第5章 一人と一匹の秋霖
41話
“犬にとって、主人についていきたいという強い衝動を征服し、気に食わぬ場所にひとりでとどまっているというのはかなりの苦行であり、この試練は不愉快な義務にひとしい”
──コンラート・ローレンツ『人イヌにあう』
*
小春は自室にあるベッドの上で目を閉じていた。
眠ってはいなかった。時刻は朝の八時過ぎで、いつもなら起きている時間だった。特に土日はドリームボックスも人が減るので絶好の散歩日和。しかも晴れ。だが少女はまだ身体を起こせなかった。
カーテンの閉まった暗い部屋は居心地がいい。一ヶ月以上、飼い主が帰ってくるまで良い子でいようと気を張っていた反動で、かつての自堕落で自暴自棄な一面が再び自分の心を侵食していると彼女は分かっていたが、抑えられなかった。それに抑える必要もないと考えていた。誰のためにも生きていないのに、よりよく生きる意味などあるのだろうか、との具合に。
暗い部屋と人気の感じない独りぼっちの空間は寒々しくも、どこか心地よく思えてしまった。
──うん。私には……こっちの方が似合ってる。
それっきり思考が上手く働かない。彼女は重い頭を両手で包むように抱える。
視界は薄い膜が張っているように鮮明ではなく、ピントが合わない。空腹は感じるが、いつの間にかそれにも慣れてしまった。図書管理室の一件以来、彼女は糧食を一口も食べていなかった。
喉は潤いをなくして裂けるように渇く。胃はアラームのように空っぽの鳴き声を上げているが、口に何かを入れて咀嚼する気力が起きなかった。
同じ姿勢で横になっているのが痛くなり、反対側に寝返る。その度に尻尾が邪魔になり、小春は怪訝そうに自身のそれに手をやった。とっくに夏毛は抜け、冬毛へと移行しているためか良い肌触りで弾力ある毛並みだ。犬耳も同様だが、今の彼女にはこれら自分の身体的特徴が酷く憎たらしかった。
──こんなの、なければ。
普通の人間と自分の隔てるモノ。昔から小春は、これさえなんとかしてしまえば他の人間たちと同じように外の世界で好きに生きて、好きに生活できるのではと考えていた。
四月の脱走の際も、彼女が結局街まで降りなかったのは、この疎ましい特徴を社会生活の中で完全には隠しきれないと判断したからだ。
城崎が自分を捨てた理由だって本当のところはこれなのでは、と彼女はありもしない深読みすら始めていた。
──私が犬でなければ。私が人間なら。
彼女は、完全な人間の姿でいる自分を想像する。そして同じく人間の城崎と、彼が撮った写真で見たような美しい外の世界で一緒に散歩をする妄想を膨らませる。優しかった頃の彼と共に。
でも、と彼女はフリーズしかかった頭を再起動させる。
──もし私が犬人じゃなかったら?
邪魔な尻尾や耳がない自分の姿を想像したが、少しして彼女は首を横に振る。固いマットレスと頬が摩擦で微かに熱くなる。
──ううん、だとしたらそもそも私はこの世界に生まれてない。私はお母さんのお腹の中で生まれたんじゃないもん。あくまで機械の中で、機械の子宮の中で……生まれたんだから。
犬人はドリームボックス内にある人工生体を生成する設備全般が子宮の役割を果たしている。人工生体の原料である「あばら液」とベースにする人間の遺伝子、それから犬の遺伝子が言わば父親だ。
彼女は吐き気がした。何度考えても、自分がこの世に生まれたのは、忌み嫌っている人間の大人たちが望んだ結果だという結論に至ってしまったからだ。あれほど憎んでいた大人たちが所望した末に命がある。この耳も尻尾も、人間らしい顔や身体さえも、すべてははじめから計画されたモノなのだ。
小春はまた頭を抱えて、金切り声で泣き喚いた。寝転んだままでのたうち回った。ぐしゃぐしゃになった髪も、口から出た唾も彼女にはどうでもよかった。綺麗に整えたところで何の価値もないのだ。
そうだ、私は人間でも犬でもない。ただの人工物なんだ。今までなにを勘違いしていたんだろう──と小春は泣いた。とても惨めだった。
心優しい飼い主が傍にいた経験を下手に持ち合わせていたために、それは尚のこと深く彼女の弱い心を容赦なく痛めつけた。胃が沸騰した感じになって、吐きそうになった。だが腹には何もなかったために吐き出そうも出るものも出ない。彼女は喉奥へ指を入れた。途端に嘔吐する。だがそうやって無理やり吐いても、底から込み上げた酸っぱい胃酸が僅かに口内に残るだけだった。それを吐いても何もすっきりとした気分にはなれなかった。
