33話

 昼休憩の半分が過ぎた頃、城崎はひとり、施設の廊下を歩いていた。

 事態は悪化の一途を辿っていた。城崎は、能登谷から渡されたその書類にサインすることはなく、少し考えさせてほしいと申し出た。

 上司の方は不愉快そうに眉をひそめたが、「今日中には出せ」と念を押すように疲れた声で呟いただけだった。


 辛うじてその場を凌いだのは良いものの、城崎は、いずれにせよ自分と小春が引き裂かれる宿命にあるという事実を受け入れざるを得なかった。

 白衣のポケットをまさぐり、折り畳んだそのプリントを手にする。この紙切れ一枚で愛犬との関係が破壊されると思うと、城崎は自嘲めいた苦笑を漏らす他なかった。


 ──これは隠そう。そしてすべて小春には黙っていよう。


 城崎は朦朧とした思考でそう結論づけた。

 そして、小春の部屋に戻る前に南棟のロッカーに寄り道する。異動後ついての計画書のそのプリントを自分のロッカーに隠して収納しておくことにしたのだ。

 なぜデスクではないのかというと、過去に小春が万年筆を無断借用していたことがあり、デスクでの保管は彼女の目に触れる可能性を拭えなかったのだ。ドリームボックスの一般職員のデスクの棚には鍵はついておらず、貴重品や着替えの一切合切はロッカーにしまう決まりになっている。仕事中、機密情報の多い資料を扱う訳だから、職場に鍵のついたプライベートな隠し場所を設けるのは施設の運営上不都合なのだろう。しかしロッカーには古いタイプではあるが、ちゃんとしたキーがある。

 城崎はロッカー内の小物入れにプリントを入れて、扉を閉めると鍵をかけた。



 城崎が小春の部屋に戻ったのはそれから十分ほど経過してからのことで、まだ昼休みは終わっていなかった。


「今、戻──……おい!危ないだろっ」


 ノックもせず部屋の扉を開けて入り、戻ってきた旨を伝えようとした瞬間、彼は真正面から犬人の少女の体当たりを喰らった。


「おかえり。しろさきっ!早かったね。嬉しいよ!」


 威力こそ加減されて皆無だったが、自動車並みのスピードのハグをされた城崎は驚いた。

 見下ろすと、ご機嫌そうな小春が飼い主のことを上目遣いで見ていた。昼休憩中に城崎が帰ってくるとは思っていなかったので、予想外の早期の帰宅によほど幸せなのだろう。

 不出来な自分なんかのことを、こんな風に温かく出迎えてくれる犬人が半年後には殺されるのか──と城崎は鬱々となった。


「小春。離れなさい」


 冷たく言った。小春はしゅんと落ち込んで目を暗くし、身を引いた。けれど彼女はすぐに明るい表情をとって尻尾をばたつかせる。


「ね、しろさき!せっかく早めに戻ってこれたんだから、一緒にお昼ご飯食べよ?」

「なんだ、まだ食ってなかったのか?」


 先に食べておけと言ったはずだが、と城崎が疑問の視線を小春に振ると、彼女は舌を出して笑った。


「待ってたの!ひとりっきりのご飯なんて、つまんないもん」

「一人っきりが、つまらない……か」


 城崎は小春のその言葉が重くのしかかった。


「うんっ。しろさきといれば、そうじゃないもんね。えへへ」

「……そうか」


 ──これから、また君は孤独になるんだぞ。


 虚ろな目で彼女を見る。そんな恐ろしい未来が待ち構えているとは夢にも思わず、少女は終始幸せそうに微笑んでいた。

 正直な彼女は演技が出来ない。今の笑顔からするに、今回の能登谷とのやり取りは盗み聞きしていた訳ではなさそうだった。

 むしろ、そうしてくれていたらどんなにありがたい事か、と城崎は悶々と項垂れそうになる。


 人は真実を打ち明けることも、そうしないままでいるのも最も辛いものだ。

 先に白状しておくべきだろうか──。ここに帰ってくる前は、異動の件は全て伏せておこうと思っていたが、どちらの方が彼女を傷つけずに済むのだろう?


 城崎は淡々と考えた。


 犬とは違って、ショックのあまり冷静な思考になるのは人間にとってよくあることだ。彼は極めて不安定な精神状態ながらも、怜悧れいりな判断をしようとしていた。

 最期までの時間を小春とどう過ごすのか、という「難問」に。

 これでお別れなのだから、後悔のないように──と犬人の少女と最期の瞬間まで楽しく仲良く過ごすのがおそらく最適だが、城崎はそうする気にはなれなかった。小春がではなく、自分の方が彼女が死ぬことを最期まで受け入れられないと思ったのだ。

 処分決行日の前日まで彼女と楽しい時間を過ごせれば後悔は無いかもしれないが、やはりシロの時と同じように他の大人を恨むことになるし、なにより傷が長引く。事実、城崎はシロに対してこの選択を取ったが、今日にまで至る実に十五年以上もの間、愛犬の喪失を壮絶に苦悩している。小春という名前も存在もこの苦悩故の犬人なのだ。

