34話
「最悪の結果?」
能登谷は不審そうに城崎を見た。
「204の殺処分の事です。それさえ回避できれば他はどうだっていいんです。現実問題、既に秋の試験の参加申請の書類は提出してます。数日前……」
数日前だとまだ204の担当ですよね、との一言は口に出さずとも伝わっているだろう。
「それか──。なるほど考えたな。担当の異動は受け入れるが、試験は参加させろと。で、その代わりに204が好成績を出せれば殺処分の話は無かったことにしろ……そう言いたいわけだな?」
「ええ。これで痛み分けで構いませんか?」
城崎はいけしゃあしゃあとした言葉遣いで了承を求めた。能登谷は諦観の面で頷く。
「上にはそう言っておく。試験の結果次第では、実験個体204の殺処分には固く反対すると……これでいいか?」
「ありがとうございますっ」
その言葉を聞いて、城崎は何度も頭を下げた。
「……これでも俺たちゃお前のためにやってたんだけどな」
ため息を吐きながら愚痴っぽく語る上司の声は、若い部下の耳には届いていなかった。
城崎は感極まりそうだった。小春の能力ならば、試験に参加さえ出来ればなんとか合格出来る見込みがあったからだ。そして今、参加の目処がどうにか立った。
──これで小春は殺されずに済む。あの子は助かる!
今日まで張られていた緊張の紐が切れて、どっと脱力した城崎は、その場でへたりこんでしまう。
異動するのは仕方ないと城崎は受け入れていた。必死になっていた彼にとって、自分と小春が引き裂かれようとも、彼女と死別さえしなければそれで良かったのだ。もちろん小春からは反対されそうなので、城崎はこのことも彼女には伏せておくが。
小春のためにはそれがいいのだ。城崎はひとり頷きそうになる。異動を断固拒否し、殺処分の話が再度復活するのだけは──避けなければならない。彼女を納得させることが出来ないなら、やはり黙っているしかないのである。今回、担当を異動することと引き換えに、公平に試験に参加できるようになったことを。
「なんだ疲れてんのか」
「は、はい。すみません……。さっきの件、どうかよろしくお願いします。では自分はこれで……」
腰を上げて、城崎は能登谷に会釈した。部屋を出ようと出入口の方を振り向くが、彼に「なぁ」と呼び止められる。
「はい?」
「……自分の選択に後悔はないか?」
「いえ。ありませんが……なんでしょうか?」
ぎょっとするほどおどろおどろしい声で能登谷が言うものだから、呆気に取られた城崎は呻くように答えるのが精一杯だった。
「もういい。行け。だがどうなっても、俺たちを憎まないでくれよ」
*
能登谷のデスクを後にし、城崎は自分のデスクまで戻る道を歩いていた。上司と一般研究員のそれは別室だ。
能登谷の妙な捨て台詞の真意を探ろうと思索する城崎だったが、小春の処分撤回という当初からの目的が果たされそうで、内心舞い上がりそうになっていた。
試験に参加して好成績を収め、優良な個体と認められれば処分されなくなる──この皮算用が現実のものになろうとしているのだから無理もない。これまでは試験に参加できるかも分からなかったし、たとえ参加してそれに合格しても、その後の事は不透明だった。ある意味、一人と一匹は先の見えない戦いを何ヶ月もの間していたことになる。
自席のある部屋の扉を開ける。室内には何人もの人がいるので、城崎は弛んだ表情を引き締めた。
──これっきり小春には会えないのか。
今更その事が頭をよぎった。
そろそろ始業時間。小春はまだ自分のことを待っているのだろうか──城崎は無用な心配をしてしまった。二度と彼女には会わないと決めているのにも関わらず。
既に異動申請書は提出し、今日の勤務時間からは新しい犬人がつく。本来ならば担当同士が情報連絡する引き継ぎがあるが、異動した後の担当がいなくなる小春には全く関係の無い話である。
結局、あれから小春に新しい担当の人間をつける話は
もう小春とは接点がない。
城崎は寂しさを描き消すため、机の上を無意味に整理していると、近くで扉の開いた音がした。
ふとそちらを見ると、白衣をまとった佐中が立っていた。貫禄のある還暦間近の所長である。その隣には犬人もいた。白い髪をした青い瞳で、華奢な体躯のF型の少女。一瞬、小春かと思った城崎は焦った。だが耳を見ると、彼女はシェパードであることが分かる。小春ではない。
「所長」
城崎がそう漏らして椅子から立つと、室内にいた他の職員たちも慌ただしくそれに続く。瞬間的に、部屋には緊張した空気が漂う。所長自らが新人ばかりの集まるこのデスクに来ることは極めて異例だったからだ。
