40話

「ねぇ城崎くん」


 図書管理室へと向かうため廊下を歩く城崎は、隣にいる樗木に話しかけられても彼女とは目すら合わせなかった。


「なに」

「未だに怒ってるの?その……この前のこと」

「当たり前だろ」


 異動申請書を押しつけたことだろう。神経を逆撫でされている気がし、城崎は短く応えた。

 樗木は目を伏せる。


「そう」


 彼女が謝ることはなかった。それだけ返事で呟くと、視線を前方へと向け直した。



 その後、二人の研究員の間には会話もなかった。不揃いな足音たちは淡々と指定された目的地に到着する。時刻は始業直前。室内は平然そのものかと思われていたが、ちらほらと見える数名の職員たちの表情はいつになく険しかった。


 ──何事?


 足を進める。

 図書館管理室は、出入り口付近を除いて、背の高い本棚に四方を囲まれる形の内装となっている。相当な広さだ。ちょっとした図書館なんかよりも遥かに規模がでかい。

 本棚の中身は犬、あるいは犬人に関する文献をまとめた物が主だが、他にもいくつか他分野の研究者がその研究に使うと思われる堅苦しい哲学書や工学書が収納されており、一般文学の本まで割かしなんでも揃っている。


 この施設は表向きは技術の粋を集めた複合研究施設・ドリームボックスとして機能し、時にはネットで新技術の公開を行うなど、世間には徹底したクリーンさを謳っている。そのため彼等のような汚れ仕事ではない人間と研究が必要……と言っても彼等は単なる囮的な役目ではなく、実際に職員として働いているし成果も上げている。

 ここは犬人以外にも大分金を回しているようだ。それが直接の理由なのかは分からないが、城崎は最近犬人に関する本棚が減っている気がした。

 ドリームボックスは犬人の安価化、しかも生産体制すら未だに構築できていないのだ。おまけにまともな個体も数少ない。ノウハウがないとはいえ、十数年以上も製造してきてこの有様である。

 いい加減、政府も何か考える頃かもしれない。南棟の来年度の予算が大幅に縮減されるという噂話も聞いた。

 そもそも犬人が非人道的な研究であることは擁護の余地がないし、国内外に犬人の存在が伝わった時の批判の嵐は指摘するまでもないだろう。いつまでドリームボックスがこの狂気のプロジェクトを推進するのか知る由もないが、小春や異動の件といい、城崎は何か大きな事が裏で動いている気配を察知していた。


 部屋を歩くにつれて職員たちの話し声がよく聞こえてくるようになった。樗木も事態を呑み込めていない様子でしきりに周りに目をやっている。

 だがその騒ぎの原因が──よりにもよって、自分のことだと城崎が理解したのは、本棚の囲いの中に整然と並ぶ長机と個人用の椅子、その内のひとつにある少女──否、犬人がいたからだった。


「あ」


 はっとして声が出てしまう。城崎は室内にいる一匹の犬人の少女に釘付けになった。F型の華奢な体躯、白く美しい髪、毛並みと宝石のような青く透明な目。雑種の柴犬の遺伝子がベースとなった大きな犬耳と尻尾。


 ──小春。


「……え」


 彼女の方も元相方とも言える存在の来訪に気がついた様子で、慌てて本から顔を上げた。両者とも予想外の再会だった。デスクルームでのやり取りから翌日のことであるし、城崎は気まずかった。

 小春は大人しく席について読書に勤しんでいたらしい。本は『星の王子さま』ではなかった。何かの詩集だ。

 一人と一匹は互いに見つめあったまま数秒の間、固まった。周囲は衆人環視を決め込み、両者の関係を確信したようでざわつき始める。それはちょうど先日のデスクルームでの喧騒と似ていた。人数が少なく、音を吸収する物が多い図書室であっても、人の密めく声と声が城崎の胃をキリキリと圧迫した。


 ──どうしてここに。


 彼の視界の奥にいるのは、目を輝かせながらも、暗澹さを漂わせるかつての飼い犬だった。彼女はゆっくりと立ち上がった。


「……あの」


 小春は城崎へと静かに人間並みの速度で歩く。


 会話したいのだ、と研究員の方は瞬時に理解する。屋上でそうだったように、どうして担当から離れたのか、この場で問い詰めてくる気だ──。怯えるように彼女の瞳を見る。

 城崎は小春の暴走が恐ろしかったのだ。自分の命が惜しかったのではなく、犬人が人間に危害を加えれば即刻処分されるという話があるからである。彼女が感情に任せて人前で元担当の人間を傷つけようものならば、せっかく上層部と取りつけた撤回の件も水泡に帰す。

 とはいえ、もしそうなったのなら、それは仕方がない事だと城崎は心のどこかで諦めていた。あれだけ慕ってくれていた小春に対して今まで十分な説明も一切せず、見捨てたと誤解されても致し方ないレベルで彼女を避けていたのだから、と。

