37話
小春は南棟内の自室に戻るなり、すぐに机のそばに座った。
机上に置かれたノートを開き、万年筆を手に取る。そうして彼女は、どうすれば城崎が自分の元に帰ってきてくれるのか、という非常に見当違いな考えを自分なりに広げることにした。
良い子になる──これで城崎が195を捨てて自分を選んでくれるだろうか。一抹の不安が拭えなかったが、小春はとりあえず万年筆を走らせる。
まずは過去の体験から、何をすると城崎が自分を叱ったのかを挙げてみることにする。それを守っていることを彼にアピールすれば、良い子という再評価がもらえると考えたのだ。
城崎に叱られた記憶──。小春の頭には四月の脱走が真っ先に思い浮かんだが、よくよく考えてみると、脱走の件で城崎から怒りを露わにされて怒られた記憶がなかった。褒められたことの方が多い。
脱走をしないことは施設の中にいるだけなのでアピールのしようがないのでこれは論外だ。
次に怒られたのはいつだろうか。探ってみると意外とないことに気づく。声を荒らげることはあっても、自分に向けて言ったのは──。小春は記憶を辿る。
『馬鹿っ。もし化膿したらどうするんだ。健康上、問題のない個体しか秋の試験は受けられないんだぞ!』
城崎の声が再生された。集積場のゴミ漁りの件で怒られたことが一回あったではないか、と小春は合点がついて独り頷いた。
城崎と弁当の約束した小春は、約束の際に交わした指切りげんまんの歌詞を率直に守ろうとして、ドリームボックス内のゴミ集積場に千本の針を拾おうとしたことがあった。その際、数が数だけに、注意していても注射針などを拾う時に怪我をしてしまい、心配した城崎に犬人はすぐ治るから問題ないと伝えたものの、逆に怒られたのだ。
試験に向けて協力して取り組もうと決めた直後の怪我だったので、悪化して試験に参加できなくなることを恐れた城崎がきちんと叱ったのだろう。
でも、と小春は首をひねる。
「怪我をしないことのアピール?うーん?」
さっきの案と同様にやや的はずれな気がした。だが、転じれば原因は自分がゴミ漁りしていたことだと小春は結びつける。
──でもだからなにをすれば?ゴミ漁りをしないことのアピール?
悩む小春はふと窓の外を見る。秋のうろこ雲たちが青空を漂っているが、それがいつもより掠れた、くぐもったようなものに見えた。昨日の屋上で見たのよりも何か薄汚い気がした。
近づいて指を這わすと、指の腹にしっかりとした埃がまとわりついた。窓が汚れているのだ。小春は、城崎が前にこの窓を雑巾で拭き掃除していたことがあったと今更ながら思い出す。
──ひらめいた。
*
その翌日、出勤してロッカーで着替えを済ませた城崎はデスクに向かうため廊下を歩いていたが、近づくにつれて、辺りが落ち着きない騒々しい空気で充満しているのを感じた。異様な雰囲気である。
廊下には白衣姿の研究員たち。彼らは野次馬のように固まり、新人の集まるデスクルームの室内へ好奇と懐疑の視線を一様に送っている。彼らは城崎の姿を見るなり、視線を伏せたが、その場から離れることはしなかった。
ひそひそと重々しい研究員同士の視線と会話の隙間をくぐり抜けながら、城崎はやはり自分は人間嫌いだと悟る。
──なんだ?一体何が?
嫌な予感がした。それでも自席の方を見ると、この騒ぎの原因がひと目で分かった。自分の席の傍に、尻尾を振って立っている一匹の犬人がいたのだ。それは195ではない。その個体は何やら鼻歌まじりに箒で床を掃除しているようだった。
事態が呑み込めず城崎は息が詰まりそうになった。不意に胃が痛くなり始める。
それらをなんとか抑えた彼は、その個体へと駆け寄り、軽く肩で息をしてから淡白に質問を投げる。
「ここで何してる?204」
室内に城崎の声だけが響く。業務的な冷徹な口調。204──そう、小春のことだ。
だが犬人は何も反応しない。彼女のその表情はどこか不服そうだった。城崎は大方呼び方の件だと察しがつくが、何せ周りには人がいる。
元飼い主の研究員はため息を吐いた。彼は昔のような優しい言葉遣いで語りかけることにする。早々に彼女にご退室願うためだ。
「……相変わらず元気そうだな君は」
「うん!えへへ」
その声に、小春は箒を掃くのを止めて、にんまりと歯を見せて笑った。無邪気な笑い声。彼女の満面の笑みに、城崎の耳には聞きたくもない背後からのどよめきが届く。
問題児扱いが多少解消されていたとはいえ、大半の研究員からすれば、未だ
そんな人間嫌いで有名な犬人が、ドリームボックスに転属して間もない新人の研究員にだけはやたら従順で心を開いている光景を目撃したのだから、野次馬の彼らがざわつくのも無理はなかった。
「204の問題行動は治ったのか?」とか、「なぜ城崎だけに懐いてる?」とか、「殺処分の話はどうなるんだ?」との具合に。
