44話
水曜日になり、研究員たちは日頃の研究や資料作成そっちのけで試験に向けた準備をしていた。大がかりな競技のためのセットを特設したりもしたが、主に午前は試験に参加する犬人の全個体を対象にした事前の健康診断をするために人手が駆り出されていた。
ドリームボックス敷地の東にあるのは広い体育館のような建物。そこに診断のための会場が設立され、順に犬人たちの健康状態を見ていく手筈になっている。
犬人の誘導、その他の雑務係にされて忙しくなく働いていた城崎だが、暇さえあれば室内にいる整列した犬人たちを見回していた。小春はどこにいるのか、きちんとこの診断会場に来ているのか非常に気になったのだ。
──寝坊だけはするなと言ったが……。
小春の弁当箱の返却拒否の件があったのが今週の月曜で、昨日に当たる火曜の昼休憩の時に、城崎は約束通り彼女の元に弁当を持っていった。一緒に食事しながら、会話の最中に水曜の健康診断は絶対に受けろ、と時間と場所を念押ししていた。彼女は廊下のプリントで見たからもう知っていると自慢げに鼻を鳴らしたが、肝心の彼女の姿が見当たらない。不安になった城崎は、役割に従事しながらも、飼い犬を探すためだけに周囲へ目を光らせる。
集まっている犬人は全体的にF型が多い印象を受けた。というよりも殆どがF型だ。AからD型の顔はまばらで、E型は極わずかだった。F型は皆白い体毛をしているし、おまけに毎度の如く同じ服を着用しているので見分けがつかない。
犬人の服は二種類ある。ひとつ目は群青色のパーカーだ。施設の景観を損なわず、施設外の山に逃亡した際には発見しやすくするためこれが普段着に指定されている。ふたつ目は、病院の患者が着る簡易な作務衣に似たクリーム色の服だ。こちらは健康診断の時や、地下の懲罰房に収監された際に使用する物だ。特に後者の服を着ている犬人たちで溢れかえった室内は、たとえ飼い主といえども、自分の担当個体を判別するのは容易ではない。城崎は室内をぐるりと見渡す。
白い髪、白い耳と尻尾、それと白色に近いクリーム色の服。顔も体格も瞳の色も人間の遺伝子の型が同じなので何一つ差異がない。哀れにも無機質に量産された犬たちだ。
それに室内の壁も白いし、研究員たちの服装も白衣だ。清潔過ぎるあまりに何か大切なものが抜け落ちている気さえした。白という色は明るくもあり、暗くもあるのだ。
小春は去年に製造された200番シリーズで唯一の雑種犬だった。犬種の遺伝子ベースさえ違えば、犬耳と尻尾の形も必然的に異なるので見分けは簡単だ。
注意深く室内を見渡していると、ようやく城崎は一匹の犬人の犬耳が目に止まった。
──あれ、小春か?
身長と体重を測り終えて、近場で待機してるように指示された十数匹の集団が室内の隅の床に座っていた。
その中の前列でぼんやりと虚空を眺めている個体がいた。柴犬型の集団のようだが、彼女の耳だけは他の柴犬とは少し違う。他の種が混じっているためサイズが一回りだけ大きいのだ。彼女はふと城崎と目が合った。そして彼の──自身の飼い主の視線に対し、ほくそ笑んで無言で応えた。そして軽く尻尾を手を振るように揺れ動かす。
読みが当たった。彼女は小春だ。寝坊はしなかったみたいだな、と城崎は安堵した。
小春たち柴犬の集団の元に、他の研究員がやってきて誘導を始めた。次は採血のコーナーに移動する様子だった。
小春は自分たちの前の集団が受けていた注射の光景を見るなり、服の隙間から漏れている尻尾を床に向けてだらんと垂らしてみせた。
それは危機を前にして肩を落とす仕草に近かった。電源が抜けたような表情で、もう一度こちらを見てくる彼女は、声も上げずにぱくぱくと口を動かしていた。小春との聴導犬の訓練時に便利かもしれないと、過去に犬人用のテキストで学んでいた読唇術が活きる時だと城崎は思った。
しかし問題の彼女のメッセージは切実な内容ではあったものの、単調極まりないものだった。
曰く『いや』の二文字。それと『ちゅうしゃ』の口の動き。次いで小刻みに首を横に振り、拒否を示す彼女は、まさに注射を控えた待合室の子供といった感じだった。
城崎は喉の奥から出てくる笑いを抑えるのに苦労した。
*
午前の診断が一通り終わると、南棟の小春の部屋に時間差で合流した一人と一匹は昼食を摂っていた。城崎の手製の弁当。今日のメニューは卵でとじた名古屋風のナポリタン。
「注射、痛かったよう……」
飼い主の隣で尻尾をばたつかせる小春は、ケチャップ塗れの麺で口を汚しながらそう言った。彼女の左腕の注射跡には小さな絆創膏が付けられており、城崎はそこを指の腹で摩る。
「なんだ注射も怖いのか?」
先日の落雷のことも含めてからかわれていると理解した小春は、「そんなことないもん」と口を尖らせてそっぽを向いた。
窓の方を見る彼女につられて、城崎もそちらへ目をやる。今日も雨と風がつきつける暴力に窓ガラスが悲鳴を上げそうだった。
「……雨、すごいね」
頬杖をついた小春がぼそりと呟いた。
「みたいだ。大分強いな」
強い勢力の台風が今も接近している。日本列島に上陸しても、台風の勢いは衰えることを知らずといった感じで、海から切り離されて移動スピードも増していた。
携帯端末でニュースサイトを確認する。気象庁の予報によれば、犬人たちの秋の試験──しかもその初日に愛知県に直撃する。
西日本を中心に国内は深刻な被害が発生しているようで、避難勧告が発令された県や自治体も数多くあった。