解消しない苦痛のあまり、また泣き伏した。
「……助けてよ、助けて……」
小春は誰に向けてでもなく言ったつもりだったが、それでも心の中では一人の職員の姿しか浮かんでなかった。どれだけ忘れようとしても、忘れられない人がいた。かつての飼い主のことだ。
図書管理室での一件があってもそれは変わらなかった。たしかにこの数日、小春は彼のことなんて忘れてしまおうと思ったことさえあった。独りぼっちの薄暗い部屋の中で、自分の味方をしてくれる一冊の大切な絵本だけがあればそれで良いのだと。それでも、絵本をくれたのもその飼い主であると思い出すと、そんな意地もすぐに失せてしまって、飼い主のことだけが全身の感覚を支配した。
たとえ彼から憎まれ、疎まれ、蔑まれようとも、やはり彼の存在が小春にとってのすべてだった。
「私を助けて……近くにいてよ。しろさき」
その時、扉を叩く軽いノックの音がした。小春はびくりと固まった。何も反応せずにいると、再度何回かノックが響いてくる。
小春はベッドに寝転んだ姿勢のまま、腕を伸ばして机にあるティッシュを何枚か取る。それで涙と鼻水でぐじょぐじょになった顔を拭う。
──誰?
泣きすぎで鼻腔が炎症し、犬人ご自慢の嗅覚は効かなかった。それでもなんとなく、彼女には扉の向こうにいる人間が誰なのか楽観的に予想した。
すかさず立ち上がり、彼女は久しぶりに強い脚力で出入り口まで走った。鍵を開けて扉を開け放つ。
「しろさ──」
しかし、部屋の前にいた人物を見るなり、小春は明るくなりかけていた表情を大いに暗転させた。その人物が単独でこの部屋に訪れてくること事態、何か嫌なことの前触れなのではないか、と小春は軽く身震いした。
目の前にいた人物が恐ろしかったのではない。自分と、城崎の身にこれから不幸なことが襲いかかってくるのではないかという強烈な不安に苛まれた。
「話があるの。城崎くんのことで」
そこにいた人物とは飼い主の同僚の女性、樗木だった。そして残念なことに、小春の不安は的中することになる。
*
城崎が白衣のポケットからひとつの紙切れを見つけたのは土曜の朝だった。
本日は絶好の快晴。木・金曜と雨が続いていたので、洗濯日和の今日、仕事着の白衣をまとめて洗濯しようとしていたところ、衣類の中からなにやら紙が擦れる音がした。
不審に思って白衣たちのポケットをまさぐると、その紙切れを発見したのだ。
危うく洗濯して大惨事になるところだった──城崎はほっと胸を撫で下ろした。次の興味はその紙が何の物かという疑問に移る。
はじめは伝達事項のプリントを入れっぱなしにしていただけかと思ったが、折られた紙を開くなり、まず手書きであることに違和感を抱いた。それから間もなく紙面の文字が小春の直筆のものだと城崎は瞬時に理解した。これまでの筆記練習で何度も見てきて添削や修正をしてきた文字なので、彼には見覚えがあったのだ。
小春の書いた綺麗な文字。漢字もすべて正しい。けれど歪で、幼い文体。そこから伝わってくる深い反省と許しを乞う態度。
先日の図書管理室での出来事が城崎の頭に突き刺さる。彼女が話していた「謝罪文」の存在。
城崎は事の顛末を呑み込み、大きく項垂れた。
小春は水曜の夕方に謝罪文をロッカーに入れ、翌日の木曜の朝、城崎がロッカーを開けて紙切れを発見することを想定していたのだろう。まずかったのは、研究員の彼がロッカー内に保管していた未洗濯の白衣を持って帰るため、問題のポケットの中身も確認せずにそのまま鞄に詰め込んでしまったことだ。だから小春の口からその存在を聞いても、知りもしなかった彼は冷たくあしらってしまった。
『謝罪文?なんだそれは』
自身の冷酷極まりない言葉が嫌でも脳内でリフレインする。同時にあの時の小春の寂しげで今にも泣きそうになっている苦悩の表情も。
「あぁっくそ!」
城崎は不機嫌に壁を殴りつけた。
──白衣を片付ける時に気づいていれば、せめて謝罪文を読んだと伝えてあげられたし、あそこまで小春を追いつめる言い方をせずに済んだのに。それなのに僕は……。
彼は自分を恨んだ。舌打ちする。とにかく腹立たしかった。なんでこうも彼女の気持ちや行動にもっと早く気づいてあげられなかったのだろうと。
