43話

 荒れ狂う風。容赦なく降り注ぐ雨。

 カランカランと、空き缶らしき軽いスチールが風に運ばれて地面に打ちつけられる音が遠くから聞こえる。

 施設の端にあるゴミの集積区が暴風でやられたのかもしれない。台風がここに直撃すると判明してから職員が総出で粗大ゴミなどをロープで固定したり、細かな物の分別や一時退避をするなど懸命な対策をしたが、結局は間に合わなかったらしい。

 暴風域には達していないものの、既に凄まじい風だった。ざあざあと遠慮のない水量の雨粒は窓にへばりつき、上から下へと独特な透明色の波を作っている。光を屈折させる水のカーテン。空も一面灰色で、昼間なのに外は暗い。


 まるで雨に閉じ込められたかのような感覚。それでも息が詰まることは全くなかった。

 むしろ心地いい──。城崎はペットボトルの生ぬるい緑茶をひと口飲み、そう思った。

 城崎と小春が互いの誤解を払拭した土曜から、数日が経過した月曜日。その日、東海地域は激しい雄叫びをあげる雨風に晒されていた。

 秋雨前線は無事に過ぎ去ったとばかり思われていたものの、やや時期が遅れた台風がひとつ日本列島に上陸してきたのである。ドリームボックスがある愛知県にはあと数日で台風が直撃する見込みで、奇しくも犬人の模擬社会生活試験が行われる日程と重なってしまった。

 当初から懸念していた「厳しい環境下での試験」という話がいよいよ現実味を帯びていたのだ。


 今日の朝方に施設内の廊下にて事前審査を通過した犬人が発表され、無事に小春のシリアルナンバーも記載されていた。

 貼り紙を見た時、他の職員たちからは注目されないように気をつけながら、一人と一匹は離れた距離から交互に視線を送り合って密かに喜びあった。

 そして現在は昼下がり。195にテキストを解いておくよう指示をしてから、城崎は人目を盗んで南棟の端にある小春の部屋に来ていた。久しぶりに手製の弁当をあげたかったのだ。飼い主を出迎えた時の彼女は飛び跳ねる勢いで大はしゃぎした。

 献立は小春の好物であるからあげと卵焼き、それと鮭入りのおにぎり。不味い糧食すらも口にしていなかった彼女のために普段よりも多く作って持ってきたが、全然足りなかったようで、彼女は城崎の分までも完食した。よほど嬉しかったのか小春は終始笑顔だった。食後すぐ、満足した様子の彼女は昼寝するため身体をごろんと床に転がした。カーペットに胡座をかいて座る飼い主の足を枕にして、可愛らしい寝息を立て始める。

 ちょっとでも城崎が座る姿勢を直そうと身体を動かそうものなら、逃がすまいと、目を閉じたまま小春は自分の身体を彼に密着させた。そんな小春に苦笑しながらも、これまで触れ合えなかった期間があったのだから大目に見ようと決めていた城崎は、彼女が眠りに落ちるまで静かにその頭と背中を撫で続けた。


 ──もう眠ったかな?


 城崎は再度、緑茶を飲んでから小春を見下ろす。

 少女が眠りについたか見守っているうちに、予め持参してきた緑茶は彼の片手の中ですっかりぬるくなっていた。

 静寂そのものの室内。集積区から飛ばされた空き缶も遠くへ行ったようで、もうスチールの軽快な足音はしない。この部屋へと届くのは雨と風音だけだった。

 昼休憩でもここは騒がしくない。南棟の端にある小春の自室には他の職員たちの声もせず、孤独だが煩わしい思いをすることもない。信頼できる一人と一匹が一緒なら最高の空間である。視線を上げて窓を見る。雨は止む気配はない。明日以降も降り続け、問題の試験もこの悪天候の中で始まりを告げるだろう。


「ん……」


 小春の寝言。寝転がったまま、頭だけ城崎の足に乗せていただけなので彼女は無防備だった。よく見ると赤ん坊みたいに手足を胴へと寄せて身を縮めていた。

 寒いのかと心配した城崎は、そっと腕を伸ばしてベッド上の厚手のタオルケットを掴むと、小春にかけた。飽きもせず彼女の頭を優しく撫でる。雨の中で犬の毛並みに触れていると、梅雨の時に彼女と盲導犬の訓練をしたことを思い出した。


