38話
掃除アピールで惨敗し、部屋に引き返してきた小春。彼女が次に考えたのは謝ることだった。
というのも、彼女は過去にデスクルームに入って無断で飼い主の万年筆を借用した際、飼い主から「盗られた人の気持ちを考えろ」と口酸っぱく叱られた経験があったのだ。考えた結果、真面目に謝るしかないのではないか、と彼女は結論づけるに至った。
そして、例によって飼い主──研究員たち人間の大人が好きな謝罪の方法というのを小春は知っている。それは直接頭を下げることではない。
大人は自分よりも立場の偉い人間によく報告書を提出する。飼い主の日々の行動を見ていて小春はそのことを心得ていた。大人は紙切れが好きなんだなぁと思いながら。だから、これを謝罪に転用できないかと考えついたのだ。
言うなれば謝罪文である。
「えと、以上のことから深く反省しています。今後は再発防止に………う〜ん、ダメだこんなの」
途中まで書いていた紙を両手で圧縮する。質の悪い紙切れをまるめた不出来なボールが完成し、彼女が部屋の隅へと豪速球で放棄するも、とりたてて大きな音はしなかった。
小春が自己流の謝罪文の作成に取りかかってから早数時間が経過している。
彼女は書いている文章に少しでも誤りが発生したと思ったら、くしゃくしゃにしてゴミ箱に放り捨てる作業を既に何十回もこなしていた。何度も何度も繰り返しているうち、ようやくまともな文章が形成されてきて……かと思えば言葉の綾ですぐにまた水の泡。そんな執筆の螺旋階段を延々と昇り降りしていた。
「うぅ〜……分かんない」
小春は紙を凝視する。その紙切れは、犬人用の筆記ノートから綺麗に破った物を縦長で、横書きにして書き進められている。紙の出処はともかく、形式は飼い主の手元によくあった資料のスタイルと同じだった。
糧食を片手に空っぽの紙切れと睨めっこを続ける彼女は、ふと飼い主たる城崎の顔が浮かぶ。
彼もかつてはこの部屋で、仕事の資料たちを相手に怪訝な表情で全身を固まらせたり、あるいは逆で素早くペンを走らせていたものだった。その姿と執筆する自分を重ね合わせた小春は、にやにやと口元が俗っぽく緩んだ。
──今の私、もしかしてしろさきっぽいかな?
小春は、憧れで恋焦がれている彼と似たような作業をしている自分が誇らしくなった。
人間の大人の客観的な目線で観れば、今の彼女の気持ちは、本当の書類仕事を知らない子供のただの奢りにしか映らないかもしれない。人間もどきの犬が、人間らしいことをして浅ましい自己満足に浸っている──と。しかしそもそも犬の仕事とは、単に飼い主を健気に想うこと、たったそれだけなのだ。
そういう意味で、自分の元を去った城崎という一人だけの飼い主を今も心から慕っている彼女は、たとえ担当の人間がいない野良犬であっても素敵な犬だった。
*
──あの子は……何をしようとしてるんだ?
城崎は195の自室で、苛立ちを押さえつけながらも犬人の研究資料の束に目を通していた。だがあまり文字が頭に入ってこない。それどころか視界が歪み、文書の文字は均等な列を成していない気までしてくる。
半ば呆れ気味に、資料を机にどさりと置いた。
ふわりと欠伸をひとつ。壁掛け時計を見上げると昼休みだった。
「195、休憩は?」
「必要ありません。試験までもう時間がありませんので、返上して課題に取り組みます」
隣でテキストに取り組んでいる彼女はいつものように休憩なしで勉強する手を休めなかった。
「そうか。なら僕はここにいるから、今やってるところが終わったら呼んでくれ」
「了解しました」
事務的な195に一瞥もせず、城崎は資料の束を下敷きにして頬杖をついた。
彼の頭の中身は朝のデスクルームでの一件でいっぱいになっていた。小春によるあの出来事は、かつての脱走などの大騒動とまでは発展しなかったものの、野次馬の研究員たちには充分に衝撃的だったようだ。当然のように噂は瞬く間に広まっていった。
もはや城崎の名前を知らない人間はこのドリームボックスにはいないだろう。悪い意味で。
廊下を歩くたび、感じる痛いほどの視線の群れは、人嫌いの彼を確実に苦しめていた。
「はぁ……」
ため息をつく。
──小春は僕を恨んでいるのか?それで僕が悪目立ちするようなことをしてきたのか?
