46話

 それにしても、と小春はタオルケットの中で怪訝な顔つきになった。

 彼女はあの時の樗木との会話を思い返していた。この部屋で、飼い主が来る前に行われた秘密の話し合いのことだ。

 樗木が発した一字一句を記憶力を頼りに頭の中で書き起こす。小春は何度かそれをした後、柄にもなくため息を吐いた。頭痛が彼女を襲う。瞬きすると、目元に熱い涙が溜まっていることに気づく。


「しろさき……」


 そう呟いてから涙を拭った。


『城崎くんのためなの』


 怜悧な口調の樗木から語られる、受け入れ難い未来たち。

 小春は今日も戸惑っていた。飼い主のためを思うならばこのことは伝えない方が良いのだろうか、と。

 最後の最後までひた隠しにして、黙っていた方が彼を傷つけないで済むのだろうか?担当をやむを得ず外れてから一ヶ月もの期間、彼が敢えてこちらに接触を図らなかったのと同じように──。小春は文字通り頭を抱えて悩んだ。


 思考能力を酷使していたが、やはり対人経験の少ない小春には難しい問題だったようで、すぐに疲れてしまった。ひとつはっきりとしているのが、飼い主の幸福のためなら自分はどんなことでも可能だということだけであり、小春にとってはその結論に至っただけでも満足なものだった。


 ──なにがあってもしろさきのために。


 自分に言い聞かせるかのごとく、小春はこくりと頷いた。

 彼女が飼い主への自身の愛情と忠誠心を確かめている最中、近くの落雷が収まった。遠雷も調子が悪そうだった。変わらず雨と風は外を支配しているようだが、雷は峠を去ったらしい。

 意を決してタオルケットからそっと顔を出す。


「……雷、どっか行っちゃった」


 ぽつりと言ってから、小春は曇っていた口角を上げた。


「やったね」


 機嫌が良くなった小春はするりと身体を起こす。思いっきり伸びをして本調子に戻し、彼女は足元に無造作に転がるタオルケットを拾ってたたんだ。

 が、またも落雷。不意をつかれた小春は声にもならない悲鳴を叫んだ。


 どたばたと走り回る間にも二、三度も雷の追撃があった。雷鳴と閃光が、高性能ながらも感覚過敏な身体機能を備え持つ小春を驚かす。彼女はせっかく折りたたんだ外皮を広げると、それで全身をくまなく覆い、再び饅頭の餡子に戻った。


 ──しろさき、しろさきっ。早く来てよ……!


 がたがたと擬音がつきそうなほど情けなく震える小春はそう切に願ったが、出勤時間帯まではまだ時間があることは知っていた。それでも飼い主のことを考えながら、落雷の恐怖に打ち勝とうとするので精一杯だった。

 ノックの音がしたのは、それから一分ほど経過した後のことだった。


「え?」


 塞いでいた耳が鋭敏に捉えたのは外から扉を叩く音。小春はタオルケットを被ったまま、匍匐前進のように床を這って廊下側の玄関扉へと移動する。

 そこでやっと立ち上がった小春は、ドアノブに手をかけて解錠し、僅かに扉を開けた。


「あ、おはよう小春」


 そこには白衣姿の城崎がいた。


「あれ……し。しろさきっ?」


 小春は予期せぬ飼い主の帰宅に目を輝かせたが、ずぼらな出で立ちの自分に羞恥心が芽生えた。タオルケットを脱ぎ、ぼさぼさの白髪をもう片方の手で軽く整える。


「早く来て悪いな」


「そんなことないよ!お、おはようしろさきっ。驚いちゃった……どうしたの?えへへ。まだお仕事の時間じゃないよね?」


「なんか眠れなくてさ」


 飼い主と同じで寝れなかった小春はこれを肯定して、「私も」と言おうとしたが、タオルケットを片手にしていることが災いして「そうなんだ」とだけ返答した。傍から見れば、起床してすぐの犬人に映っているであろうから。


