45話
城崎が目覚めたきっかけは、目覚まし時計のアラームではなかった。昨日よりも格段に荒ぶる強風、洗車機の中に放り込まれたような豪雨、周囲にごろごろと低く木霊する雷音により、意識が覚醒したのだった。
時計を見ても通常出勤時より二時間ばかり早い起床。再度眠ろうかと思ったが、今日が試験初日であると思い出し、城崎は身体を起こした。それから軽く朝食を摂ると、身支度にとりかかる。
城崎が家を出たのは支度から十五分ほど経過した頃だ。今日は小春の弁当は作っていない。研究員も犬人も、試験中の昼休憩は合同で食事をとることになっているからだ。合同といっても和気あいあいとした穏やかな催しではなく、単に再集合や誘導の手間を省くためのものだ。試験中の昼食は研究員側には例のまずい食事、犬人にはいつも通りの糧食が現場で支給されるらしい。多くの人間や犬人がいる中で、小春に手製の弁当を渡すのは大目玉を喰らうので止めておいた。
アパート脇の駐車場までの短い道中、傘をさしていたが風にあおられて折れてしまった。この風だ。致し方ない、と彼は自車に乗り込むなり、助手席の足元に傘を捨てた。
濡れた髪をタオルで拭いてから、エンジンを入れて車を発進させ、道路に出る。緩慢に反復横跳びするワイパーは、フロントガラスに濁流となって落ちてくる雨水を掻き分けるのに必死そうだった。通勤の道は浸水するのではないかと不安になるほど水でごった返しになっている。
城崎は運転しながらカーナビ画面をテレビ放送に合わせた。この時間帯は通販番組ばかりだが、チャンネルを変えていくなりニュース番組を放送している局がひとつだけあった。
『非常にその勢力を増した台風十三号は明日の朝には関東圏へと移動する見込みです。えー、数時間前に暴風域に入った愛知県からは既に甚大な被害が報告されています。
運の悪い悪天候。それでも決行される試験。
城崎は、山中のドリームボックスに向けてアクセルを踏んだ。
*
朝早くからの落雷で途中で起きてしまった犬人の小春は、カーテンを閉め切って部屋の電気をつけたままにしていた。
彼女は机の下でタオルケットにくるまって身を縮めている。頭の上に生えている耳は垂れて、目は閉じている。尻尾はロールケーキのようにくるりと巻き、股の間から前方へと出す。身体は小さく固まっているので、それを抱き枕にできた。すっかり冬毛に変わっているふかふかの尻尾の横には、飼い主からもらった大切な絵本が置いてあった。
遠雷が飽きもせず暫く鳴り、時折、ほんの一瞬だけカーテンの隙間から光が漏れてきたかと思うと、すぐさま耳を突き刺す爆音がいっぱいに外から伝わってきた。犬にとっては苦痛な音量だ。手も足も出ない自然災害を相手に小春は辟易としていた。
「うー……」
室内に雷が落ちることがないのは城崎から聞いているので彼女は知っていた。なんなら慣れたとも高を括っていたが、どうもその認識は勘違いだったようだ。飼い主がいないと雷は恐ろしいものだった。
──この天気で試験やるの?
台風と試験が重なったタイミングで執り行われることも飼い主から聞いていたとはいえ、小春は心細くなった。彼は現在195の担当であるし、試験中は周りの目もあるからどうにも自分の近くにはいてくれない状況なのだ。
城崎の優しさや愛情に触れて、もう野良犬には戻れないことをつくづく理解していた小春は、いつしか落雷よりもそっちの方が怖くなっていた。
彼女は試験を自分だけの力でやり遂げなければならない。他の職員と雑談してこいと飼い主から言われた時と同じ、緊迫した感情が胸の内から流れ出てくる。
何の経緯で雑談なんて──。どうしてそうなったのかと辿れば、面接練習が酷かったことの記憶に辿り着く。そうだ、と小春は身震いした。落雷の危険性の中での野外競技ばかりを嫌悪していたが、室内にも面接という難関が待ち構えているのだ。
──怖い。嫌だ。やりたくない!
次々と小春はネガティブな単語が出現する。それらを振り払うために素早くかぶりを振った。
もぞりと身体を反対側へと寝返りを打つ。尻尾と絵本を同行させて。そこで夢の世界に落ちてしまおうと目をつぶったが、意識は冴えていた。
「しろさきー……」
早朝にもほどがある。警備で見回っている人間はいるが、研究員は誰も来ないだろう。
人目が増えて飼い主に会える時間。嫌いな大人たちが施設にやってくるが、その中に混じって心優しい飼い主が来てくれる出勤時間──小春にとってそれは複雑なものだったが、後者の存在感が圧倒的に勝っていた。
問題は、その時間まではあと二時間近くもあることだった。『星の王子さま』は昨日読んだばかり。試験向けのテキストも嫌というほど復習は済ませたので、今更取り組む気にもなれない。要はやることがない。
暇に襲われる。現代人にとっての暇のしのぎ方は携帯端末を弄ることだ。犬にとっての暇の乗り越え方は、寝ること休むことだ。遊ぶ端末も持ち合わせてなく、寝れない小春には何もすることがなかった。
小春は退屈と落雷への神経過敏から目眩がした。机から足を出して身体を伸ばしたかったが、雷が恐ろしい。
ふと、前に読んだ小説に妙な場面があったと小春は思い出す。それは幽霊が怖くてたまらない小学生の女の子が、布団から足を出して眠れないという描写だ。
今の自分と似通っているところがあったのでピンときたのかと小春は考える。犬の遺伝子によって従来の人間よりも感覚が研ぎ澄まされ、五感の能力が著しく高い犬人。匂いも光も音も人間よりも明瞭に脳へと届けられ、味覚と視覚は人間由来で犬より優れているといういいとこ取りの存在、犬人。
犬人の彼女は人間よりもずっと情報の多い世界に生きているのだ。だから彼女には理解できていた。幽霊なんてものは人間が恐怖心から作り上げる幻想に過ぎないのだと。
七夕の時に、この部屋の糧食ポストに入っていた短冊のことが脳裏をよぎる。不審な短冊を確認するなり、城崎が冗談めかして幽霊の仕業だと言っていったものだ。小春の頭では鮮明にあの頃の情景が再生された。飼い主のその様がおかしくて、小春はタオルケットの中でくすりと笑った。
──ユーレイなんているわけないのに。
ぴしゃり。かなり近い距離で落雷。砲撃のような野太い音が際限なく広がったかと思うと消えた。
心の準備も身を構えることもしていなかった小春は、思わず「きゃっ」と自分でも驚くほど大きい声を上げてしまった。頬がさっと熱くなるのを感じた。
彼女は城崎がこの場にいないことに初めて安堵する。きっとまた、雷が怖いなの云々といじられるに違いないから──。
──でも、やっぱり会いたいなぁ。
タオルケットの外皮に全身を包み直した。小春は今の自分を外から見たらどんな感じなのだろうと予想図を描く。足と尻尾を抱えるようにして身を小さくしており、その上からぴっちりと身体がタオルケットに覆われている。ミイラというよりは、過去に城崎から昼食の時のデザートにもらった大福を連想した。
──私は甘い
小春は大福の味が舌にさっと来た。波打ち際まで上ってから、踵を返して海へ帰っていく泡立った波のように、その味は消失した。
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