第6章 一人と一匹の冬
49話
“彼女は私が知っている犬のうちでもっとも忠実な犬だった……”
──コンラート・ローレンツ『人イヌにあう』
*
秋もすっかり様変わりして冬になる。ドリームボックスが位置する愛知県をはじめとした東海地域も寒くなり始めていた。
少し前に到来してきた台風十三号は完全に日本列島を通過し、海上で消滅したが、本土の被災規模は大きなものになった。愛知県の被災地域も未だ完全な復興と言えるものではなく、土砂や倒壊した家屋郡の瓦礫たちの撤去が寒空の下で続行されていた。山中のドリームボックス自体は無傷だった。ゴミを集積する集積区から綺麗さっぱり粗大ゴミが片付けられた程度に被害が留まったことは不幸中の幸いだった。因みに城崎が住むアパート周辺も比較的無事で済んだ。
それとも、今ある犬人製造設備ごとすべてを破壊してくれれば良かったのだろうか──城崎はふとそんなことを考えた。
山の下では行方不明者の捜索などは引き続き取り組まれている。もう生存者はいないだろう。それでも遺体としての発見は残された遺族には絶対に必要なものだ。
──もし現在に犬人が社会に普及していれば。
あの時の競技のことだけが頭に浮かぶ。正に今、山の下の市街地では格好の競技セットが掃いて捨てるほどあるではないか。
もっと施設側が犬人の存在を世間に公開していれば、今回のような災害後に積極的に犬人を実戦投入して試験的な運用も出来るだろうに。データの欲しい施設側も人手の欲しい被災現場も誰もが幸せになれる道ではないか。何故それをしない、と城崎は半ば投げやりに思考をめぐらす。もちろん、それが現状不可能なことは分かっている。犬人の開発や研究自体もその歴史は深いものではない。未知の領域が多すぎるのだ。実際、ここで働く研究員ですら犬人に自我や意識と呼べるものが宿っているのか──それすら分からないというのに。
城崎は情けなさと憤りが混在したため息を吐くしかなかった。
「しーろさきっ」
その声に、城崎はため息を途中で止めた。
昼休憩中の食後。南棟のいつもの方を小春の自室にて。隣に座る彼女に呼ばれた城崎は、薄汚れた窓ガラスを眺めていたぼんやりとした視線を彼女に向ける。無理に笑顔をつくる。
「どうした?小春」
「はいっ」
彼女はえへん、とでも鼻を鳴らしたげに手を飼い主の方へと出した。競技での傷は治って、包帯も外されている。華奢で白い手は滑らかで綺麗だった。
「なんの手?僕に“お手”?」
その手に触れる。肉と血の温かみ、生きている熱が城崎に伝わってきた。
彼は小春の手をしっかりと握った。彼女はくすぐったそうに笑った後、「そうじゃないよ」と慣れない苦笑いを作ってみせた。
「トリックオアトリート!」
「……ん?」
「だからね、トリックオアトリートっ。お菓子くれなきゃイタズラしちゃうよ?」
「何の話?」
「あれ?しろさき、もしかして知らない?」
まるで突拍子のない話題が振られておかしくなった城崎は喉の奥で笑い、小春から手を離す。
「ハロウィンのことか?でももう十二月だぞ?」
「え〜。いいじゃん。だってさ、今年のハロウィン……試験のこととか色々あったから忘れてたんだもーん」
「そういえばそうだったな」
一人と一匹の間に沈黙が雪のように降り積もる。そこに除雪車が来る気配はなかった。ただ真っ白な不安からくる重い沈黙が、無情にもこれまで歩んできた道、そして向かうはずだった先の道を埋めていたのだ。
晩秋から日程通りに進んでいた試験の全ての競技はとうの昔に終了していた。今年の秋の試験は幕を閉じたのだ。その後、上層部の面々は数週間かけて審査を行った。結果も既に発表されている。
災害時における救助犬の模擬競技で、小春はマネキンではなく、同競技中に大怪我をした195の救出に当たった。
