺伐とした荒涼な雰囲気を忘れない空気感の話だ。暗い道の中で、ただそこにある空間。誰も拒まず、去る者を深く追おうとはしない。

 人嫌いで外出の嫌いな城崎でも夜中のここでなら居心地が良かった。人さえいなければ煌々と光を放つコンビニでもいいが、あそこは人が多すぎると彼には思えた。だから今もこうして独りで目的もなく時間が過ぎることだけ待っている。否、目的はあった。落ち込んだ気分が高揚するまで待ち続けている。


 そしてこのような場所にいる限り、そうはならない事も彼はこれまでの経験で承知していた。しかし尚、この場を去るという選択肢を自ら取るには莫大な時間を要した。

 矛盾しているだろうか。それは彼にも分からないものだった。

 例えるなら──そう、今の彼はすねた子供に近い。親に怒られてすねた子供は、たとえ自分の要求をこぼすことなく聞いてもらえたとしても気分を良くしないものだ。周りの大人に適当に当たり散らし、本当に怒られるまで自分の気持ちだけを迷惑も関係なしに発散し続けることに執心する。それと本質的には同じだった。


 他人に当たろうにも、人気がなければそれも躊躇われる。叫んでも、開けた人工的な空間なら、外部に散らばって嫌な自分の声も反響してこない。

 つまり深夜のサービスエリアや道の駅は、城崎という利己的でわがままで人間嫌いで、それでいて自分の他にも大切な存在を持とうとする──複雑極まりないアンビバレントな心理と孤独を抱える人間には自然と結びつくフィールドだったのである。小春との日々の中で嫌のことなんてなかった。むしろ幸福に満ちていた。どんなに辛いことがあろうとも、彼女と一緒ならば軽々と乗り越えられそうな気がした。


 だが、今ばかりはここで過ごすことでしか気が楽になれなかった。独りでいたかった。

 一人の飼い主は深く苦悩していた。かつてのシロのように、今回も愛犬を救えないことになるだろうという予感に。子供の頃と同じく、それに反することも出来ない己の無力さに。


 ──くそ、くそっ!


 火傷しそうな熱い涙が溢れ出た。


 ──小春……。


 万策尽きていた。自分にはもう何も出来ない、と城崎は諦めるしかない状況まで追い込まれていた。

 小春もそれを薄々察していたようだ。年端もいかない少女に気を遣わせてしまって、大人としても不甲斐ないばかりだった。

 おちゃらけた会話をしていた昼間の自分に殺意が湧いた城崎は、缶を思いっきり全力で遠くへ投げ捨てる。


 カコーンと、虚空と闇にスチールの乾いた音が響き渡った。

 急稼働させた運動不足の彼の身体はその一投で悲鳴を上げ、口から吐く息は濃い白になった。


「ちくしょうっ……」


 城崎は車に寄りかかる。

 声を殺すこともなく彼は泣いた。

 涙でぼやけた視界で空を見た。相変わらず黒かったが、道路に並ぶオレンジ色の照明灯からの光が雨のような影を浮かび上がらせていた。城崎の額にその影の正体が音もなく着地した。僅かな冷気。それは雪だった。柔らかなオレンジ色の宙にはちらほらと雪が舞っていたのだ。


 寒さに身体を震わせる。風邪をひいたらまずい。城崎は鼻をすすりながら、よろめくように車内に身を乗せた。


「……もう帰ろう」


 エンジンを入れてヘッドライトをつける。光に照らされて、雪の勢いが強くなっているのが見えた。早くも本格的な冬になりそうだった。

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