だが当の佐中は、城崎の方に身体を向けるなり、何も言わずにつかつかと歩いてきた。佐中は小柄だったが、歩く姿も様になっている。どんな人生を歩いてきたらこのような風格を手に入れられるものなのか、と新人たちの視線が彼を追う。
そして城崎の肩にぽんと手を置くと、ぼそりと独り言のように呟く。
「能登谷から話は聞いた。担当を異動してくれるんだとな」
「……はい。そのつもりです。ですが、その代わりに204の──」
「分かってる。では私についてきてくれ。少し話がある」
*
佐中に連れ出され、城崎は中央棟にある図書室に来ていた。無人だった。所長権限で今しがた人を退けさせたのだろうか。
長机を挟んで佐中と対面する形で座ると、一週間以上前に彼と所長室で話した際の光景が蘇った。その時と同じく、佐中は柔和な雰囲気だった。あの時のダージリンの味と、写真立ての中の黒い犬の顔がよぎる。
出入口前で背筋を伸ばして休めの姿勢をとっている犬人の少女に向かって、佐中は手招きする。
「195、こっちに来なさい」
「はっ」
少女は軍隊式の敬礼をして威勢の良い返事をした。彼女は駆け足で素早く長机の脇まで移動してきて止まった。
少女を見た後、城崎は佐中の方へ目を戻す。
「所長?彼女は一体?」
「この195が君の新しい担当になる犬人だ。軍用犬として、去年の秋試験を満点で合格した個体……君も見覚えはあるだろう?」
「あ──はい、あります」
195のことを城崎は覚えていた。あの個体だ。小春が四月に施設から脱走を企てた際、彼女のことを追跡してきた犬人部隊の隊長だったのだ。
それにしても秋の試験を満点とは──城崎は195の姿をじっと見つめる。今は小春と似たような犬人用の薄手のパーカーを着用しているが、当時はアクション映画さながらの機動隊の装備だった。胸元の名札には『195-F 試験合格済み優良個体』との記載がある。
「城崎くんが前に担当していたのと同じ、F型だ。見た目も似てるからすぐ慣れると思う。仲良くやってくれ」
「それはいいんですが……195に何を教えてやればいいんです?試験には合格済みなんですよね?それに軍用犬ってことは、体術とかも僕が教える必要はなさそうですが」
城崎が不安げに質問すると、佐中は薄く笑って「もっと他のことだ」と言った。
「他とは?」
「195には常識がない」
「え?でも満点って──」
「軍用犬としてな。つまり戦闘能力のみのテストだよ。シェパードとして製造されたから、そのテストのみしか彼女は受けていない。従って、前の担当官も他のことは一切勉強させていないのだよ」
小春に一般教養の小テストを受けさせていたことを思い出す。彼女は雑種だから、どの犬種のテストを受けるのか分からなかったが、製造時からコースを決められた個体もいるらしい。否、おそらくそちらの方が多いのだろう。
担当の人間は各テストに特化した教育を施すあまり、常識や他の能力が欠けた犬人を量産してしまう現状にあるようだ。
「それで……試験は合格なんですか?」
「ああ。軍用犬は命令に忠実なのと、戦闘能力さえあればいいから……と考えられていたからな。でも今年度の試験からそれが改められた。だから195を含め、去年までの合格個体には再試験を受けてもらうことになったのだ」
「となると僕を急に異動させたのってこの件が絡んでますか?」
「……概ねそういうところかな」
城崎は納得した。突然の異動の根回しはこの件だったのか。
元々不良品だった小春が試験に落ちようが別に構わない上層部は、小春の担当を空席にして、城崎という新人ながらも動物行動学に多少の知識がある人間を195のため確保した──ざっとそのような経緯があったのかもしれない。
だがそうなると、195の元担当の人間でもよさそうだった。所詮、動物行動学なんて犬人にはあまり通用しないのだから。それに、わざわざ204から監視役の担当者まで外すまでする必要はないのではないか。
城崎は懐疑的に佐中に目をやり、その事を訊ねた。それと前任者はどこに行ったのか、とも。
「そのことか。君は……気にしなくていい」
佐中は曖昧に言葉を濁したきりだった。
「とにかくだ。試験まであと二ヶ月もない。195はまだプロフィール用紙も作成していない状況でね。引き受けてくれるかね?」
彼から差し出された手に城崎は思うところがあったが、小春の担当ではなくなった現在、仕事は特に抱え込んでいなかったので握手に応じた。
「ありがとう。これからも君の仕事に期待してるよ」
「はい──。じゃあよろしくな、195」
「はっ」
195は氷のような表情を動かすこともなく、城崎に敬礼した。
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