その行動が研究員たちから評価されることはなかった。むしろ最初は、問題児として見られていた彼女が何らかの原因で激情に駆られ、瓦礫の山の中で195に手を出したのだと見なされていた節さえあった。195の証言ですぐにそれは否定されたが、結局のところ制限時間内に代替マネキンの回収を果たせなかった小春は、犬人としての素質や能力が認められることはなかった。犬人の試験はひとつでも落ちた時点で弾かれる決まりだった。そうしてふるいにかけて、最後の競技終了時点まで残った個体を優良個体として認可する仕組みだ。小春はこの半年近くの城崎との特訓の成果を充分に発揮できない消化不良のままで落選の判定を受けたのだった。
無論、城崎は審査の結果に憤った。第一に小春は雑種の柴犬であり、介助犬や盲・聴導犬に適性がある犬なのだ。それにもかかわらずに災害救助の競技で能力値を測る自体が恣意的なものではないのか。
そう考えた城崎は上層部に対してボイコットまがいの抗議を何度も敢行したものの、いまひとつ効果はなかった。去年の時点で試験に合格している195が再試験を受けることになった理由を上層部から再度提示された城崎は黙るしかなかった。
今年の試験からは方向性が変わっていたのだ。今後は犬種の能力による状況の向き不向きは問わないことにして、包括的にテストすることになったという事実があったのだ。これはたしかに城崎も以前に佐中から聞いていた事情であるし、195が彼に任されたのも元はと言えばそれがきっかけだった。そこに何としてでも小春を処分したいという上層部の目論見を見出すことは出来なかったのである。
能登谷を脅すような形で獲得した殺処分の撤回の最低条件は、小春の試験合格。
小春の本来の能力ならば合格してもおかしくはなかったが、思いもよらぬアクシデントで崩れ去ってしまった。そこに上層部の画策云々というのは流石に無理があった。つまり、一人と一匹は上層部との正攻法の勝負に負けてしまったのだ。
それでも、と城崎は必死に能登谷や佐中を説き伏せようとした。普段は絶対に使わないであろうゴマをするような態度やおべっかを多用して良い部下を精一杯演じた。しかし現状、195のみに監督責任がある彼のその行動は逆効果だった。195の合否を全く気にすることなく、元担当の個体を擁護するのがあまりに不自然に映ったのだろう。
結果的には城崎の行動が噂となって広まり、施設全体の人間たちから不審の目をかうことになるだけで終わってしまった。
まさに、刀折れ矢尽きるという状態だった。
正直なところ今度ばかりはもう駄目だと諦めていたが、妙なことに小春はこの状況に落胆していない様子だった。たった今さっきの一人と一匹の間に降り積もった冷たい沈黙も、そのほとんどを城崎がつくったと言ってもよかったほどに。
小春は何故か落ち着き払っていたのである。城崎にはそこが腑に落ちなかった。だが彼女が生きられる時間が来年の春までに限られる可能性が再浮上してしまった以上、もう彼女に怒りたくもなかったし、口酸っぱく叱りたくもなかった。
小春が幸せになれるように自分の時間を使って、力量が許す限りは彼女の意向を最大限に聞いてあげたい──城崎が望むのはそれだけだった。
試験の合否発表後、佐中から直接呼び出しがあって口頭伝達された。殺処分の決行予定日は来年の三月十五日で変更なしとのことだ。
──もう時間はないんだ。
元が優秀だった195の今後は現在検討中らしいが、どのみち彼女のことなど眼中になかった城崎にとっては担当個体の退場は好都合だった。今のところ担当の犬人が居なくなって暇になれたからだ。
デスクルームに居ても例によって噂と嫌な注目の的だったし、それで彼は思う存分、誰に
回避できないであろう数ヶ月後のことに巨大な不安と恐怖はあったが、目の前の小春は変わらず愛おしい存在だった。城崎にはもう醜い現実に立ち向かうだけの余力はなかった。
小春だけが、小春こそが──城崎にとっての現実だった。
「──ね、それでしろさき。お菓子くれなきゃイタズラしちゃうよ?えへへ、いいの?ね?」
城崎の曇天とした顔つきを薙ぎ払うかの如く、小春は満面の笑みで悪戯っぽく言った。
「菓子か……ないと言ったら、どんな悪戯をするつもりなんだ?」
「どんな?うーん、なんだろ?」
小春は腕を組んで首を傾げる。
「本でハロウィンのこと知ったけど、大人はね、みんなお菓子を子供にあげてたから……もらえなかった子はいなかったよ?だからイタズラはなにをするかは私知らないなぁ。しろさき、知ってる?」