 あの時は屋上に行って、何かのきっかけで小春の頭をまさぐるように撫でたのだ。それから──なんだっただろうか。記憶が蘇る。

 自分は小春の犬の部位をくまなく触りながら声を押し殺して泣いていた。何故だろうか、と疑問を自分に投げるかけるよりも早く、彼の心にはあの名前が浮かぶ。


 ──シロ。


 さっき緑茶を飲んだばかりなのに、彼は喉が渇いた気がした。忘れかけていた犬の存在が不意に彼を苦しめた。

 小春を撫でていた手が止まる。

 シロの代替品としてしか見ていなかったのに、今はシロよりも小春という犬の方が大切に思えて仕方がなかった。昔の犬に執着していた分際で、新しい犬が手元に来たら、死んだ昔の犬のことなんてすぐに忘却する。まるで消耗品かのように──。

 それは子供の頃にいた、地元の友人の行いそのものだった。その友人は自分の犬が死んで悲しむまでは良かったが、立ち直りがあまりに早く、城崎は彼のことを薄情者だとばかり思って陰で軽蔑したものだった。

 しかし今はどうだろうか。城崎は自問し、ぞっとする。彼と同じことをしている自分に気づき、畏怖した。


 ──違う。僕はシロも小春も……。


 どうしようもない自分自身に粘っこい嫌気がさし、城崎は苦しそうに息を呑んだ。


「……シロ」


 自分の耳にすら聞こえないほど小さく発した。

 小春は熟睡しており、彼女の地獄耳をもってしても起きてはこなかった。白い雑種の柴犬。小春の華奢な身体に触れながら、シロと呼んでも、どうにも彼女は彼女のままだった。依然として小春は小春に過ぎなかった。犬人の少女は決してシロではなかった。だがシロのことを忘れたくなかった。かつての最愛の犬。自分の研究員としての人生を決定づけた犬。しかしとっくに死んでいる犬……。

 もう一度、彼女の名前を呼ぼうと彼が口を開いたところで窓が眩く光った。視界が白くなったかと思うと、次の瞬間には落雷の轟音が部屋いっぱいに響き渡った。


「ひゃわっ──!?」


 それから小春の悲鳴も。彼女は落雷で目が覚めて、タオルケットに包まれたままの状態で飛び起きた。どたばたと数歩その場で地団駄を踏み、慌てた素振りでその場を行ったり来たりし、最終的には飼い主の胸元へダイブする。