彼がそう考えるのも無理はなかったが、これは正しい答えではなかった。飼い主の城崎は──小春の不条理な殺処分を推し進めようとしていた上層部と折り合いをつけるため、やむなく彼女の担当から離れることを条件に、次の試験の結果次第では処分を取り下げることを確約させた。
担当異動以降、彼が小春と関わろうとしなかったのは、これらの事情をかいつまんで説明したところで、彼女が絶対にいい顔をしないからだ。場合によっては彼女なりの抗議で、上層部の人間や他の研究員たちに暴力的な行動に出るかもしれない。そうなれば試験の結果がどうであれ、春の殺処分の話は復活するだろう。
要約するに、自分たちの親密な関係性を破壊してまで生き延びようとはしないであろう彼女の身勝手な暴走を未然に防ぎ、あくまでも健康に生きていて欲しい。その結果、二度と会えなくなっても構わない。これが城崎の考えであり、今日までの行動原理だった。
だが飼い犬の小春は──とにかく城崎から離れたくない、という一点に尽きる。彼女の言動すべての原動力は、城崎ひとりのみ。そんな彼に嫌われてしまった。しかしまだ生きることを諦めてはいない。城崎の愛情をなんとか取り戻そうと躍起になってきている。
互いで認知のすれ違いが発生しているのだ。一人と一匹はお互いに満足に意思疎通が出来ておらず、話が噛み合っていないのである。
現状、城崎は小春の行動を捨てられた恨みからくる復讐的なものだと解釈している。
小春はその逆で、日頃から言うことを聞かずに甘えてばかりだった自分という存在のストレスから逃れるため、城崎が去っていったのものだとばかり勘違いしている。無論、一人と一匹は相手の心を読めないので、この歯切れの悪い齟齬に気づく様子は両者ともない。
──でも、あそこまで強く怒らなくてもいいんじゃなかったか?
デスクルームでの一喝。小春を叱りつける自分の声がやまびこのように脳内で反芻する。城崎は淡くない後悔に苛まれる。小春の怯えた顔がさっと目の前を横切った気がした。
──小春。
『私ね、もっとがんばるからね。だから待っててね!』
昨日の屋上での195との喧嘩後、着替えの服を受け取るために近づいた小春が発した言葉。
はっとした城崎は思わず、そうだ、と呟いた。
──なにもあの子は僕を嫌っているわけじゃない?でもだとすると、担当を異動した翌日に、しろさきはどこだーって、デスクルームに僕を探しに現れてもおかしくなさそうなものだし……?
「城崎さん?」
「……いや、なんでもない」
横から声が入って、城崎はびくっと肩をこわばらせた。あれこれ考えている彼の独り言を195が不審に思ったらしい。
小春と同じF型の優秀な個体──195は、声も同型の小春と非常に似通っている。彼女のことを考えていた城崎が驚くのも無理はなかった。
「大分お疲れのようですが大丈夫ですか?」
「問題ないよ。ぼんやりするのは昔から僕の悪い癖でね。気にしないでくれ」
「そうでしたか」
195は生真面目そうに立つシェパードの犬耳をやや前倒しに動かした後、手にしていたテキストを開いて見せた。
「話は変わりますが、さきほどの課題が終わりました。休憩中でお手数お掛けしますが、もしよろしければご確認お願いします」
「別にいいけど。じゃあ見るから、せめてその間だけでも君は休んどけ」
「はい。そうさせていただきます」
195はそう言ったものの、正座座りで足を崩すことも、背筋を伸ばすことも止めようとはしなかった。小春ならばこのような堅苦しさは微塵もない。
──小春とこの子では、根本的に何かが違うのだろうか?
