48話

 小春は瓦礫の山の中で懸命にもがいていた。

 身体を通しているのは瓦礫の中にある細い隙間。行く手を塞ぐのは、壊れたコンクリートの破片や鉄骨たち。

 僅かに確保できたスペースにもびっしりガラス片や皿や空き缶などのゴミが散乱しており、犬人の侵入をことごとく拒んでいた。その中を這って進む彼女は苛立ち、焦っていた。


 ──ない。ない……見つからない。


 首筋にだらりと汗が垂れる。手先は障害物に擦った浅い傷から多少血が出ていたが、痛みは気にするほどのものではない。対犬人用の二十二口径ライフル弾でできた擦過傷からの多量出血を経験したことのある彼女からすれば尚更のことだった。

 小春はちらりと左手首に装着された無骨な腕時計に目をやる。競技開始直前に犬人に配られた装備品だ。経過時間と現在時刻だけ把握できる簡易的な時計である。時計は残酷にも四十分の経過を告げている。残り二十分。それなのに、未だお目当ての物が見つからなかった。彼女の心臓の鼓動がどきりと早まった。

 異動の話で、一ヶ月もの空白期間があった彼女は、この競技に向けた本格的な訓練は飼い主と行うことが出来なかった。

 したがって初めての救命捜索の模擬なのだ。テキストを黙々と読み進めていた彼女は教本通りに形だけは順調に行っていた。隙間という隙間の道を発見しては虱潰しに生存者の捜索を続ける古典的な手法だ。だが成果はない。

 突き出た金属片にフードが引っかかり、首を締めつけられた。小春は雨合羽を脱ぎ捨ててからすぐに歩を進める。


 ──絶対しろさきとデートするんだもん。


 合格して生き残る。そして飼い主に外に連れて行ってもらう──これら全てが小春の原動力となって彼女の身体を止めなかった。それなのに、マネキンの方は一向に出てこない。無臭で声も上げない人形を探し出すのは至難の業だ。

 研究員たちが瓦礫の奥深くにマネキンを設置する時も、彼らはゴム手袋をしていたのでマネキン側には一切人間の匂いは付着していない。現実の被災現場なら犬は生存者の体臭を辿れるが、この競技は犬人の能力値を測る観点もあるので、本番よりも高難易度に設定されているようだ。雨風で瓦礫の山も安定していない。地下深くに染み入る水のように、小春の頭には建材の地層からの雨が滴っていた。いつ崩落してもおかしくはない危険な状況である。


「もうっ。この!」


 苛立った小春は力任せに目の前の数十キロはあろう重厚な木製の柱を片手で退かした。すると偶然にも全く別のルートを発見し、彼女の顔つきは明るくなった。

 その道は特に鋭利な障害物ばかりだったが、怪我をしながらも強引に前進する。少し進んだところで大分開けた空間にたどり着いた。膝立ちで頭上の建材に頭をぶつけてしまうぐらいの空間だが、崩れた家屋という状況設定を考慮すると、運良く形成されたスペースだ。

 空間中を見渡すが、ここにも目的の代替マネキンはなかった。

 彼女はため息をついた。吐く息は彼女の髪のように真っ白だ。絶え間ない全身運動と雨で凍てついた晩秋の空気が摩擦を起こしていたのだ。


「……う」


 引き返そうとした小春は足を止めて、ばっと振り返った。何者かの呻き声が犬耳に届いたのだ。


「誰っ?」


 小春は声を上げて声の主に問うが、返事はない。匂いもなく、視界にもその姿は認められない謎の存在。小春は背筋に寒気が走る。


 ──ユーレイ?


 身震いした。七夕の時に飼い主がした話が不意に出てくる。ドリームボックスがあったこの山中には、かつて防空壕があったそうだ。まさかね、と小春は小さく笑うが恐怖は拭えなかった。彼女は自身を落ち着かせるように現実的な見方をしてみる。


 ──それとも準備してた大人がとり残された……とか?


 競技開始前、この倒壊家屋のセットが準備されている様子を廊下から眺めていた小春はそう考えた。もし本当にそうだとするなら競技どころではない。すぐに恐怖心が消え去り、彼女はマネキンと並行して声の主を探すことにする。

 瓦礫の壁際に手をやって進む。どうやら今いる空間は上から見ると凹の字型のような若干入り組んだ構造になっており、きちんと周回しないと見落としてしまうエリアがあったようだ。


「あ……あ、うっ」


 声がまた聞こえた。一段と大きな悲痛な声。やはり幽霊ではない──だが小春は何故か妙な恐怖に襲われた。その声がまるで自分の声に思えたのだ。

 これまで視界に映らなかった所に回り込むと、小春は目を見開いた。そこには、太いコンクリートの支柱は空間を支えるように天井から地面へ突き刺さっており、その下敷きになるようにして一匹の犬人が倒れていたのである。

 皮膚の下からはみ出た骨とピンク色の筋肉がぐちゃぐちゃになった腕、血溜まりとなったゴミの地面、虚空を仰ぐ青い目、血で染まった髪──。ホラー小説で読むのとは全く違う、刺激が強すぎる光景に小春は数秒立ち尽くしてしまった。