「小春はちゃんと眠れた?」


「うん」


「もしかして僕のノックで起こしちゃったか?」


「ううん、いいの。しろさきが来てくれただけでも嬉しいから」


「そうか」


 城崎は遠慮がちに微笑んだ。彼の笑顔が見れただけで、小春は空腹であることをすっかり忘れてしまった。


「早く来たのはいいが、この時間だとデスクルームが開いてないんだ。だから少し部屋にいさせてくれないか?」


「いいよ!もちろん」


 予想外の幸運な出来事に、幸先いいなと小春はにっこりと笑って応える。彼女は飼い主を自室と招き入れた。ついでに朝食の糧食を出入口のポストから回収する。


 奥の部屋に行き、城崎はいつも通り椅子に座った。小春は彼の足にくっつくようして、ぺたりと床に座る。


「そういえばここに来る時、なんか凄まじい悲鳴が聞こえた気がしたんだけど……」


「違うもんっ」


 小春は食い気味に答えた。落雷直後の叫び声のことはどうやら飼い主の耳にしっかりと届いていたらしい。恥ずかしくなって乱暴に首を横に振った。


「ん?え?」


 城崎は困惑した。


「違うもん」


「あー……えっと、あれは小春の悲鳴じゃないってこと?」


「……雷なんて怖くないもん」


 小春は泣き消えそうな細い声で頷いた。そこで彼女の心情を察した城崎は空咳する。この件はこれで終わりだという彼なりの配慮の合図だ。


 短い沈黙の中、流れるような遠雷が地鳴りと化して周期的に響いていた。小春は飼い主の足に更に密着する。日が登りきっていない早朝は、秋とはいえ冬に近い冷涼な空気で満ちていた。


「今日から試験だが大丈夫そうか?」


「分かんない」


 小春はぶっきらぼうに言いながら、ようやく空腹を訴える胃に食物を送ることにし、糧食のビニール製のパッケージを破いた。固いビスケットが数枚収められており、彼女はひょいとそのひとつを口内に放る。


「野外の競技、小春がやってる時に見ててあげるから頑張れよ」


「ほんとっ?」


 口の中のビスケットを呑み込んでから、小春は声を上げた。


「本当だよ。野外競技は中庭を使ってやるから廊下の窓から見えるはずだし、195のこともあるけど……なるべく小春が試験を受けているところは見守っていたいから」


「……ありがと、しろさき。嬉しいよ」


 見守っていたいから──その言葉は心底嬉しかった反面、どうしようかと小春は不安に思った。


 試験に合格することは半年も前から飼い主と自分の目標であることに変わりはなかったが、今の彼女は抱える事情がやや違っていた。そう、樗木との例の会話を境にして。


 そしてそれは、世界で最も愛する飼い主にも──否、相手が飼い主だからこそ絶対に伝えられない事だったのである。


『城崎くんのためなの』という樗木の言葉が小春の中で反響し、増幅していく。この発言には嘘偽りはなかった。小春もこれまでに何度もこのことで頭を悩ませていた。


 例によって犬人の小春は、人間社会の仕組みや大人の人間関係のイロハは心得ていない。相手のために黙っていること、嘘をつくことの効能はよく分からない。


 けれど、と彼女は唇を閉ざすように噤む。


 もしも飼い主と自分の置かれた立場が逆だったとして、飼い犬が「あなたのためだから」と真実を伝えようとしなかったら──?小春は黙っていた口をぱくりと開けた。


 ──そんなの嫌だ。ちゃんと全部言ってほしい。


 城崎の独断により長期間独りにされたことのある小春にとっては、たとえ相手のためだとしても、事前に伝えないことは不合理に思えたのだ。


 小春は飼い主の太ももに手を忍ばせる。


「しろさき」


「なんだ?」


 ──言わなきゃ。うん、全部。おてきから教えてもらったこと、ぜんぶぜんぶ……。


「あのね。その……」


 言おうとした。黙っていても誰も得をしないことは知っていた。後々に真相を知った飼い主が深く悲しむことも小春は理解していた。そうなるぐらいなら、予めここで犬である自分から伝えておくことが重要だと思ったのだ。