城崎は前々からそう思っていたが、ではどこに差異があるのかは依然として答えられなかった。
佐中所長の犬人の研究論文に記述されている通り、本当に195をはじめとする殆どの犬人には自我や意識がないのかもしれない。だが
──あの子には松果体があるんだ。
城崎はそこまで考えてから軽く咳をした。小春と出会ってからというもの、彼の中の科学的知見に基づく見方は無くなりつつあった。
哲学者・デカルトはかつて人間の意識は松果体という器官が発生させるものだと信じて疑わなかった。これは事実とは異なる。松果体は日光を浴びた際に睡眠に必要なメラトニンというホルモンを生成する器官に過ぎない。
デカルトの見方と言い分を借りて城崎の考えを言うならば、殆どの犬人には松果体がないが、小春にはある、ということになる。
──いや、そんなのどっちでもいい。とにかく生きてさえいてくれれば……。
欠陥品の烙印を押された小春だが、城崎にとっては、彼女の方が優秀個体として通用する195よりもずっと素晴らしい犬人だった。できることなら彼も小春と共にいたかったが、今は彼女が大人しくしていることだけを願うばかりであった。
*
ドリームボックスに定時の時刻が訪れ、仕事が終わった研究員たちがまばらに増え始めた。
その様子を中庭のベンチから眺める小春は、城崎の姿を探していながらも、彼と直接会うのは止めた方がいいと判断していた。今は人が掃けるのを待っている最中だ。
書き上げた謝罪文を城崎のロッカーに入れておこうという魂胆だ。彼のロッカーはデスクと違って行ったことがない小春だが、後者を探し当てた時と同じ要領で匂いを辿れば大丈夫だろうと思っていた。デスクルームは朝の騒ぎがあったし、立ち入り禁止だと知ったのでもう入らないと心に決めている。それもこれもすべては城崎のためだった。
忙しなく歩いていく研究員たち。彼らは帰り際だというのに、大半が携帯端末に目を落としていたり、電話をしながら足を動かしている。隣の同僚と喋る人間は案外いない。
その光景を不思議そうに見て、首をかしげた。
──大人って変なの。直に会わない相手の方が大事だったりするのかなぁ?
小説で読んだことがあるし、城崎がよく使っていたので、ドリームボックスの外の世界を詳しく知らない彼女でも携帯端末の存在や機能は知っていた。
なにより、端末で遠くにいる人間と喋っている大人たちは身近にいる人間と会話をしている時よりもすごく気が張っていて、真剣な面持ちだったと小春は見抜いていた。
──携帯端末で話す人の方が、大事ってことなの?
小春の胸には、行き場をなくした湯気のようなモヤモヤとした掴みどころのない痛みが漂う。
彼女は思い出していた。いつも自分と城崎の時間を邪魔してくるのは携帯端末であったと。城崎は電話がかかってくると、自分のことから目を逸らして、端末とそれを介する大人たちの方に意識を惜しげもなく傾けていたこと──。
──しろさきは私に毎日会ってたけど、それって私のことが大事じゃなかったから……?
そう思った直後、小春の身体から、数々の感覚が溢れ出てきた。何か熱い液体が自分の肌を這うように流れていく妙な感触と白衣のさらつき、それから強い抱きしめられる拘束。
忘れもしない、あの日のこと。ドリームボックス脱走後の山中の小さな公園での出来事である。
警備部隊から放たれた二発のライフルの銃弾を喰らって血が止まらなくなった自分のことを、お互いを知りもしない城崎が体を張って助けてくれたのだ──。小春は思いがけない記憶のリバイバルにどきまぎした。痛かった最初の抱擁。血まみれの命懸けのハグ。
──しろさき……。
冷たくなってきた秋風が、小春の頬を伝う涙を振り払った。
回想にふける間、多くの研究員たちは既にドリームボックスを後にしていた。施設内は一気に人の気配が減っていた。小春は手の甲で目を乱暴にこすって涙の跡を拭うと、愛しい飼い主のロッカーを探すため、ベンチから腰を上げた。
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