「おわっ。おい、小春っ。暴れるなって」


 驚いた城崎は思わず仰け反るが、犬人の方は涙ぐんでいた。彼女は酷く混乱している。

 飼い主としての平静を取り戻した城崎は、震える小春の肩を抱き寄せて、宥めるようにあやす。


「落ち着いて。どうした?雷が怖かったのか?」


 犬は基本的に落雷の音に大きく恐怖するものだ。小春も例外ではないようで、彼女はかつてないほど身体を震わせていた。


「うん……あ。あ、当たらない?ね、雷ここに当たらないよね?落ちてこない……よねっ?」


 小春の尻尾と犬耳が湾曲したように萎びている。彼女を安心させるために、城崎はあえて大袈裟に笑った。


「そんなワケないだろ?避雷針がついてるよ」

「ひらいしん?」


「そ。雷が建物に落ちた時に、身代わりになってくれる針のことだよ。それが電流を地面に逃がしてくれるんだ」


「針……ね、それ何本あるの?」


「それは……そうだな、多分千本ぐらいだ。落雷を防げなかった時は、設計者が約束破ったってことで呑むんじゃない?」


 もちろん城崎なりの冗談だ。針千本のくだりで小春は過去の自分が行った非常識な針集めのことを思い出したようで、頬をみるみる林檎のように赤く染め、頬を膨らませる。


「もうっ。しろさきのばーか」


 羞恥の表情見られたくなかった小春は、城崎の胸元に深々と顔を埋めながら短く言い捨てた。


「ふふ。すねるなよ」

「すねてないもん」

「やっぱりすねてるじゃないか」

「すねてないもーんだ」


 くだらない問答に一人と一匹は吹き出し、暫し笑いあった。雷はその後は遠雷しかなく、次第に小春の落雷に対する恐怖心も薄らいでいった。



「うぅ〜……」


 なんの邪魔も現れず、久しぶりに一人と一匹で水入らずの仲睦まじい時間を過ごせた昼休憩も終わりにさしかかっていた。時刻は午後一時直前。飼い主が去ろうとしている気配を察知した小春は、寂しげに喉の奥で低く唸っていた。


「大丈夫だって。また明日もくるから……な?」


 苦笑いして小春を諭したが、彼女は首を横に振った。「今はもう少しここにいてほしい」という駄々をこねた子供みたいな意思表示だ。しかし城崎はそれを笑い飛ばす気にはなれなかった。

 無理もないだろう。彼女はついこの間まで、表面上とはいえ飼い主から「また明日」の約束を一ヶ月以上も無視されていたのだ。せっかく誤解が消滅し、以前のように心を通い合わせられる関係になったのだから、彼女としてはもっと甘えたい気持ちがあるのも当然納得できる。その姿は可愛らしかったが、今日は流石に時間も時間なので、弁当箱を返却する旨を提示するべく手を差し出す。だが彼女は懲りもせず、首を乱暴に横に振った。


「返すと、しろさきがどこかに行っちゃうもん。ここに帰ってこなくなっちゃうのは絶対に嫌だもん」

「返しても返さなくても僕はもう行くぞ?弁当箱を返さない場合は明日の小春の弁当は悪いが持ってこれない。それでもいいのか?」

「……ずるーい」


 小春は恨み節を言いながら、弁当箱を未練ありげに城崎へと返却した。


「いい子だ。明日の献立は何がいい?」

「今日と同じのがいい」


 彼女は未だにむすっと顔を曇らせている。


「分かった。試験も近いしテキストの復習を忘れないようにな……じゃあまた明日」

「……195のところでしょ。今から行くとこ」


 見送る小春へ手を振り、退室しようとした城崎は彼女の言葉に閉口してしまった。

 振り向くと、不満と懐疑が混ざり合った顔つきの小春が下唇を軽く噛んでいた。


 城崎はため息をつきそうなるところをぐっと堪えた。小春の気持ちは分かる。彼女がそう思いたくなる状況にいたことを理解できたから、城崎はあしらうような態度は取りたくなかったのだ。けれど同時に、多少はこちらの心苦しい気持ちも汲み取ってほしいとも思った。


「……だからさ小春。それは土曜に話したじゃないか、それこそここで。195はあくまで偽装というか……所長に頼まれたから、止むを得ずやってるだけだって」

「うん。それはちゃんと分かってるよ……」

「それでもやっぱり不満なのか?」

「そうじゃなくて……ううん、違うよ。ちがうよ、しろさき」


 泣き消える声でぼそりと言って、それっきり小春は黙ったきりだった。何か言いたくても、舌足らずで言えないようにもどかしそうに悶々としている。

 城崎には何が何だか分からなかった。195への対抗心から飼い主を引き留めているのだとばかり捉えていたが、どうもそこまで一筋縄なことではないようだ。


「何が違うんだ?小春、聞いてあげるから言ってくれ」


 催促したが、小春は黙ったきり首を横に振るだけだった。


「そうか……よく分からんが、きっと今は言いたくないことなんだな?」


 小春はこくりと無言で頷く。彼女らしくない、眉を煩悶はんもんと寄せた気難しそうな表情だった。


「分かった。小春の心の中に、そういうことがあるってことは必ず覚えておくから。じゃあもう行くぞ」

「……うん。また明日ね、しろさき」

「ああ」


 最後に改めて彼女の頭を撫でると、城崎は今度こそ退室した。

 廊下に並ぶ窓ガラスたちは、雨風で今にも枠が外れそうなほど、ガタガタと不気味に蠢いていた。

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