42話

 小春の部屋に樗木がやってきた時、両者の間にはなんとなく気まずい雰囲気が流れていた。

 特に研究員の態度は終始よそよそしく、怪しい。犬人は彼女とは距離をとって接することにする。


「なに?」


「話があるの。城崎くんのことで」と発してから、樗木は苦笑する。その笑みは疲れていた。

 小春は眉を八の字にして「なに?」とだけ返した。


「私は樗木。あなたの元担当の同僚よ。覚えてるわよね?前に電話で話をしたこと……あの時は驚いたわ。まさか聴導犬の訓練をしてるなんて──」

「話ってなに?」


 あくまで要件しか会話する気のない小春は冷たく返し、若干睨んだ。その調子に合わせるように樗木はトーンを下げる。


「うん……そうだね、本題に入っちゃおうか。じゃあ立ち話もなんだし入れてくれるかな?」

「嫌」


 小春ふるふると首を横に振る。城崎以外の人間を部屋の中に入れたくはなかった。ほんの僅かに残る城崎の匂いが他人に汚されると思ったのだ。

 一方、樗木は微笑して頷くが引き下がらない。


「私がここに来たのはね、城崎くんのためなのよ。もちろん、あなたのためでもあるけど」

「話ならここで、早く」

「すぐには終わらない話なのよ。だから入れてくれるかしら?」

「……わかった」


 樗木に気圧されたわけでなかったが、研究員の彼女がこちらに嘘をつく理由も見当たらなかったので、小春は来訪者の入室を許可した。白衣の膨らみを見るに、この研究員が武器を隠し持っていることはないと判断したのが決め手になった。

 自分のためにも、城崎のためにも──そんな話が果たしてあるのだろうかと小春は疑問に思った。飼い主からは既に毛嫌いされていると思い込んでいる彼女にとって、その話が本当ならばありがたいものだったが、想像できなかった。

 扉を閉める。玄関から戻る形で進み、奥の部屋に一人と一匹は入る。小春が誘導して後から遅れて樗木が来た。換気もしておらず、カーテンも開いていない淀んだ室内に足を踏み込むなり、樗木は珍妙な物を見たかのような声を上げた。彼女はさっと窓辺に行き、カーテンと窓を開け放つ。光に目が慣れない様子の犬人へ振り向くと、犬人はとびきり不機嫌だった。


「……開けないで」


 小春は不愉快そうに言って、近くに行くとカーテンを素早く閉めた。


「どうして開けないの?暗いままじゃない」

「暗い方がいい」


 窓も閉めた。空気の流れが止まる。


「そう」

「それで話ってなに?しろさきのことなんでしょ」



 家を飛び出して車で移動する。ドリームボックスの駐車場に車を停めると、城崎は南棟の小春の部屋に向かうべく駆け出した。肩で息をしながら必死に走る。樗木がどうなろうと構わなかったが、小春が何か事件を起こしているのだという事実は無視できなかった。

 人質という物騒な単語。どこでこんな言葉を覚えたのかと尋ねれば、おそらく小春は「本で読んだ」と言って無邪気に笑うだけだろう。彼女の目的は分からないものの、城崎はいざ彼女と対峙した際にはどう振る舞うべきか迷っていた。


 人のいない廊下を走る。南棟の端へと続く長い一本道の廊下を通り、城崎は彼女の部屋の扉に手をかけた。

 ノックもせずに勢いよく開く。室内は暗かった。空気も変に濁っており、窓もカーテンも閉め切っているのだと分かる。


 ──一体いつから?


 城崎は浮かんだ疑問にすぐ蓋をした。図書管理室での一件からに決まっている。あの時の非情なまでの研究員としての言動が彼女をこんな暴挙に誘ったに違いないのだ。小春の謝罪を受け入れ、こちらも相応に謝らなければならないと確信する。それに周囲に露呈する前に早く事態を終息させなくては──試験は目前なのだ。


「しろさきっ?」


 奥から小春の声がした。城崎は「あぁ」と答えながら、そちらに進んだ。その間に息を整える。

 ひとまず状況を把握しようと部屋の中を見回した。ベッド上には樗木が座っていた。視線を落として自分の手元を見ている。どうやら無事のようだ。特に怪我をした様子もないし、拘束されている節もない。だが彼女の溌剌とした表情はなかった。

 何があったのかと城崎は小春に目線を送る。彼女はベッドからは離れた椅子の上で座り、『星の王子さま』を手にしていた。彼女は目線に気づいて席から腰を上げる。すると飼い主の元へ一歩近づいた。


