47話
朝日が登り、午前八時を回っても外は暗かった。台風の影響下に晒された地域の被害は甚大なものであり、雨風は衰える余地を感じさせなかった。
そんな折、愛知県の山中に人目を避けるように建設された高等技術研究施設・ドリームボックスでは、広い中庭を使った競技の準備が突貫で進められていた。犬人の評価試験用の物だ。台風で公共機関が完全に機能停止したこともあり、車で出勤してきた職員たちを問答無用でかき集めて対処していた。その甲斐あってか予定通りに始められそうな状況だった。
普段ならば雨合羽とヘルメット姿は施設の中ではお目にかかれない。今日ばかりは白衣よりもこちらの服装の職員が多かった。
「代替マネキンの設置は?」
嵐の中で、懐中電灯を手にした現場指揮の人間が拡声器を通して職員の一人に首尾を訊ねた。
「問題なし!準備完了しましたっ」
職員は声を張り上げて答えた。
「ならよし。現場の研究員全員、もう切り上げろ」
現場指揮の人間の指示により、中庭での作業を終えた研究員たちはそそくさと施設の建物に退避していく。
雨と風に殴られない安全な室内へと戻る。遅れてやってきた最後の一人が外との出入り口を閉めると、室内には疲れた様子の愚痴や安堵の声を漏らす彼らの喧騒で満たされた。
その光景を横目に、研究員たちの群れからは距離を置いている城崎は雨合羽を脱いだ。彼も先程まで中庭で作業していたが、騒がしい彼らと労い合う素振りはなく、頭の中はこれから始まるであろう競技のことでいっぱいだった。
──いよいよ始まるのか。
中庭に視線を移す。そこには倒壊した家屋を模して作られた瓦礫の小さな山がいくつかあった。
地震、あるいは今回のような強力な台風による被災時、崩壊して人間を下敷きにした建物が発生することは言うまでもない。将来的には県や自治体がドリームボックスから適切な犬人を買い取って非常時の災害派遣での労働力にするという案があるが、犬人の試験ではそうした社会モデルを念頭に置いた模擬的かつ実践的な競技が行われる。これもそのひとつである。
瓦礫の山には、代替マネキンという人間の成人男性クラスの重量を持ったマネキンが何体も隠して埋められている。犬人たちにはそれをいち早く発見、回収することが求められる。高度な人命救助の模擬戦という訳だ。
複数の犬たちが合同で行う競技だが、これはチームプレイではない。あくまでも犬人の個体別の性能を測るためのものなので、同時に作業する犬人たちはお互いがライバルになる。城崎は廊下の奥で整列して待機する犬人たちを盗み見る。F型の少女が多いので見分けがつきにくかったが、雑種の犬耳は一体だけなのですぐに彼女を発見する。
無論、小春のことだ。周りには発覚しないよう、気を配りながら城崎がさっと手を振ると、彼女の方は何度か薄く頷いて尻尾を右に揺らした。
小春のすぐ近くに195もいたが、彼女は何も反応はしなかった。
「所長。競技の準備が整いました。ご指示を」
犬人たちがいる方向とは反対側の通路で、その声がした。城崎は振り返る。
濡れた雨合羽から滴る水を気にすることもなく廊下を汚すのは、さきほどの現場指揮の担当の人間だった。彼は白衣姿の上層部メンバー二人と話をしていた。
「分かった。予定時刻通りに始めろ」
「承知しました」
「競技の進行及び指揮は能登谷に一任する。何かあったら私ではなく彼に言いつけるように」
「げぇ。俺ですか」
「不服か?」
「いえ、なにも……そういうわけでは──」
能登谷が佐中から面倒事を押し付けられているらしい。城崎は内心でシニカルな笑みを浮かべた。
その後、犬人たちの点呼や時間調整で十分程度経ってから、競技開始を告げる放送が流れた。犬人たちが順に誘導されて荒れる外へと飛び出していく。厳しい環境下での野外競技が幕を開けたのだ。
状況を俯瞰的に把握するため、三階の廊下に移動した城崎は中庭を見下ろしながら小春を目で追っていた。人間ではとても耐えられないような雨風に体当たりで少女たちが走っていく。
皆、犬耳を保護するためにフードが大きい犬人用の雨合羽を着用していたが、唸る風ですぐに頭部が露出してしまった。悪天候もここまで極まると犬特有の嗅覚や聴覚も満足に機能しない。特にどちらの器官も生えている頭部が雨と風に打ちつけられて冷やされ続ければ、体力が低下して長時間の行動も難しくなるだろう。
城崎以外にも三階の廊下にはそれなりに職員たちがいた。その中の何人かもフードの構造的欠陥について互いに熱心に語り合っている様子である。試験は過去に何度も行われており、その度に犬人の着用衣服には改良が施されていたが、未だにデータが少ないようだ。特に今年の台風は別格だった。昨年度時点の反省を踏まえて対強風用に固定部品を追加した雨合羽もまったく役に立たなかった。
この競技は制限時間内にマネキンを回収できたかで評価が決まるものだ。タイムリミットは一時間と短いものだが、悪天候の中でそれだけの時間は酷なものだ。
犬人といえど基礎は人間だ。犬も人間もどちらも恒温動物である以上、過度な熱や冷却には身体への負担がかかる危険なものになる。
──大丈夫か?