「で、何してる?」
「え。掃除だよ?」
「ここの掃除は自分たちでやる決まりだ。君の仕事じゃない。第一……ここは犬人は立ち入り禁止なんだが」
「え。そうだったの?ごめんね!知らなかったよ。でも前にも入ったことあるんだよ?しろさきの万年筆を取りに。もしかして忘れちゃった?」
小春のその爆弾発言に、研究員たちの隠れてするべき噂話の合戦が大きくなっていった。「どういうことだ」との疑問の声がみるみる増えていく背後の彼ら声に、城崎も流石に焦りを覚えた。
──まずい。面倒なことになり……いやもうなってるか。
「しろさき?どうしたの?」
「……204、変な話は止めろ」
「へ?」
とにかく事態を抑えこまなくては──城崎は柔和な態度から打って変わって、彼女への対応を入室時の振る舞いに戻す。
「とにかくここは犬人は立ち入り禁止なんだ。早く出ていってくれ」
「え、でも、あの。えっと……しろさき?」
小春は戸惑う。万年筆の件でたしかに城崎に怒られたが、あれは人の物を勝手に使ったことしか怒られなかった。小春はデスクルームに犬人が立ち入り禁止とは知らなかったのだ。
「いいからさっさと出てけっ!もう僕は君の担当じゃないっ。ほら、早く!」
城崎が指で出入り口を指し示すと、たむろしていた野次馬たちが慌てた様子で身を引いて道を開けた。小春は萎えた尻尾をだらりと垂れさせる。
──え?掃除じゃないの?これじゃダメなの?
「あ、あの。し、しろさ……」
小春は推察を見誤った自己嫌悪に駆られて、おどおどとしながらも、尚も城崎のことを見ていた。
「早く出てけと言ってるだろっ!?」
しかし城崎がすごめて怒鳴ると、小春は涙目になり、何も言わずに部屋から逃げていった。
*
「間違えちゃった……どうしよう?しろさき、すっごく怒ってた」
部屋に退散した小春はまたアイデアを書きなぐる作業に着手した。以降の記憶も怒られていることが多少あったが、今回のように、城崎が自分のことを見限った直接の原因ではないかもしれないと思うと、ノートに挙げるだけで実行する気にはなれなかった。
書いてる最中、黒く染まったノートにふと目をやると、こんなに自分の字は汚かったのか、と小春は乱れた文字の羅列に思わず手を止めた。
『もっと丁寧に書け』
筆記練習中に城崎から投げられた言葉が蘇る。彼からの言いつけは守らなくては、と小春は書くペースを落として再開する。このノートは誰かに見せる訳でもないが、彼女は丁寧に記述することにした。
小春は城崎の言いつけは守りたかったのだ。たったそれだけの理由で、彼女は春以前までは毎日のように引き起こしていた素行不良な行動をぴたりと辞めたのだ。
彼が姿を見せなくなった一ヶ月の間、小春が特に問題行動を起こさなかったのも、ひとえに彼の言いつけがあったからだ。それに彼の評判も落としたくなかった。
その間、朝のデスクルームで城崎のことを待ち伏せしようかと画策したこともあったが、彼にも何か事情があるのかもしれないという理性のストッパーがかかって彼女を止めていた。
けれども、一ヶ月ぶりに屋上で偶然再会した飼い主の横には新しい犬人がいた。
信じて待っていたのに、という絶望が小春を襲ったのだ。
──こんなことになるんなら、我慢なんかせずもっと早くしろさきに会いに行けばよかった。
小春は怒りと嫉妬で心が曇ったが、かぶりを振った。
──ううん。こんな考えダメだよ。まるでしろさきが悪いみたい。私が甘えすぎで、言うこと聞かなくて、しろさきは私のことが嫌いになったんだから……。
自分が情報不足ゆえの勘違いをしているとは小春は知る由もなかった。ただ彼女は愛しい飼い主とのよりを戻すためにこれから何をするべきか、また考えることに没頭した。
小一時間ほど経過し、思いついたものはかたっぱしで書き連ねていくうちに、ついに万年筆のインクが切れた。
城崎不在の一ヶ月間、筆記の練習には本番に向けて鉛筆で行っていたのでインクが必要になることはなかったが、無くなったのならば仕方ない。小春は口を開く。
「しろさき、インク……」
自然と言葉が出る。しかし部屋にはもう彼はいない。小春は情けなく肩を落として俯いた。替えのインクはもらうことはできない。
私はひとりぼっち。今後も独り。死ぬまで独り。誰とも心を通わすことなく、誰からも愛されず、誰にも必要とされずに余生を消耗する──そこまで悲観して小春は泣きそうになった。
「……しろさき」
小春は猛烈に彼のことが欲しくなった。彼に抱きつきたくて、それ以外のことが考えられなくなった。依存できる彼が欲しかったのだ。
「しろさきぃ……」
溜め込んでいた不満と孤独が暴発する。それでも、今からデスクルームに直行して彼に抱きつくのだけは止めようと小春は自重した。