 相手のためだから、と勝手に黙っている人間の大人は馬鹿みたいだと理屈では紐解けていた。

 しかし彼女の口は思うようには動かなかった。


「……私がんばるね!試験に合格して……いつかしろさきと一緒に外の街に行ってみたいから」


 小春は自分の口が取り繕って喋っていることに驚いた。


 今の関係性を破壊し、今というありふれた平凡な時間を犯す勇気は、幼い小春にはなかった。

 というより、この半年もの間、城崎という人間と心を通わせて成長した彼女はもうただの子供ではなかったからこそ、ここで全てを話すことを躊躇ったのだ。彼女は犬であり人間だった。


「そんな日がくるといいな」


 城崎は優しい笑みを浮かべると、小春の頭から項にかけて何回か撫でた。飼い主の手に触れられて幸せを噛み締める反面、この時ばかりは彼に触れられると心が苦しみ、軋んだ感覚に苛まれた。


 飼い主には言えない。言いたくない。言うべきではない……。小春はもう少しだけ、彼と今の関係で時間を過ごしていたかったのだ。


「しろさき」


「ん?」


「……約束して。試験に合格したらさ、一回でいいから……私を外に連れてお出かけ……ううん、デートしてほしいの」


 小春は、飼い主を仰ぎながら甘く笑った。


 こんなことを言ったところで、どうしようもないことは分かっていた。後から飼い主が自己嫌悪と悔恨の海に沈んでしまうことも、重々承知していた。飼い主のことを真に慕うならば、樗木との会話の内容をさっさと伝えた上で、自分の気持ちや欲求は沈黙を守り通すべきなのだ。それが飼い主を最も傷つけない方法だ。


 しかし、その上で小春はどうしてもわがままを言いたかったのである。慕う犬として、恋する少女として、一人の女として。


「外に?」


 城崎は意表を突かれた調子の声で聞き直した。


「ダメだなんて言わせないよ、しろさき」


 小春はもたれかかっていた飼い主の足に抱きつくように両腕で捕らえた。ぎゅう、と犬人の渾身の力が込められる寸前で止められたが、尚も離さない。


「おい小春。また脅す気か?悪いがもうその手には……」


「違うのしろさき。おねがい!一生のお願いだよ?」


「なんだそりゃ」


「ちゃんと聞いて?」


 あしらおうとする飼い主の足を華奢で肉付きの良い柔らかな少女の身体が締めつけた。


「痛いぞ」


「約束するって言ってくれるまで離さないからね」


「あまり困らせないでくれ。外には……」


「約束を破ってくれてもいいの。でも、約束は交わしてほしいの。約束を交わしすらせずに、“駄目”だなんて言ってほしくないの。ね、だからおねがい。しろさき……」


「……君ってやつは」


 小春の切迫した様子を懐疑的に見ていた城崎だったが、根負けしたのか自身の後頭部に手をやり、軽く掻いた。


「しろさき?」


「はぁ……分かった。約束するよ。試験に合格したら、施設から抜け出して小春とデートする。これでいいだろ?」


「ほ、ほんとぉっ!?やった、なんでも言ってみるもんだね!えへへへっ」


「うおっ。ちょ、おいっ!」


 小春は歓喜した。途端に飼い主の足を締めつけていた両腕は、彼の上半身へと飛ぶように移る。勢い余って椅子ごと後ろ向きに倒れた。雨風の音が霞むほど鋭い、椅子の金属フレームと床の干渉音が響き渡る。


「……小春、怪我は?」


「ないよ?あはは……ごめんね?しろさき。ちょっと舞い上がっちゃった」


「あまり気にするな」


 彼女に押し倒さたのはこれで二回目だっけ、と城崎はどこか他人事のように、顔を覗き込んでくる小春とその背後の天井を見つめていた。


「じゃ、さっきの約束だからね」


 小春は身体をどけて手を差し出した。城崎はそれに掴まり、起き上がる。

 約束が通って嬉しいはずの小春の表情はどこか暗かった。破られることが前提だとするのなら第一に約束なんて交わす意味もないのだが──と、城崎はここでのやり取りが最後まで釈然としなかった。

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