城崎は不安になって、愛しい飼い犬の後ろ姿を観察する。
廊下での整列時に三列目で、競技開始時点で比較的早期の段階で外に出ることができた小春は、最も近くにある倒壊した模擬家屋の山に容赦なく突っ込んでいた。
剥き出しになった鉄筋コンクリートの鉄筋部分や瓦、割れた窓ガラスなどをものともせず、彼女は果敢に瓦礫の隙間の奥へ奥へと入っていく。
「すごい……」
城崎は思わず感嘆の言葉を呟いた。あれだけ甘えん坊だった彼女が周囲の個体にも劣らぬ勢いで、きちんと競技に取り組んでいる。このような飼い主故の感動もあったが、犬人の強さを再確認したところによるものも大きかった。
犬人は災害時に役に立つという予測は、犬人の研究が始まってからすぐに研究者内で挙がっていたことだ。確かに家屋の巨大な建材を効率よく退かせるのは従来型の大型重機たちだ。しかし彼らは、道が塞がっていては思うように行き来できず、孤立した人口過疎地域への救援活動は現状では非常に時間のかかるものとなる。
それが犬人ならば、その脚と身体能力でどんな地形や難所でも踏破し、被災地への即時派遣が可能となるのだ。小柄な体躯で救命活動も思うがまま。おまけに文句も不平も言わない。食事は水と簡素な糧食を携帯させればいい。
県や自治体が遅れがちな対応も、災害派遣のための要員や無駄の多いボランティア集め、彼らへの教育、指揮、移動手段の確保といった人材にまつわるネガティブな話が全て消し飛ぶのだ。法整備さえ進めばの話だが、少々の観測用ドローンさえあれば今どきは現場の確認も容易であるし、犬人の働きの観察、最終的な指示のために生身の人間が数名必要になるが、ほんのそれだけの低コストで災害時の救命活動というものを高速化できる。
しかも犬人は死んでも「替え」がきく。ドリームボックス製造プラントに貯められた原形質培養液・あばら液さえ尽きなければ、人と犬の遺伝子を掛け合わせていくらでも製造できる。
これらのことから、もしも犬人が社会で扱われるようになれば、災害大国日本における救命活動の根本を根こそぎひっくり返すことになることは間違いない。
だが犬人の影響は既存産業に打撃を与えることになるだろう。感染症騒ぎで人口も減り、全盛期に比べて衰退したとはいえ、造船を除けば、重機や工事用の車の開発や製造に整備などは日本の製造産業の中核を成している。
加えて、これらは災害時の使用のみならず普段のインフラ整備などにも密接に携わっている。この産業が犬人によって破壊されてしまう危険性があるかもしれないのである。
つまり犬人は数十万人規模の雇用を驚異に晒すのだ。既存産業の需要が低迷した時、果たして黙っていられる人々がいるのだろうか。ラダイト運動が手本となって、再び人が犬を殺す構図を持った、狂った世界が生まれないことは誰も保証できないのだ。
城崎は、小春とした約束を思い出す。
デートの約束。一緒に外に行くという、たったそれだけの口約束。
この約束が周りからお咎めを喰らわない社会──要は犬人が社会に進出しきった世界になったとして、それは本当に誰もが望むものになるのだろうか?
自問する城崎だったが、今は考えないことにした。どのみちここで独りで悶々としていたところで結論は出ないのだ。
──でももし、犬人が浸透した世界なら……小春をどこにでも連れて行ってやれる。
けれど犬人自体も開発途上な代物だ。これから犬人の研究が進展し、社会に受け入れられるようになるには最短でも十年近くの月日がかかるのは避けられない。
それに小春が見たい外の世界は陰気な大人の策謀で生まれたものではない。写真で見せたような美しい風景に彩られた世界たちだ。
無機質で狭く、面白みのないドリームボックスという世界に生きていた小春のために外に連れていくのに、その外の世界がドリームボックスと同じように血塗られた大人たちの暴虐と策謀で生まれた、貧相でくだらない世界だとしたら、彼女のためにならないだろう。
いや、と城崎はかぶりを振って、風で小刻みに揺れる窓に手を這わせた。眼下には小春が潜っている瓦礫の山がある。
──それでも約束を守るよ、小春。今度こそ。
薄く笑った彼は口に出さずに一匹の犬へ誓った。
──今のまま犬人が世の中から認められなくても、一度は君とデートするよ。こんな狭い施設の中じゃなくて……広い外の世界で。それこそ、君を連れ出してでも。
競技開始から二十分が経過した。雨嵐から逃げるように全ての犬人が瓦礫の山々に全身を潜らせ、お目当てのマネキンを引きずり出そうとする中で、早くも最初の一匹がマネキンを背に抱えた姿で瓦礫の中から出てきた。
その犬人は小春でも195でもなかった。彼女に続くように、次々と他の個体たちがマネキンを抱えて出てきている。大半が邪魔になったのか雨合羽を既に外していて、障害物や金属製の突起物に引っ掻かれたような血まみれの肌を露出していた。瓦礫に揉まれながらも試験に合格しようとする彼女たちの意気込みは半端なものではない。
でもそれはうちの小春も同じだ──と城崎は競技の様子を上から見守っていたが、更に二十分ほど経過しても一向に彼女は姿を現さない。
マネキンの数は、競技に参加する個体総数の三分の一程度に設定されている。既にその八割を超える犬人たちが地上に出てきており、施設の中へと戻ろうと歩いていた。
──何をしてるっ?小春!
城崎は焦る気持ちを抑えながらも、彼女を想うことしかできなかった。
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