パシッと物音がする。木の枝が窓に打ちつけたのだ。その小枝は、すぐに風で剥がされてまたどこかへと飛んでいく。施設周囲の山々の木はいつになく被害を受けそうだ。木がやられれば、根も土壌も下山してしまう。なし崩し的に施設もアウトだ。
愛知県のそこかしこにある自動車の部品製造工場もそうだが、ドリームボックス一帯は土地代の安い山中を削って建設されたものだ。硬い地盤の上に立っているらしく、土砂崩れなどはないと聞いているが、それもどこまで信用できるか不明である。
このレベルの警報騒ぎでも、上層部は試験時に外で行う競技を予定通り進めようとする意向を発表していた。野外での体力測定、それと災害時における救助活動を想定した本格的な競技などは、外の環境が厳しければ厳しいほど、本番前に良いデータが取れることは間違いない。これには犬人になんの同情の色も見せない研究員たちでも難色を示す者がちらほらといた。物事には限度というものがある。診断の仕事を終えて昼休憩に入ろうとデスクに戻っていく研究員たちは、試験で死なれても困るんだが、と顔を見合わせて不安な言葉を口々にしていた。「犬死」という言葉がこうも直球に該当するケースはそうない。
時期的に試験は強烈な台風を待っているという城崎の予想は間違いではなかった。むしろ正答そのものだった。
城崎は、能登谷の目を盗んで彼のデスクからくすねた過去十数回の試験に関する資料をチェックして、少なくとも四回も直前に日程変更した痕跡を発見した。
変更した日程、それと当時の愛知県の天候と照らし合わせると当たっていた。開催日のすべてが今日のような悪天候での実施だったのだ。貪欲にデータを欲する上層部の悪しき意思が嫌でも垣間見える。彼らは犬人の命なんてなんとも考えてないのだろう。これには上層部への反抗心を持っていた城崎ですら、ため息を吐くしかなかった。
今回は偶然にも初めから予定していた試験の日程と台風の到来のタイミングが重なったので、上層部も資料の捏造をしなくて済むと安心している頃だと思われる。
一方で、上層部は確実に焦っている。ただでさえ成果をあげられず、ドリームボックスの人間からの不信感すら拭いきれない南棟部門だ。おそらく政府から来年度の予算も今回の試験で決定づけると圧力をかけられている。米軍が犬人研究に大変興味を持っていて、水面下で日本側に交渉をしているなんて噂もある。
これはただの都市伝説だろうが、本当にそうならば犬人という輸出商品はかつてないほど日本の経済を復興させることができるだろう。それに他国が犬人を拒否しようとも、日本はどのみち犬人による復興のためのプランを着々と練っているのだ。犬人研究には莫大な研究費と人材がそれこそ湯水のように投じられてきた。
もう誰も後には引けないのだ。政府がドリームボックス側に研究を早く進めるよう脅しをかけるのも頷ける。したがって、試験で不名誉な結果を残す可能性がある不良品を前もって排除したいと考えるのは、上層部の立場からすればこそ必然的な選択なのだ。
もしかして、このことが──?
城崎はここ数ヶ月の能登谷、樗木、それと佐中をはじめとする上層部たちが自身に向けてきた「異動」の話を思い返した。
──あいつらは南棟部門や犬人研究、しいては日本の今後を守るために小春の処分を決定的にし、試験に出すこともさせないように工作をしていた?
そこまで一気に仮説を立てて考えた。しかし、だからといって小春を見殺しにはできない事に変わりはない。
今度は腑に落ちない点ばかり上がってくる。それは今までも彼は何度か考えたことばかりだった。もしこの仮説があっているのなら、尚更、問題児だった小春に最初から担当の人間をつける必要性は絶無のはずだ。第一、不良品が邪魔で仕方がなかったのならば、来年の春なんて待たずにすぐに書類を作成して殺処分すればそれで済む話である。
──それがどうしてこんなことに?上層部の狙いはなんだ?
考えるのに疲れた城崎は一旦そこで物思いを中断した。どのみち、周りの脅威から小春を守ること以外、彼にとってはどうでもいいのだ。自分の社会的立場も職も、日本という国の未来さえも。
半分ほどなくなった弁当箱に視線を落とす。ナポリタンはすっかり冷めていて、ぎとぎとの油と固くなった中太麺がヘビーな様相を呈していた。それでも口に運ぶと結構美味い。緑茶で流し込んで、城崎はひと息つく。
「小春」
「なに?」
彼女はきちんと飼い主へ顔を向けて返事した。その手元の弁当はとっくに空だった。
城崎はいよいよ明日に迫った試験のことを話そうと思って真面目なトーンで切り出したものの、小春の幸せそうな顔を見て躊躇ってしまった。
「……ケチャップがついてる。汚いぞ」
思わず別の話をしてから、城崎は口元を指さして示した。
小春は微笑んだ。ぺろりと舌を出して舐める。
「ホントだ……ね、ふいて」
「しょうがないな」
テーブル上のティッシュを数枚取って、小春の口の周りを丁寧に拭った。くすぐったそうに身をよじる彼女はにこやかだった。
いつまでもこうした日常が続けば良いのに──。城崎は項垂れそうな気怠い雰囲気を醸し出すことはせず、務めて明るく呼ぶ。
「小春」
「んー?」
「……明日は頑張れよ。でも無理だけはするなよ」
そう聞いて、一瞬きょとんとした彼女だったが、すぐに笑顔になると「うん」と快活に頷いた。
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