36話
「しろさきっ!その犬人誰なの……っ?ねぇってば!」
昼の屋上にて、一ヶ月ぶりに顔を合わせた一人と一匹。給水タンクの方からした物音は、タンクの足場にある古びたバケツに犬人の少女・小春の足が当たったものだった。
小春は必死の形相で、以前まで自分の飼い主だった城崎と、その横にいる195を睨んでいる。
「ね、どうして私のところに帰ってきてくれないのっ?しろさき、私のこと嫌いになっちゃったのっ!?お口チャックしてないでちゃんと答えてよっ!」
給水タンクの影から姿を現した小春は、顔つきもそうだが全体的に疲れ果て、やつれた雰囲気を漂わせていた。
城崎は咄嗟に顔を伏せてしまう。
「……204、僕はもう君の担当じゃないぞ。先月、異動願いを出した。君には黙っていたが」
「そんな呼び方しないでよっ」
小春が声を荒らげた。
「い、異動……?それって──。聞いて……ないよ。私、そんなのしろさきから聞いてないっ!なんで?私が悪い子だから嫌になったのっ?それともそこの犬人に目移りしたのっ?私を──」
小春は手に口を当てた。自分の発しようとした言葉が受け入れられなかった素振り。彼女の透き通った青い瞳からは、大粒の涙がみるみる溢れた。
「私を捨てたの?しろさきが」
──違う!違うんだ……。
やり場のない焦りと、小春に説明できないもどかしさに、城崎は拳を握りしめた。
「そんなわけないよねっ。しろさき!絶対に私を見捨てないって約束したもんね?……ねっ?」
小春は一歩、また一歩と、じりじりと城崎たちがいる方へと足を踏み出した。
「私、この一ヶ月ぐらいね、ずっと寂しかったんだよ?しろさきに褒めてもらえないし、撫でてももらえないし……お弁当も残念だったし、やっぱりしろさきがいてくれないとつまらない毎日だったの」
彼女は抱えている本を胸の前に掲げる。『星の王子さま』だ。
「覚えてるよね?しろさきがくれた本だよ」
にこりと微笑む彼女の顔はあどけないが、すぐに冷めたように表情が強ばっていく。
「私、これが心の支えだったの。しろさきが私の部屋に帰ってこなくなってから……また何度も何度も読み返したよ。でももう我慢できないよ……っ。ねぇ、しろさきってば!」
小春は、城崎がいる方へと蒼白とした顔で駆け出した。彼女の怒りは明らかだった。
彼女に応じるべきか否か、城崎に迷う暇を与えず、横にいた犬人の少女が庇うように前に出る。現在の城崎の担当個体である優良個体・195だ。
「城崎さんは下がってください」
務めて冷静にそう言った195は、迫ってくる小春に対して身構えた。飼い主を脅威から守るための臨戦態勢だろう。
「止め──」
慌てて城崎は彼女の肩を引こうと手を伸ばす。が、瞬きを終えた頃には、小春を迎え撃つ形で、195の強烈な蹴りが相手の腕を掠めていた。
すぐに体勢を持ち直した小春が195のその足を掴むと、振り払うように押しのけた。しかし195も譲らず今度は懐へ飛び込んでいく。
そのまま両者は格闘戦にもつれ込む。
「どけっ!しろさきはお前になんか渡さないっ!」
「黙れ204。城崎さんに危害を加えようとしてるのはお前だろう」
「違うっ。お前がしろさきを奪ったんだ!」
身体能力の高い犬人同士の攻防は、人間の城崎は目で追うことも困難なぐらい凄まじく早い。そして凶暴だ。
あんなに幼げで可愛らしかった小春と、澄まし顔で感情の起伏を見せなかった195が血みどろの死闘を繰り広げている。屋上の床に195を押し倒す形で上をとった小春は、下にいる相手の顔を思いっきり殴りつけようとしたが、避けられ、逆に今度は服を引っ張られるように後ろに投げ飛ばされる。
「止めろっ!二人とも、もう止めろっ!」
城崎は二匹に声を張るが、どちらも止めようとはしない。命令に忠実な195も戦闘を中断する気配はなかった。今やめれば自分の飼い主の脅威をみすみす見逃してしまうと思っているのだろう。
仲裁として直接止めに入ろうにも無理だ。非力な城崎では力不足にもほどがある。暴れる二匹の間に無抵抗に揉まれれば、命の保証はなかった。ここは屋上で壁掛けの内線電話もない。屋上には空気を吸いに来ただけで、すぐに戻ってくるつもりだったので、城崎は携帯端末を今は195の部屋に置いてきている。連絡手段がないのだ。