 小春は本をよく読むが、人間社会の曖昧さは知らないはずだ。城崎の行動に疑問を持つのはごく自然なのである。彼女の中でそれが怒りに転じても城崎が言い訳する理由にはならない。城崎自身、そんなことは前々から承知していた。吸い込まれそうな青い瞳が徐々に接近してくる。


「しろさき……さん」


 彼女は呟き、長机の角を曲がって城崎と樗木がいる方へと歩く。その直前に尻尾が軽く揺れた。

 歩く時の揺れで何回か左右に揺れていたが、一瞬だけ意図的に大きめに動いたように見えた。タイミング悪く、その時の彼女の尻尾は机の死角に隠れていたので、どのように振っていたのか城崎には判別できなかった。

 一般に犬は歓喜の際に尻尾を振るとされ、怒りをあらわにするに当たっては揺らすことを止めると言わている。だが、この話は厳密に合っているわけではないようで、論文や動物行動学者によっては、怒っている際にも緩慢に尻尾を振るという説を提唱するものもある。つまりはっきりとは定まっていない。研究者の間で見解として一致しているのは、犬が尻尾を「右」に揺らす時はリラックスしている場合が多いということだった。


 今、小春はどちらに振ったのか──?


 城崎が漠然とそう考えていると、もう傍に彼女が立っていて、元飼い主の顔を見上げていた。


「しろさきさん」


 きちんとした敬語。研究員は少女を見下ろすようにして真正面から対峙した。


「なんだ204」


 苦渋に満ちた声でそれだけやっと発した。

 小春はしゅんと肩を下げて、それっきり閉口してしまった。下唇を軽く噛んでいる。城崎は耳を澄ますと、彼女が喉の奥で唸っているのが分かって寒気がした。


 ──やめろ。やめろよ小春。変なことだけはしでかすなよ。


 戦々恐々と底冷えする彼の意思が伝わったのか、少女は怒る様子もヒステリックな声もあげず、ぼんやりとした捉えようのない口調で切り出す。


「謝罪文、書いた……んです。それ、ロッカーに入れておいたんです。昨日しろさきさんが帰ったあとに。もう読んでくれましたか?」


「……謝罪文?なんだそれは」


 犬人の少女が男性職員のロッカーへ無断侵入したという事実が図書管理室中にいる人間に伝わる。

 嫌悪の表情を浮かべる者、嘲笑する者、小春の犬人らしからぬ突飛な行動に眉をひそめる者──皆、一様に一人と一匹の次の言動に注視している。

 背筋に汗が垂れた。このままではまずいことになる、と城崎は焦る。


 ──人前で変なことを言わないでくれっ。


 周りには読まれない程度に正面にいる小春へ顔つきを凄めると、彼女は挙動不審に両手を胸の前で合わせ、指同士を絡ませながら不安そうに尻尾を重力に預けた。


「あの、この前デスクの部屋に入っちゃったことを謝りたかっただけなんです……」

「犬人はロッカーも立ち入り禁止だ」


 小春の健気な行いをぴしゃりと打ち返した。

 周りには一人の研究員として振る舞わなければならない。不信感をこれ以上向けられればどうなるか城崎も分からなかったからだ。

 彼は非情な言葉を続ける。


「あの時、君には厳重注意したはずだ」


 担当が外れたとはいえ、今後の小春を見守るためにもドリームボックスからの除籍は絶対に避けたい。そのためには普通の研究員としての装いをしなければならない。

 けれどもそれを徹底すればするほど、問題児として見られる彼女との繋がりは切れて、遠ざかってしまうというジレンマ。


「したがって謝罪は必要ない」


 城崎は無力さと飼い主としての不甲斐なさで、歯ぎしりしそうになる。


「……用はそれだけか?204」


 彼は心を殺して凍てつく声で犬人研究員の模範を演じた。

 小春は呆然としている。


「あ、う。はい……」


 彼女の潤む瞳からは今にも涙が落ちそうだった。

 城崎は歯がゆさのあまり、自分の首を掻きむしりたくなった。激しいストレスで心臓の鼓動のペースが早まる。喉が渇く。視界が狭まる。

 目の前の少女だけがこの世界で大切な存在なのに、彼女に向かってこんな冷酷な態度を取らざるを得ない状況に腹が立ち、同時に情けなくなる。

 大人になっても一匹の犬も満足に救えない。シロを助けてあげられなかった幼い頃の自分より成長しているはずなのに──否、本当に自分は大人になれているのか?