これ以上、飼い主には嫌われたくないという脅迫観念が木霊していたのだ。小春は机上のノートを払い除け、室内を見回った。
まだ彼の匂いがする物はないだろうかと小春は探す。万年筆からは既に彼の存在を嗅ぎ取れない。彼からもらった別の筆記練習用のノートも、『星の王子さま』も、とっくに自分の匂いだった。部屋からは城崎の存在が消えかかっていた。
悶々とする小春だったが、昨日屋上で城崎から着替えとして受け取った清潔な服があることに気づいた。あの時、バケツの水を浴びた服はほぼ乾いていたし、部屋に戻ってくるなりアイデアの捻出を始めたので、今まですっかり忘れていたのだ。
「しろさき……」
早速、顔を埋めるように鼻を擦りつける。丁寧に畳まれた簡素な犬人用の衣服に鼻先を舌のようにゆっくりと這わせる。そこから真新しい布地、微かに柔軟剤と太陽の匂い、なによりも昨日まで手が触れていた
最後の匂いが小春の胸の鼓動を劇的に早めた。犬人の優れた嗅覚なら、極わずかに付着した人間の汗や脂的付着物のみの情報でも個人が判別できる。たとえそれが、服を二十時間以上も前に数分触っていただけの人間の体臭であってもだ。犬の嗅覚には驚くべき性能が秘められている。
小春はすんすんと鼻をはたらかせ、匂いの元たるミクロなモノの全てを吸い取る勢いで大きく呼吸した。鼻で吸っては口で吐く。すると鼻腔と口内の空気が衣服を介した飼い主の匂いで溢れていく。
飼い主の白衣に顔を埋めた時に近い快感が小春の全身を襲う。彼女は自分の尻尾が言うことを聞かずに暴れていると分かった。
何回か深く呼吸を繰り返す。小春は屋上で別れた彼がすぐ近くにいる錯覚に陥りそうになった。
自分のすぐ近くに。自分だけの傍に──あの人が。
たったそれだけの想像で、小春は孤独で凍てつきかけていた表情と振る舞いが途端に温かく緩まったのを感じた。
彼女は目を閉じた。そして自分の飼い主の姿を思い描く。忘れもしない彼の容姿を脳裏のキャンバスに。かつて彼と一緒に見上げた夏の夜空よりも遥かに巨大なそれに、いっぱいに。
飼い主の姿を浮かべていくと、小春は彼のカメラに保存されていた美しい風景たちの存在を思い出した。カメラ内にも膨大な数の写真が収められていたが、今の自分ならば、あそこにたまっているよりも多くのことを思い出せるだろう──と彼女は強く確信した。無論、外の世界の情報のことではない。自分と飼い主が送っていた甘い日常のことである。
小春は、今日に至るまでの彼との多くの出来事の記憶を写真のように切り取った様子を考えてみる。アルバムのように物として手元にないけれど、彼女は幸福を噛み締めていた。
──しろさき。
心の中で呟く。頭の中には優しかった頃の彼が微笑み返してくれる。小春は想像や空想の楽しさを改めて知った。目を閉じて現実から離別し、少々頭を動かすだけで都合のいい夢が見れるのだ。そこには思い出の彼がいる……。
小春はそこで満足しそうになった。現実の彼がこちらを見てくれないのならば、もう一切合切を諦めて、来年の春に死ぬまでここで思い出を再生産するのもいいのではないかと。
どうせ彼に良い子であるとアピールしたとしても、彼は自分のことを疎ましく思うかもしれない。ならば私は何もしなくてもいいんじゃないか、と……。
だが同時にその彼とは違う、別の彼の声がする。
『写真ってのはさ。語弊を恐れず言っちまえば、都合のいい、いいところばかりを切り取ったものなんだよ』
別の彼──そう、本物の城崎の声だ。小春が紡いだ理想像の城崎ではない。記憶の中に存在する本当の彼だ。彼は七夕の短冊の一件で、カメラの写真を見せた際に放った一言を口にした。
小春は今の自分のことを揶揄されていると感じた。思い出の中の断片から、上澄みの良いものだけを全てであるかのように描写し続ける自分のことを言われているような気がしたのだ。
『あんまり写真にばかり心を奪わるのも駄目だってこともよく覚えておいてくれ』
またも城崎の言葉。過去の彼が発したそれは、折れかけていた小春の目を覚まさせるには充分だった。
「……うん。そうだよね」
小春は目を開いた。また孤独で寂しい室内があるだけだった。城崎の姿はない。自分の成長を喜ぶ人間は一人もいない。再び目を閉じて静かに夢想にふければ、何の努力もなしに理想の城崎が手に入るかもしれない。
それでも、小春は本当の彼と一緒にいるために現実で頑張ってみようという気になった。
現実の城崎が今の私を嫌っていようとも、私の面倒を見てくれたのも同じく現実の彼なのだから──。小春は、妄想の彼を捨てて、机上から床に払ったノートを大事そうに拾った。
「しろさき。もうちょっと待っててね。私、しろさきの理想の良い子になるから」
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