35話

 それから一ヶ月の月日が流れ、十月に差しかかる。すっかり夏の暑さは和らぎ、秋の空気が充満していた。

 城崎は新しい犬人の少女・195の部屋の机で頬杖をついて書類を片付けていた。とはいえ半分ほど意識が上の空で、窓の方を見ていることが多かった。秋のうろこ雲が澄んだ青空によく映えている。

 195は無表情でテキストに取り組んでおり、一人と一匹の間に余計な会話はなかった。


「城崎博士。終わりました」


 テキストを開いたままの状態で渡される。指定していた箇所が終わったらしい。城崎は書類を脇に退けて、195が解いた問題の群れに目を通す。


「問題なしだ」

「ありがとうございます」


 195は座ったまま軽くお辞儀した。彼女の一挙手一投足は訓練された軍人のそれだった。


「次はどのテキストに取り組めばいいですか?」

「ちょっとは休憩したらどうだ?」

「時間を無駄にするわけにはいきません。次の課題の指示をお願いします」


 この一ヶ月で試験の参加申請に必要なプロフィール用紙も提出していたし、それに向けた勉強も完璧にこなし、今は復習を繰り返している段階だった。それでも195は休むこともなく勉強をしている。

 彼女は根っからの真面目な個体だった。わがままな小春を相手にしていた城崎からすれば、195の優秀さは理解できた。だが、やはり可愛げがなかった。


「そうか……なら昨日やった内容を復習していてくれ」

「了解しました」


 195は再度テキストを開くと、城崎からはすぐに視線を外した。


 一時間ほど経過し、昼休憩になる。城崎は何も食べずに気怠くイヌの論文を読んでいた。小春のために弁当を作り、ついでに自分の分も用意していたはずの彼は、今は再び昼食をサボタージュする毎日に戻っていた。

 195は糧食をさっさと食べてテキストの復習に励んでいた。食事を楽しむ気はないようだ。もっとも、糧食は不味いのだが。

 ──小春、どうしてるかな。

 空腹を覚えた城崎はふとそんなことを考えた。もう小春とは一ヶ月も顔を合わせていない。

 小春はすでに担当なしの野良犬だ。それでも試験には参加できるので、彼女の能力ならば担当の人間がいなくても合格はするだろう。そして殺処分の話は撤回され、死別は回避される。

 そうだ。そのためには僕はあいつに関わる必要はない。悲しいが、それで命は助かるんだから。

 けれど本当にそれが小春の望むことなのだろうか?

 城崎は自問した。小春はかつて言っていたではないか──しろさきと一緒にいられないなら、なんの意味もないのだと。

 だが、それならば自分にどうしろというのだろう。城崎は嘆いた。

 あの状況下では、自分が小春の担当から退いて、その代わりに試験に参加できること、その結果次第で処分の話を取り消すことを上層部の人間たちに確約させる他に道はなかった。

 ああも上層部が城崎と小春を強引に引き離そうとした理由は未だに定かではない。両者の親密な関係をよく思われていなかったのは間違いないだろう。ならば尚のこと、小春を思うのなら、彼女に近づく理由はない。

 小春のために、小春を拒絶するのが今の自分の仕事なのだ。

 そう自分に言い聞かせながら、城崎は195の方を見た。一瞬、小春と見間違えて焦った。

 ベースとなっている犬種の遺伝子が異なっているので、犬耳と尻尾の形状こそ違えど、人間の素体部分の遺伝子は同じF型を使用しているために外見は非常に似ていた。


「195。今は休憩中だぞ」

「時間を無駄にはできませんので」


 彼女は鉛筆を走らせる手を止めて、視線を上げた。笑わない犬人の少女は、どこか最初期の小春を彷彿とさせる。


「休むのも仕事のうちだ」

「了解しました」


 論文の束をばさりと机に放置して城崎は微笑むと、195は鉛筆を放し、手元のテキストとノートを閉じた。


「外の空気でも吸いに行こう。195も来るか」

「はい。ご同行致します」



 195を連れた城崎は南棟の屋上に訪れた。ここは人気がなく過ごしやすく眺めもいい。一人と一匹は、快適な秋の気温の下で、紅葉らしく静かに色づき始めた山の景色を鑑賞した。


「もう秋か……。195、最近の調子はどうだ?」

「問題ありません。首尾よく試験対策の勉強は進んでおります」


 フェンス越しに景色を見ていた彼女は、休めの姿勢で答えた。思わず城崎は苦笑する。


「195は本当に真面目だな」

「ありがとうございます」


 敬礼する彼女。城崎は手をさっと振り、敬礼を解くよう促す。


「もっと気楽にやってもいいんだぞ」

「お気遣いに感謝します。ですが、私は軍用犬として育てられてきましたので」

「204とは大違いだね」

「──四月に施設からの脱走を謀った個体、ですか。あの節は申し訳ございませんでした」

「何が?」

「脱走個体捕獲のためとはいえ、人間である城崎博士に銃口を向けてしまったことです」

「君は仕事をしただけだろ」

「はい」


 195はやや間を置いて、やがてフェンスの方へ身体を向き直した。彼女の目には美しい紅葉景色はどのように映っているのだろうか、と城崎は思った。そして、小春が脱走した日に見た195の冷徹な表情と佐中の犬人論文の例の一節が忽然と湧く。


「195。変なことを聞いてもいいか。あの紅葉の景色についてどう思う?」

「どう、と聞かれましても……」


 195は視線をフェンス越しの外の山々に向けたが、やがて城崎を見上げる。


「その質問も試験の対策の一環でしょうか?」

「いいや、単なる僕の疑問だ」

「……申し訳ございません。よく分かりません。紅葉は紅葉です。樹木の生態上の、季節ごとの移ろいの中で生じるひとつの形態です」

「違う。そういうことを聞いてるんじゃない。綺麗だとか、美しいとか、感想の話をしてるんだが……」

「あまり理解できません」


 195のその言葉に、城崎は愕然とした。やはり佐中の書いた犬人論文は正しかったのだろうか。犬人にはなんの主観的意識も感情もないのかもしれない。城崎は195のことが途端に人形のように思えた。肉体はあるのに意識がなく、それでも人の形をしている彼女のことが恐ろしくなった。195の目には、この一ヶ月──いやそれ以前から、ずっと何も映っていなかったのかもしれない。

 城崎は195の頭を撫で回してみた。彼女は抵抗することもなく、なされるがままに棒立ちだった。


「どうだ。急に撫でられて不愉快とは感じないか」

「よく分かりません」

「ならこれは?」


 そう言って、城崎は彼女の全身を強く抱きしめた。少女の香の匂いが鼻にこびりつく。その甘い匂いは小春のものと似ていた。撫でられるのと同様に、195は抵抗しなかった。


「身動きが取れないだけです」


 195が平坦に言った。そんな馬鹿な──。城崎が退いた矢先、近くで何かが落ちた音がした。小さなネジか小銭が落ちたような金属音。目をやると給水タンクがある方向だった。

 そして、物陰から城崎と195を恨めしそうに睨んでいる一匹の犬人に気づく。

 十数メートル先のタンクに隠れるようにして顔を出す犬人は、小春だった。


「……しろさき」

 

 小春の声は、憤りと媚びの混じる形容しがたいものだった。


「誰? その犬人? ……どうして私以外の子と一緒にいるの?」

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