「小──204、どういうことだ?何故こんなことを?」

「……しろさきに会いたくて」


 しおらしく俯く小春。再び一歩距離を縮めてくる彼女に対し、城崎は片手を軽く挙げて止まるように制した。


「……そのために樗木さんを人質にとって、僕に脅迫を?」

「うん。ごめんなさい……」


 小春はこくりと頷いた。

 城崎はため息を吐く。


「なぁ、試験前なんだぞ?プロフィール用紙の書類審査で、来週には試験に参加可能かどうか個体別の発表もある。審査中なんだ。大事な時なんだよ。そんな時に何やって──」


 つい叱る口調になっていて、城崎は口を噤んだ。やはり自分は195ではなく204の担当であり、小春という犬人の少女の保護者であり飼い主なのだと彼は再認識する。

 謝罪文を洗濯前の白衣のポケットから見つけた時、城崎は小春への態度を悔やんで彼女に謝る気でいた。多少甘えてくることも拒むつもりはなかった。本当は近づいて、抱きつこうとする今の彼女も受け入れる気でいた。

 だが小春は城崎が自発的にやってくる前に、我慢できなくなった。人質までとって会いに来るように催促してきたのだ。これは看過できなかった。


 ──でも、また小春に怒るのか?僕に会いたいだけでここまでしたこの子に?


 小春の行動は目に余るものがあったが、彼女に悪意があった訳ではないことも知っていた。

 ここでまた叱りつければ、次はどんな事をしでかすか想像にかたくない。飼い主に捨てられたと喚き、会うために多くの騒動を生むだろう。そうでなくとも手当り次第に職員たちを単なる肉塊にして、真っ白で清潔な研究施設を深紅に染め上げられでもしたものなら、その時こそどんな顔で彼女と接すれば良いのだろう。


 ──いや、本当に怖いのは……。


 城崎は現実的な見方を遮った。彼が最も恐怖するのは、彼女が上層部の暗躍によって、彼らの当初の目的であった殺処分を受けることだけだ。

 それを避けるためなら、たとえ施設が真っ赤になったとしても、今の城崎には仕方のないことだと思えてしまった。そのぐらい小春のことだけが彼には重要だった。しかし現実にそんなことをして、その後互いが助かる術はないことも彼は理解していた。


「……ごめんな」


 懊悩とため息にならない息を口から漏らし、城崎は片手を小春の頭上に置いた。撫でたりはせず、ただ置くだけ。

 当の犬人の少女は幸せを噛み締めたように目を輝かせたが、顔つきは固かった。今からどれくらい怒られるのか、彼女は本能的に恐れている様子だった。彼女の華奢な身体は震えている。


「小春」


 彼女の名前を呼んだ。シリアルナンバーではなく、自身が与えた名前を。はっとしたように小春が目を見開く。

 樗木は顔を上げて一人と一匹を静観している。彼女の前で、204に対して小春という呼び名を使うのは初めてだった。城崎はポケットから出した紙切れを小春に差し出した。


「……ちゃんと読んだよ、君の謝罪」

「ほんと……?」

「前は気づいてあげられなくてごめん。本当はさ……僕は、今日ここに来て謝るつもりだったんだ。図書室で君が言ってたこの謝罪文を見つけたから──」


 城崎は事の経緯を話した。ロッカー内の白衣の件である。なぜ自分が木曜の朝にロッカー内の紙切れの存在に気づいていなかったのか、小春は理解するなり腑に落ちたらしく、安堵で泣きそうな顔になっていた。

 労うように彼女の頭を擦りながら、城崎は優しく語りかける。


「……四月のはじめに、本を没収した時のことを覚えてるか?」

「うん。しろさきが……この部屋の本を全部持ってっちゃった。私悲しかったよ?」

「あはは。そうだったな」


 小さく笑った。飼い主のそれにつられて表情を和らげる小春。城崎は今度こそ彼女の頭をしっかりと撫でた。


「あの時はお詫びに『星の王子さま』を持っていったな。ちょうど小春は見事ドリームボックスから脱走してたっけ」

「えへへ。ごめんね」

「悪いことしたかなって思って謝りに行くと、君が代わりにとんでもないことしでかしていて、叱るかどうかこっちが迷う。今回みたいにね。思えばそんなことばかりだな……僕たち」


 一呼吸置いて続ける。


「……図書室でのやり取りは本当にすまなかった。きちんと君の話も聞いてあげずに足蹴にしてごめん」


 緩んだ小春の頬には涙が一筋垂れた。彼女はそれでも笑顔のまま、「うん」と答えた。

 この一ヶ月ほど、彼女の心の中にいた優しい飼い主は、偶像ではなく実在していたという安心の涙だった。


「それだけじゃない……僕が担当を離れたことも、その理由を話さなかったことも、全部小春には伝えてあげられなかった。君が他の職員に対して暴走するかもしれないことが怖かったんだよ。でも結果的に、今回のようになってしまった訳だから……僕の判断は間違っていた」


 くしゃくしゃと彼女の頭を撫で回す。


「謝るよ。ごめんな。小春。本当にわるかった。君のことが嫌いだったわけじゃない……守りたかっただけなんだ」


 城崎が涙混じりに諭すように言うと、小春はぼろぼろと大粒の涙を流した。彼女は黙って飼い主に抱きつき、その胸の中で何度も何度も頷いた。暴れるような、貪るような愛しいハグだった。