第一に、犬人がデスクルームやロッカーへ立ち入り禁止となっているのを伝えなかったのは担当としての監督責任の不足だ。この件で小春は何も悪くなかった。
人と犬の関係において、いつだって悪いのは犬ではなく人だ。人の社会のルールを身勝手に犬に押しつけるのだから、犬の失態は人の責任であって然るべきなのだ。
小春との親密な関係を周囲から疑われないためとはいえ、彼女を叱りつけてしまった。理不尽だっただろうに、そうとは考えず、ただ飼い主のために謝罪文を出してきた彼女を突き放す形で。彼女の悲しそうな顔が離れなかった。
洗濯機にはまだ洗剤の類は投下してない。城崎は、昨日まで着ていた比較的新しい白衣を引っぱり出す。
「今から、ドリームボックスに行って……」
──小春に謝らないと。今度は僕の番だ。
城崎は情けなさと懐かしさがまざり、意識して苦笑した。小春と出会った当初もこんなことをした記憶があったからだ。
彼女が無断で図書管理室から借用していた本を没収した日のことだ。その日の帰宅中に罪悪感に駆られた城崎は本を──彼女が最も気に入っていた絵本を自腹で買って、彼女に届けるためにドリームボックスにとんぼ返りしたのである。
彼女に謝る。たったそれだけのために。
今も同じことをするだけだ、と城崎は身支度を開始した。
基本的に多忙でもない一般職員は土日にドリームボックスに出入りはできない。だが機密情報の含んでいない仕事用の資料で進めたい物を家に持ち帰りたいと伝えれば、それを回収するまでの三十分ぐらいは施設にいても不自然ではないだろう。この時間を利用して小春に会いに行こうと彼は考えた。
以前のお詫びには『星の王子さま』をあげたものだが、今回は何にしようかと城崎は悩む。
久しぶりに彼女に手製の弁当を持っていてあげるべきだろうか、それとも前に喜んで食べていた甘いドーナツか──。
部屋着から外出用の格好に着替えながら、悶々とお詫びの品を何にするかと逡巡していた彼の元に、正気に戻れとリビングから電話の着信音が鳴った。
不快な電子音に彼は一瞬ベルトを締める手を止めたが、着信音を聞き続けるのも癪なので、間髪入れずそれに出た。
「はい?」
「あ……し、城崎くん。私だけど」
反射的に出たので相手を確認しなかったが、電話先の声から樗木だと分かった。しかしやけに掠れた声だった。
「……ごめん。そのね、悪いんだけど……今からドリームボックスに来て。来てくれない?」
「え?今から?」
「うん。休日にごめんね。南棟の204ちゃんの部屋まで……来てほしいのよ」
「それは別にいいけど。何か新しい仕事?」
なぜ樗木がそんなことを頼むのか城崎にはさっぱり分からなかったが、元々今からドリームボックスに行って小春に会うつもりだったので、二つ返事で快諾した。
──樗木さんがいるのか。正直邪魔だな。
城崎は小春と二人っきりで話がしたかったので、樗木の存在が疎ましいものに思えた。彼女は能登谷や佐中と同じく犬人が感情や自我の保有を信じていない。城崎にとって味方ではない。
「う、ううん……そうじゃなくて。ね、早く来て」
断絶するみたいに声が途切れている。気のせいだろうか、彼女の声が小さく聞こえた。電波の調子が悪いのかと城崎が聞くと、彼女は『そうじゃないの』とだけ答えた。喉が苦しそうな声だった。城崎は懐疑的に端末を握り直す。
──何かおかしくないか?
「樗木さん?」
「お願い、早く──きゃっ」
樗木の短い悲鳴がしたかと思うと、声が遠ざかった。非常事態が発生していると城崎は動揺した。
端末の向こうから、がたっと物音がする。
「しろさき」
名前を呼ばれて驚く。樗木が呼んだのではない。別人の声。無邪気ながらも陰鬱そうな幸薄いその声の主は小春だった。
「……204か?」
樗木もその場にいると思われるので、城崎はあくまで犬人に対して冷徹な普通の職員を装うことにした。小春とは呼ばなかった。
それから数秒、彼女は何も返事しなかった。
──どういうことだ?
「なんのつもりだ?要件は?」
「……今すぐこっちに来て。おてき、は人質にした。しろさき、私に会いに来て。お願い。お願いします」
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