「僕も分からん。まずハロウィンなんてまともにやったことがないから」
「そーなんだ」
「そうなんだよ」
一人と一匹の隙間空間に静寂が訪れる。今度は城崎ではなく小春由来の静けさだった。
彼女は微かに頬を赤らめて口元が緩んでいた。
「じゃ、じゃあさ」
「なに?」
「私が考えたイタズラ……していい?」
「いいとは言ってないぞ」
城崎は咄嗟に白衣のポケットをまさぐった。彼は身体を寄せてくる小春の右手を掴むと、ラムネ味のガムや個包装の小さなカルパスを握らせる。コンビニで買っておいた彼女の餌付け用の菓子類である。
小春はきょとんとした後、複雑な表情で「あるんだ」と呟いた。城崎は彼女の頬に手を伸ばして触れる。少し熱かった。彼女は飼い主の手の上に、菓子が握られていない自身の左手を被せるように重ねた。
「……しろさきの手、おっきいね」
「そうかな?あ……前にも似たような話をしたような」
「うん。したよね。あの時のこと、ちゃんと覚えてる?」
「もちろん」
「じゃあ問題だすね」
「問題?」
小春は城崎の手をゆっくりと自分の頬から退けて、頷いた。
「私の握力は何キロ?」
その目は無邪気だがどこか飼い主を試す犬の目つきだった。
問題自体は以前どこかのタイミングで彼女と交わした他愛もない会話の内容だ。
「百」
「即答だねしろさき。正解だよ!すごいねっ。ホントに覚えていてくれたんだ」
「当たり前だろ。じゃあこっちも問題を出す。あの時、百キロぐらいと聞いた僕は小春になんて返した?」
「えっ」
小春はぎょっとしたように表情を強ばらせた。まさか聞き返されるとは思っていなかったのだろう。城崎は珍しく意地悪くほくそ笑んだ。
「なんだひどいな小春、君の方は覚えてくれてないのか?」
「ち、ちがうよっ。その、ね?覚えてるけど、ちょっと私の口からは言いづらいみたいな……」
挙動不審に視線を泳がせる小春は、菓子類を両手で弄んで気を紛らわそうとしていた。頬は一段と林檎のように赤くなっていた。際立った青い瞳が煌めく。身体が揺れる度に白髪や耳、尻尾が踊る。彼女は低い唸り地鳴りのような困り声で飼い主をもどかしそうに見上げた。
「しろさき、いじわる」
「ん。それはギブアップと捉えて差し支えないかな?小春?」
「……もう。やっぱりいじわる。あの時のことでしょ。か──“可愛い”って……しろさきは言ってくれたよね」
暖房のついていない部屋は肌寒かったが、恥ずかしさから熱くなった小春の顔は空冷では冷えきらず、仄かに湯気が立ちそうだった。犬人の少女は大いに照れていたのだ。
「覚えていたのか」
「……うん。ねぇしろさき、ガム食べていい?」
さらりと話を逸らす小春は飼い主にそう訊ねた。
「いいぞ」
微笑ましい素振りの小春に城崎は頷く。もちゃもちゃと普段よりガムを大袈裟に噛む彼女は、まだ顔が朱に染まっていた。照れの感情をどこにぶつけていいのか分からない様子だった。彼女はガムをひとしきり噛むと、もう一枚ガムを口に含め、何回か噛んでから風船のように膨らませた。
「お。小春、ガムで風船作れるんだな」
「んふふ」
犬人の肺活量でみるみるうちに膨らむ風船だったが、すぐにぱんっと弾けて萎んだ。その後も彼女は何度か膨らませては自然に弾けるまで風船を作り続けた。
満足したのか小春はティッシュに口の中のガムを捨ててから、飼い主の方へ向き直る。
「すっきりした」
「ん、何が?」
「言わせないでよ、それは」
小春の頬にさっと朱色が走った。小春は照れた気持ちをガムで誤魔化したつもりなのだろうが、すぐに表情を戻す。飼い主といる時、彼女は普段から若干口角が上がった微笑でいることが多い。だがこの時の笑顔には少しばかり暗い笑みが含まれていた。
「……ねぇねぇ、しろさき」
「なに?」
小春は迷ったように眉を下げてから、舌を出して笑った。
「ごめん。なんでもないよ。その……お菓子ありがとね」
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