 城崎は自問した。答えは出てこなかった。

 小春が口を開く。


「……しろさき……さん。ね、そのね。えと、しろさき。さん。私ね、がんばったんだ……です。がんばったんです」


 その声に我に返った城崎は小春に視線を戻した。彼女は敬語とかつての口調が入り乱れていた。

 城崎はそこで確信した。小春は決してこちらに対して怒っているわけではないのだと。復縁を図り、以前のように甘えたかっただけなのだと。何も知らないまま、しかも飼い主から疎まれた素振りを取られても、尚も飼い主への愛情を失うことは彼女にはなかったのだと。なんて高邁で忠実な犬なのだろう。

 彼は内心で少女の名前を何度も叫んだ。

 黙って君を一人ぼっちにして悪かった、でも君のためだったんだ──。彼はすべてを伝えて彼女に優しく甘やかしてあげたかった。めいっぱい頭を撫でてあげたかった。できることなら既に何回もそうしていた。


 城崎は断腸の思いで少女を無視した。これまでこちらを信じていてくれたのだから、今回もそうしてくれと祈りながら。

 立ち尽くす犬人の少女から視線を外し、城崎はやや後ろにいた同僚に話を振る。


「樗木さん、資料ってどこ?」


「……あ、うん……。たしか室長さんがまとめてくれているって話だけど」


「じゃあ早く行こう」


 犬人の少女の横を過ぎる。そんな同僚の背中を樗木は後ろめたそうに追った。


 城崎と小春の一悶着が終わったのだと分かると、周囲から様子を伺っていた職員たちも、自分たちにも仕事があるのだと思い出したように次第に散っていった。



 この時、小春の中では城崎という人間が忽然と消えた。


 ──え?なんで無視するの、しろさき……?


 次の瞬間、彼女の前には城崎ではなく、かつてのような人嫌いで冷たい白衣をまとい、外部からは孤立した研究員の姿があった。彼が他の大人たちと変わらないように彼女には思えたのだ。彼女の中で飼い主が完全に死んだのだ。


「ど、どうして……?なんで?しろさきは、私のしろさきは……」


 小春は、自分の優れた犬耳でも聞き取れないほどの小さな声で疑問を発した。

 さきほどの城崎の無視が決定的な打撃となり、小春の心は打ち砕かれてしまったのだ。城崎は少女のことを信頼していたが、彼女の方はもう限界値を上回っていたのだ。飼い主が期待するほど、分離不安症の犬人は強くなかったのである。彼女の心は粉々に壊れていた。

 優しかったはずの飼い主は何も言わずに自分を捨てて突然いなくなり、一ヶ月もの間も孤独を味わった。そしてやっと会えたかと思えば、別の犬人の担当になっている。必死のアピールも謝罪も何も通じず、今も冷淡な態度しかとられない。

 だから彼女は本当に捨てられたのだと思わざるを得なかった。それが意味するのは愛情の喪失。ほんの数ヶ月前まで当たり前だった幸福は霧散し、今後戻ることはない。

 犬は愛情で生きる生物だ。それが無くなった。


 小春は城崎と出会う前の記憶がフラッシュバックした。生まれて世界を認識した頃からの孤独、侮辱するような視線の数々、憎まれ口……。

 それらから救ってくれた城崎という存在の消失。あのモノクロの日々にまた戻ってしまうのだ。自分はとっくに独り身の野良犬なのだと彼女は否が応でも自覚してしまった。

 認めたくない、そんなの嫌だ──。彼女の全身には黒い恐怖と絶望が駆け巡った。


 ──しろさき、しろさきっ。しろさき……っ。嫌っ。無視しないでっ。私を見て!ねぇってば……。


 しかし彼女の身体は動かない。犬人の高い身体能力が存分に機能せず、小刻みに震えるのが精一杯だった。もう何をしても無駄なのだと本能的に理解してしまったのだ。少し城崎の顔を観察さえすれば、彼の冷酷な言動には嘘そのものであり、本当は自分のことを嫌っているわけではないと分かるにもかかわらず。彼女にはそれをするだけの気力もなかったのだ。

 十分ほど経っても、小春はその場に立っていて何もしなかった。泣くことも、嘆くことも、怒ることも。何の反応も示さなかった。かつて東京にあった忠犬ハチ公像の如く固まっていた。

 ただ室長から渡された資料のプリントの束を抱えた城崎と樗木の姿を見るなり、小春は硬直が解けて、嗚咽まじりに早足で退室した。

 飼い主の方はそんな彼女を追いかけることはしなかった。

 出入り口から飛び出た小春は、廊下の方から振り返った。彼が追いかけてきてくれないことを知ると、この時、小春にとっての飼い主との溝は決定的に深く隔たれたものになった。小春は真っ赤になった目を左手の甲で隠しながら走り去っていく。声はあげなかった。あげられなかったのだ。彼女の大粒の涙だけが廊下に雨となって落ちていった。


 廊下の窓には彼女の涙ではなく、本物の雨粒が這っていた。外も雨が降り始めた。台風がやってくる季節。試験の時期は目前だった。

 そして秋は更けていく。

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