残された道は、一番近い内線電話のある部屋に今から自分の足で戻り、屋上での異常事態を警備部に伝えることだ。
しかし、それは同時にあの二匹を放置することになる。
どちらの方が強いのだろうか。195が小春を制した場合、おそらく殺すことはないだろう。だが逆の場合──怒りに任せた小春が195のことを殺してしまう可能性は拭いきれない。城崎は後者を恐れた。雑種の柴犬が格闘訓練を受けたシェパードに勝てる訳ないのが、今の小春の怒り様は尋常ではなく、195と同等以上に渡り合っている。
それに、担当を辞めてまで小春の試験参加と処分の撤回を上申したのに、ここで彼女が再び問題児扱いの視線に晒されてしまえば今度こそ絶望的な状況になる。この事態を漏らさないためにも、今は外の人間に助けを乞うことはできない。
「……止めろって言ってんだろ!204も195もっ」
城崎は結局、外に助け舟を呼ぶことはせず、二匹のなるべく近くまで近づいた。それから戦闘を止めるように諭す。しかしその声は届かないようだ。
今は195が小春の上に馬乗りになる形で、彼女の首を絞めようとしていたが、その腕を下にいる相手から力任せに掴まれて拘束されている。お互いに力比べをしているのだ。
「こいつっ……どいてよっ!しろさきは私の!私の飼い主なのっ!お前のじゃないっ」
「城崎さんに何の恨みがあるのか知らないが、彼は現在、私の担当だ。部外者はお前だ204」
「その名前で呼ぶなっ!」
小春が叫んだ。
二匹の衝突は決定的なものとなっているようで、最早普通の説得では止められそうにない。城崎は自分の不甲斐なさを呪った。周囲を見渡す。何か使えるものは──。
「あっ」
その時、城崎はある物が視界に入る。犬が嫌いなものを二匹に与えれば──。この状況に活路を見出した彼は、すぐさま、そちらに走った。
*
「ぶえっくしょいっ!」
秋風は冷たい。小春のくしゃみが屋上に響いた。次いで、195の鼻をすする掠れた音。
二匹は戦闘を一時中断し、離れた場所からお互い牽制するように向かい合って座っていた。びしゃびしゃになった服を城崎から渡されたハンカチで拭きながら。彼が着替えの服を取りに一度屋上を降りても、二匹は視線による冷戦を継続している。両者の間に会話はなかった。
──しろさきが私のことを助けてくれたんだね。
小春はそう思いながら、体育座りする195の顔を見ていた。
あの時、力では少女たちに劣る城崎は、給水タンク付近に野ざらしとなっていたバケツの中身を二匹の至近距離で放って、その場の戦闘を止めるよう警告したのだ。バケツの中身はいつかの雨で溜まったと思われる水だった。
犬人は特別水を嫌うわけではないが、生身の人間よりは水を嫌う傾向にある。それに、誰だって喧嘩してる最中に突然他人から水を浴びせられたら中断する他ない。
城崎のそんな思惑通り、小春と195は全身にあまり綺麗ではない水を浴びると、状況が飲み込めない様子で飼い主の指示に従って喧嘩を止めた。
そして、自分がいない間は絶対に喧嘩を再開しないように固く約束させ、二匹分の着替えを取りに城崎は屋上を後にしていたのだった。
195は乾いた犬耳をぴんと屹立させている。威嚇しているのではないが、リラックスしている様子でもない。小春はそんな彼女を不思議そうに眺めていた。
──私と、同じ顔。
両者はF型がベースなので人間の部分は全く同質だ。座り方も似ていたことから、小春は不意に鏡を見ている気になった。
「ねぇ」
小春が195に声をかけた。呼ばれたシェパードの彼女はぴくりと反応する。
「なんだ204」
「私は小春。204なんかじゃない」
苛ついた調子の小春に、195は首をかしげる。
「われわれ犬人は製造時に製造順のシリアルナンバーを与えられる。それが名前だ。お前は204だ」
195の胸元にはネームプレート。小春は自分の胸元にもあるそれを見下ろしたが、かぶりを振った。