「だ……だ、大丈夫っ?」


 我に返った小春は怪我人の犬人の元に素早く寄って屈んだ。彼女には息があり、目も生気が消えかかっているようだが、近寄ってきた小春の顔を追っている。重症だが辛うじて生きていた。潰れかかっているのは同じF型の少女だった。小春が自分の声に思ったのは本当に同じ声をしていたからだろう。体臭を捉えられなかったのも、自分の匂いは自分では分からなかったからだ。

 怪我人の犬人の脇には代替マネキンが転がっている。どうもマネキンを回収しようとしていたようだ。運悪くそのタイミングで、外の強風に煽られ瓦礫の山全体の共鳴で崩れたコンクリートの柱によって背中から押し潰されたらしい。

 彼女の傍で膝をついた小春は、コンクリートの柱を退かすため全力で持ち上げようとするが、犬人の怪力をもってしてもビクともしなかった。柱は頭上の他の建材としっかり噛み合っていて、横に退かすことも出来ない。殴って破壊しようとも考えたが、これを壊すとどこまでこの家屋の山にダメージをもたらすか分からなかった。生き埋めになることだけは避けなければならない。

 怪我人の犬人を見下ろして、小春はまた焦った。流血は滝のようだったのだ。


 ──どうしよう、どうしようっ?この子、血、血が出てる。


 小春は慌てふためきながらも、自分の服をちぎって怪我人の犬人の重症箇所を縛った。それでも真っ赤な血はとめどなく溢れ出る。

 止血方法については飼い主から教わったことがあった。飼い主から止血された稀有な経験も彼女にはある。脱走の際に警備部隊から撃たれたライフル弾が横腹と足を掠めた時のことだ。その後も何度かテキストで応急処置については学んでいたつもりだったが、ここまで大怪我のケースは勉強したことはなく、彼女は自身の不甲斐なさを痛感した。

 災害時の犬人の行動についてまとめたマニュアルの内容では、犬人は独断遂行せず、トラブルがあった際には現場を指揮する人間の指示に従うように書いてあったと記憶からすっ飛んでくる。一度引き返して指示を仰ぐべきだ、と小春は思った。

 腕時計を見る。残り時間は十五分はあった。よし、と小春は怪我人の犬人に耳打ちする。


「待っててねっ。今、人間の大人に伝えてくるから。死んじゃダメだからね」


 そう言われた犬人はぱくぱくと口を動かすだけだった。空気が抜けたような力のない声が微かに聞こえてくる。


「……よん」

「え?何?」

「にぃー、まる、よん」


 その犬人は吐血しながらも確かにそう発した。シリアルナンバーだ。小春は一旦去ろうとしていた腰を再び下げて、彼女の手を握る。

 

「……どうして私の番号を?」


 邪魔になるとの理由で、全ての犬人は競技中は胸元のネームプレートを外すよう言わていた。小春も付けていなかった。


「私だ……いち、私は……195だ」


 怪我人の犬人──195は虚ろな目で言った。

 小春は彼女の頭を見た。忘れもしないシェパードの耳。どうしてすぐに気がつかなかったのか。思わず小春は後ずさりした。



 荒む風。容赦なく降る雨。

 競技の残り時間は五分ほどに差し迫っていた。回収されたマネキンの総数はほぼ全個数揃っている。あと一匹か二匹分しか残っていないだろう。

 半ば諦め気味に三階の窓から競技用の倒壊家屋のセットを眺めていた城崎は、そこから一匹の犬人が嵐の地表へと出てくるのを目撃した。耳と尻尾を見て、それが小春だと反射的に理解する。彼女は人体らしき物をおんぶするように持ちながら、施設の建物へ駆けていた。


 ──よかった!


 強い安心感が湧いて出てくる。城崎は胸を撫で下ろした。小春は無事に代替マネキンを見つけてきたようだ。かなり遅かったが、ひとまず自分の飼い犬も競技クリアという訳だ、と彼は冷や汗が温まるのを感じた。三階に他の人間さえいなければガッツポーズさえとっていた自信があった。

 元担当という立場とはいえ、城崎にとっての犬は彼女だけだった。彼女さえ助かればそれで良いのである。その彼女が最初の関門を突破してくれたのだ。飼い主にはそれが嬉しかった。

 しかし彼女の様子は少しおかしい。背負っているはずの人体は、普通の人間ならば生えているはずのない器官が備わっているように見えたのだ。気のせいだろうか。小春が運んでいるのはマネキンではなく、もう一匹、何か別の犬人のようにも見えたのだ。


 ──なんだ?どうなって……。


 競技の様子を観察していた他の研究員たちも異変に勘づいたようで、どよめきが一瞬で広がった。


「……医療班っ!早く下へ!」


 誰かが叫んだ。

 城崎は、そこで呑み込みたくない現実を突きつけらた。


 小春が運んでいたのは競技合格に必要なマネキンではなく、大怪我をした195だということに。残り時間は三分を切った。

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