「信じられないわ。本当に」


 一人と一匹が互いの誤解を取り除き、部屋中が落ち着いた頃。窓とカーテンは開けられ、換気が行き届いた小春の自室はもとの有り様を取り戻そうとしている。空気の通り道を確保するため、廊下側の玄関の扉も開けた状態にしていた。

 ベッドの上に腰を下ろしていた樗木は、不満げにそれでいて静かに言った。


「……と言うと?」


 床掃除をしていた城崎は、彼女の存在を思い出したように顔を上げた。


「小春ちゃんのことよ」


 シリアルナンバー呼びしない樗木には城崎も驚いた。感情や自我の云々のことで彼女とは言い争いになったことがあったので尚更だ。彼女も佐中所長の犬人論文支持者だとばかり思っていたが、今回の件で流石に考えを改めたのかもしれない。

 肝心の小春は部屋にはいなかった。図書管理室での一件以来、数日間風呂に入っていなかったとのことだったので、彼女に浴室でシャワーを浴びるよう指示したのだ。今も鼻歌と水の流れる音が聞こえてくる。


「そうだろ?」


 城崎は柄にもなくやや誇らしげに言ったが、すぐに口を閉じた。一応、樗木は今回に関して被害者であることに変わりはないのだ。


「無事に終わったとはいえ……樗木さんには迷惑をかけた。なにせ人質にされたんだもんな。わるかった。小春に代わって僕が謝る」

「そんなこといいのよ。たしかに驚いたけどね。犬人にもあんなことができるなんて、研究員としては信じられなかった。私もまだまだみたい」


 やけに彼女は含みのある微笑と物言いをした。

 城崎は眉をひそめそうになる。


 ──人質にされたり、小春が僕に対して脅迫した事を言ってるのではない?


 勘でなんとなくそう思ったが特に触れないことにした。どのみちこの件は終わったのだ、と自分に言い聞かせて。


「そういえば……どうして小春は樗木さんを人質に?」


 ふとした疑問を彼女にぶつける。それに樗木もさして忙しくはないはずだ。城崎のように何らかの事情がありもしないで、土曜に職場にいるのは些か奇妙だった。


「さぁ。どうしてかしら。面識のある人間が城崎くんを除けば私しかいないからじゃない?ほら、前に聴導犬の訓練をしてた時に私とあの子って電話で話したじゃない。あの後も、ここに来て直接顔を合わせてるし……」

「ふぅん。で……なんで今日ドリームボックスにいたんだ?」

「メイク道具をデスクに忘れてきちゃったのよ」


 なるほど、と納得しかけたが、城崎の頭には次から次へと疑問が湧いて出た。

 面識の有無で説明するならば、小春は能登谷や佐中のことも知っている。

 能登谷に関しては、この部屋に面接練習の件で入ったことがある。佐中の方も、異動の件で抗議しに行ったいつぞやの城崎のことを追いかけて所長室まで尾行し、会話を盗み聞きまでした小春は彼の居場所も当然把握しているはずだ。


 ならば、なぜこの二人のどちらかを「人質」にしなかったのだろう──?


 立場が高い人間を確保し、交渉材料にした方が自然ではないか。小春も、能登谷と佐中が城崎より偉い立場の人間であることを認知していたはずである。佐中のデスクと違って、能登谷のそれの場所は分からないかもしれないが、彼の匂いは記憶しているはずだ。辿れば部屋を当てるのは造作もない。二人とも土曜は施設で何かしら書類と睨めっこしているだろうからそこを襲撃すれば簡単だ。

 以前に新人用のデスクで怒られた経験から、大きな騒動にはしたくない小春の心情がはたらいて樗木を選んだのだろうか。上層部の人間を人質にするのは周囲に発覚した際、まずいことになるのは彼女にも予想できそうだ。


 だが城崎はその案も懐疑的に切り捨てる。


 デスクは犬人が立ち入り禁止だと伝えた後の今回の出来事だ。わざわざ樗木を探しにそこに立ち寄ったりはしないだろう。小春の愚直な性格上それは考えにくい。

 新人は自席を置く個人の部屋がないため、樗木も城崎も同じ新人用の広いデスクルームに自分の席がある。その同じ部屋に入ろうと試みるのは少々不自然だ。

 飼い主に嫌われているか不安になっていたあの小春が、言いつけを破ってまで「人質」を確保するのは考えられない。


 早い話──人質は樗木でなくとも良かったのだ。


 ──僕に電話できる相手を探していたというのなら、別に樗木さんでも変ではないが、それなら……尚のこと、上司二人を人質にした方が確実だ。


 城崎は床掃除を続けながらも、樗木を盗み見た。彼女は携帯端末をいじっている。


 ──樗木さんは僕に何か嘘をついている?でもなんのために?


「なぁ」


 疑惑の彼女に話しかけた。


「何かしら」

「小春とはどこで会った?」

「……廊下だけど?」

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