「お前はそうなのかもね。でも、私は小春。しろさきが名付けてくれた。小さな春だって」
「何故、小さな春?」
「春生まれだから。それに……柴犬のシバは、日本の古い言葉で小さいって意味だから」
「そうか。それで204、何の用だ?」
あくまで名前を呼ばない195に舌打ちした小春だが、何も城崎以外の者からこの名前を呼ばれても嬉しくなかった。
脱線した話を戻すことにする。小春は、城崎が戻ってくる前にいくつか195の口から聞いておきたい事があった。
「どうしてしろさきはお前の担当になった?」
「私は詳しく知らさていない」
「……しろさきは、望んでお前の担当になったのか?」
「知らない。しかし、異動をドリームボックス上層部に申請してお前の担当を辞めたのは事実だ」
小春は口を噤む。彼女は、自分は本当に彼に捨てられてしまったのではないだろうかと落ち込む一方、目の前の同じ顔をした犬人を信用もしていなかった。
「なんで異動を?」
「理由は私も知らない」
「……195はしろさきをどう思ってる?」
ぎろりと小春が睨むように聞くが、195は瞬きして見つめ返すだけだった。無表情からクエスチョンマークが浮かんでいる。
「どう、とは?」
「しろさきをどう思ってるか……好意があるとか。優しいとか、好きだとか……」
「教育担当の方、それだが」
「本当に?」
「今秋の試験を合格するのが今の私の任務だ。それ以外に興味はない」
195は嘘をついているようには思えなかった。小春はやや安心する。しかし問題はまだ解決してはいない。
──こいつがしろさきを誘惑したわけではない?しろさきが勝手にこいつのことを好きになってるの?
小春のこの見解はもちろん間違っているが、城崎から事情を伏せられている彼女はそう考えるしかなかった。どう考えても城崎が他の個体に鞍替えする理由が彼女には見当たらないのだ。
「そっか」
小春は独り言のように薄く呟いた。
彼女の頭にはやはりこいつが邪魔だと囁く声がしてくる。立ち上がり、シェパードの方へと歩いた。
──うん、やっぱりこいつが邪魔だ。
小春は訓練後に優しげな笑顔で自分の犬耳と頭を撫で回してくれる飼い主の顔を思い出す。
今は195が同じ要領で城崎から愛でられていると思うと抗い難い吐き気がした。水を浴びて流れ去ったはずの怒りと失意、嫉妬、虚無感、嫌悪感がまざまざと沸騰してくる。
小春は195の排除を決心した。そのただならぬ殺気を感じ取ったのか、当のシェパードはすかさず腰を上げた。
「204、まだやる気か?」
「お前がしろさきのことを好きじゃなくても関係ないの。どのみち、お前がいる限り……しろさきは私のことを見てくれない」
「何の話だ?」
じわりと小春が相手との間の距離を縮めようとしたところで、屋上の出入りの扉が開いた。城崎が戻ってきたのだ。びくりと小春は足を止める。
「し。しろさき!」
声を明るくし、小春は195から彼の方へと身体を向け直した。
「二人とも、替えの服を持ってきたから着替えてくれ。風邪でもひかれたら困るからな。もうじき試験だし……」
試験──小春ははっとした。
そう、秋の試験を共に乗り越えるための諸々の勉強や実践訓練などの準備によって、一ヶ月前までは彼との絆が結ばれていたのだ。お互い大変仲良くやったものだと小春は思う。自分の元を去る一週間ほど前から、城崎の様子はよそよそしくおかしかった。
今思えば、あの頃からハグなどのスキンシップもやけに拒否していたし、訓練が上手く行っても撫でてくれなかった。当時、私は城崎がそばにいることに慣れきって、甘えてばかりいた──小春はそう考え、勝手にひとつの結論にたどり着く。
──しろさきは……私に愛想を尽かしたんだ……!それで、聞き分けのいい他の個体の担当になろうと……?
「しろさきっ」
小春は彼を呼んだ。
「ごめんなさい。私ね、もっとがんばるからね。だから待っててね!」
「え?」
彼女は着替えだけ受け取ると、足早に屋上を後にした。
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