39話

 南棟の端にある広い一室で、小春は飼い主のロッカーを探していた。犬人の優れた嗅覚は飼い主の残り香を探り当てることに悠々と成功し、彼女はその扉の前へと立つ。


 ──みっけ。


 笑顔になる。窪みになっている取っ手に華奢な指を入れ、扉を引き開けようとするが、当然のように鍵がかかっていて開かなかった。

 小春は顔をしかめる。ここまで来て何もせずに帰るのは惜しい。彼女は周りに人影がないことを再度確認するなり、犬人の力で施錠されたロッカーの扉をこじ開けた。

 室内にめきょ、とスチールの悲鳴が短く響く。ロッカーのそれは古い鍵だったので、無理にこじ開けることは人間の力でも不可能ではない。犬人が相手ならばそれは尚更だった。


「わっ」


 開けた途端、鼻が大いに刺激された。意識せず犬耳と尻尾が跳ねるように伸びる。

 ロッカーは飼い主の匂いがべっとりと付着している物で溢れかえっていたからだ。小春は、にへらと品なく笑いそうになった。ハンガーにかかっている一着の白衣は脱ぎたてのようで、小春はそれを手に取って鼻を埋めるなり、頭が蕩けた。


 ──しろさきだ。しろさきの匂いだ!


 大好きな飼い主の体臭で鼻が幸せだった。小春はしばらく白衣を自分の身体に擦り付けるように抱きしめた。飼い主にハグしている錯覚。理由は分からないが今日の白衣はやけに匂いが強く、小春の鼻腔を満足させるには充分過ぎた。


 ──あれ、私なにしに来たんだっけ?


 どこか遠くへと行きそうな至極の境地。理性でそこから覚めると、彼女は白衣についた皺を丁寧に払い、元あったようにロッカー内に戻した。それから謝罪文が書かれたノートの切れ端を白衣のポケットに入れておく。


「よし、うん!これでよしだね」


 これで明日の朝には飼い主が気づくだろう。小春はロッカーの扉をそっと閉めた。当初の目的を達成した彼女は意気揚々と来た道へ駆け出し、自室へと引き返した。



 鍵穴にキーを突っ込む。だが取っ手に触れるまでもなく、城崎は違和感を覚えた。

 朝の出勤の時間帯。南棟の端に位置する男性職員用のロッカールーム。その隅にある彼用の古い棚の扉の鍵──というより扉のロック部分が根元から破壊されていたのだ。キーを抜くなり、持っていた荷物を一度床に置いた。


 ──盗みか。この職場で?


 城崎はこの状況でも特に喚くこともなく、周りの職員たちに悟られないように平然と扉を開けた。

 中は特に異常がない。白衣もあるし、小物入れもちゃんとあった。盗みにしては様子がおかしい。城崎は疑惑の目つきでロッカー内を手当り次第に漁る。小物入れに放ったらかしにしてあったプリント類も無くなっている物はなかった。

 職員の各自デスクは機密保持などの理由があって、鍵のついたプライベートなスペースはない。だから確かにドリームボックスの職員の財布などを狙おうという魂胆なら、自ずとロッカーが破壊対象になるのは頷ける。


 城崎は疑問に思った。それならば、昨日の帰りの時点で鍵が破壊されているべきだ、と。財布の持ち主が定時で帰宅した後にロッカーを漁っても金目のものはないのだ。ドリームボックスの職員に窃盗犯がいるとして、その人物は昼間に犯行しなければ意味がない。


 ──となると犯人は僕が残業するとでも思っていた?あるいは……僕以外のロッカーも手当り次第に?


 残業の時間帯を狙っての犯行ならば分からなくもない。人目はないし、帰宅していない職員のロッカーを探れば財布なり荷物なり盗めるだろう。だがそうなると、もっと忙しそうな人間のロッカーを襲えばいいものだ。

 城崎はちらりと周りで白衣を羽織る職員たちに目をやるが、他は誰のロッカーも鍵は壊されてはいない様子である。


 ──たまたま選んだのが僕のロッカーだった、とか?それにしては色々お粗末だが。


 ひとまず白衣を羽織ろうとした時、彼は気づく。ハンガーにかかっていたそれは、洗濯のために昨日の帰りに家に持って帰ろうとしていたもので、結構匂いがキツくなっていると。


 ──忘れてた。これ洗うつもりだったんだ。


 鞄に詰めていた未使用の白衣を取り出してそちらを着る。入れ替わる形で未洗濯の白衣をしまった。

 たたみもせずに、白衣をぎゅうぎゅうと鞄の中に乱暴に押しやる。その際、何か紙のような物が曲がる音が聞こえた気がしたが、城崎は気にすることなかった。

 そんなことよりも、能登谷に挨拶がてらこの件を報告しなければと思った。職員証のIDカードと財布、仕事用の資料のファイルだけ鞄から抜き取って、ロッカーの扉を閉めると、彼は足早に上司のデスクへと向かった。



 城崎が能登谷のデスクに顔を出し、ロッカーの件を話そうとしていたところ、ノックがして室内に樗木が訪れてきた。


「んー。樗木かよ。お前も何か用か?」

「あ、はい。ちょっとご相談がありまして……」


 能登谷の方に身体を向けていた城崎だったが、近づいてくる樗木を目で追う。彼女は視線に気づいたようで、バツが悪いそうに俯いていた。若干ウェーブのかかった茶髪を束にして左肩にかけている彼女は、どこか元気がない。


 久しぶりに樗木と顔を合わせた気がした。無理もない。最後に直接会ったのは例の異動の申請書のことで、それ以外では互いに極力接しないようにしていたのだから。

 城崎が異動した一件は噂になっているので樗木も当然知っているはずだが、上司の能登谷越しとはいえ、実の同僚に対して無理な異動の勧告を迫った過去のことに曲がりなりにも罪悪感があるのか。

 城崎は、隣にいる同僚を唾棄するような横目で眺めた。普段は明るい人物だが、彼女がかつて口にした非情な台詞は忘れていない。


 『あの子は雑種だよ?失敗作なんだよ?』


 こいつのことなんか信用していない──と城崎は自分に再認識させるように心中で言った。それに、と能登谷に視線を戻す。


「お前ら二人して朝からなんだよ一体さぁ……」


 気だるげに喋る能登谷に城崎は舌打ちしそうになる。樗木同様に彼のことも信じていない。異動の件は、ドリームボックス上層部の仕業なのは彼が白状している。

 実験個体としての小春の扱いがどのような計画の元で進行していたのかは城崎は知らないが、上層部の面々が未だに小春の処分に執着する節があるのは十中八九間違いない。彼等は何かを隠している。それを悟られないために自分を強引に外したのだ、と城崎は確信していた。


 ──どんな手を使っても、こいつらクズ共に小春を殺させはしない。絶対にだ。そんなことになったら、刺し違えてでも職員を皆殺しにしてやる。


 城崎の殺気立った内心はいざ知らず、能登谷は朝から部下二人に話をもちかけられそうになり、項垂れた。


「お前ら部下はいいよなー。問題点を勝手に上に挙げるだけ挙げて、後はヨロシクだもんなぁ」

「そんな愚痴言わないで下さいよ」と、樗木が返す。

「いーや言うね。俺だって現場の研究員でいたいんだ。楽じゃないが責任はないから気楽そのものだぞ。まぁ給料が問題なんだけどな、わはは」


 力なく笑う能登谷。

 さっさと話を進めたかった城崎が「あの」と切り出す。会話の主導権を握ると、彼ははっきりと簡潔に要件だけ伝えた。


「……はぁん。ロッカーが?こりゃまた大変だな。分かった、保全部の連中に声をかけてみる。窃盗だし、場合によっちゃ警備部にも話が回るかもしれんが──」

「被害はなかったですしあまり騒動にもしたくないので、保全部だけで構いませんよ」


 これ以上目立ちたくないですから、の一言は喉の奥にやったが、能登谷は城崎の気持ちを汲み取ったらしく薄く笑う。


「目立つのはこりごりか。俺はここに長く勤めてるが……転属から一年足らずで施設中に名前が広まった研究員はお前が初めてだぞ?城崎」


 彼は皮肉のつもりで言ったのではないが、精神的に余裕のない城崎にはそう聞こえた。軽い会釈だけで応える。


 樗木は今の男二人の会話の繋がりを変に思ったらしく、眉を寄せていたが、城崎が人との関わりが薄い性格だと思い出したようで納得して息を吐いた。


「あの、能登谷さん。今度は私なんですが──」


 このまま退室しても良さそうだったが、三人での会話の空気感というものに阻まれ、流石の城崎も樗木が報告し終わるまで待つことにした。


 樗木の報告は単純な苦情で、食堂の整備不良、購買の設置などの微々たる要求だった。ドリームボックスの食堂はまずいし、購買もない。能登谷は聞きなれたものだと言わんばかりに軽く受け流していたが、若い面々は割かし不満が噴出しているらしい。樗木は若手代表で上申しにきたようだ。


「悪いな。食事事情の件はまぁ色々と上は検討してる……はず」

「はず?」


 ぎろりと樗木が睨むように言うと、能登谷は焦って首を横に振った。


「いや、してるから今しばし耐えてくれ。俺だって家内が弁当作ってくれない日にゃ大変なんだ……あ、それはそうと二人とも、ちょいと今からで悪いんだが別件の仕事してくれない?」

「今からですか?」


 話題を脱線させてくる能登谷に、城崎と樗木は呆れた。しかも飛び火したのは余計な仕事のようだった。おそらく雑用だ。

 さっさと早い段階で退室すれば良かったという読みは当たっており、城崎は思わずため息をついた。樗木もどこか不貞腐れた表情で口元を歪めている。


「で何ですか?仕事って」


 ぶっきらぼうに聞くと、能登谷は苦笑した。


「図書管理室に行ってくれ。こっちに運んでほしい古い資料の山がある」

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