 だからといって、残忍で非情な大人を今から演じて、小春との関係をここで木っ端微塵にする気にもなれなかった。そうするにはあまりに遅かった。最早、城崎は彼女に対して偽りの態度を取れそうになかったのだ。自分に甘えさせるのを制限している今でさえ辛いというのに。

 ここまで彼女と親密になって、今更そうすることは出来ない。一人と一匹は嘘のつき方と見抜き方さえ、お互いに似てしまっているのだから。今から城崎が冷酷なフリをしたところで、運が悪ければ小春が彼の意図を察してしまうかもしれない。


 城崎は小春に手を引かれるまま、室内の椅子に座っても、そのことに呆然と考えを巡らせていた。不幸に陥りたくない。

 そんな当たり前の生存本能が彼を突き動かす。そこでひとつの答えに流れ着く。そもそも、この「難問」が間違っているのだと。


 ──小春と最期まで過ごさなければいいんだ。僕がいなくても、彼女一人でやっていければいいんじゃないか?


「いただきまーす!」


 小春の声に城崎は、はっとして我に返った。彼はそこでようやく、既に自分が室内の椅子に座ってテーブルを彼女と囲んでいることに気づく。

 弁当箱に手をつけない彼の姿に、小春は首を傾げている。


「あれ、しろさき食べないの?せっかく一緒に食べられるのにー」

「……小春」

「ん?なぁに?」


 きょんとする無垢な少女の顔を見て、城崎は涙が出そうになった。やはり小春には何も言わずに去った方がいいだろう。それが自分も相手も傷つくダメージは少ないのだ、と彼は確信した。


 ──担当の異動願い、出そう。そうだ。それがいい。小春とはもう二度と会わずに早く異動してしまおう。


「……いや、なんでもない。飯にしようか」

「うんっ!えへへへ、しろさきとごはん、うわぁーい!」


 飛び跳ねそうなほど上機嫌に彼女は弁当箱の蓋を開けた。好物のおかずが入っていたので、彼女はまた一段とはしゃいで喜んだ様子だった。城崎はその姿を眺めながら、涙を噛んだ。



「本当に……いいんだな?」


 能登谷のデスクにサイン済みの異動申請書を出したのは、それから翌日の朝だった。城崎は頷いたが、「ですが」と切り返す。


「あくまで自分は実験個体204の専属担当から別の個体に異動したい、との申請をしただけです。昨日能登谷さんから頂いた、204の今後の取り扱いについての計画書には担当者としては絶対に同意できません」


 能登谷は渋ったような顔をした。


 というのも、城崎が上から渡されている書類はふたつあった。ひとつは能登谷から渡された「担当異動後についての計画書」である。もうひとつは以前に樗木経由でもらった「担当の異動申請書」であり、今、城崎が能登谷に提出したのはあくまでも後者のみだった。

 要するに、小春の今後の計画書については、城崎は担当としてまったく同意していないことになる。


「元担当者のお前が口を挟むのか?」


 能登谷はこほんと咳払いしてそう言った。


「いえ、元担当者ではありません。まだ自分は204の担当です。204の担当という立場で、昨日能登谷さんから頂いた計画書には同意していないだけです」

「いいか?この異動願いが俺に出された時点で、お前にはもう204の監督能力はないんだぞ?」

「能登谷さん。それはちょっと違いますね。無理がありますよ」


 城崎は、仏頂面に上司の手元にサインしていない「計画書」を置いた。このデスクに来る前にロッカーから回収していた物だ。同時に能登谷の手元から「異動申請書」を取り上げて、机に強めに叩きつける。


「申請書の作成日は今日です。自分が朝書きましたからね」

「だったらなんだ?」

「これは本来単なる申請書です。たしかに上層部のメンバーの印鑑が押されていますが、自分が樗木さんからこの申請書をもらった時、既に押されていましたよ。これおかしいですよね?明らかに違法じゃないですか」


 樗木から渡された時、その内容の理不尽さに城崎は完全に騙されていたが、申請書とは出す者の主張を上の人間が精査してから然るべきモノを押すものだ。先に上層部全員の印鑑が押された異動申請書なんてパワハラだろう。


「それはこの際いいとして──実際、異動はしますからね。けれど計画書には同意しません。あの計画書は、上の人間が決めた予定を担当の人間に同意させるためのものですよね?」

「そうだが」

「でしたら、ここ見てください」

「なんだ」


 城崎は「計画書」の右上の印鑑が並ぶ、さらにその上の欄外を指さした。そこは資料作成日が記載されている。


「昨日ですよね。しかも担当の僕に渡されたのも同じです。でしたら、さっきの異動申請書が今この瞬間に効力を持っているとして、僕が204の担当から外れたとしても、この計画書を読んで同意するか否か迷う職員……に当たる人間は、僕ひとりだけなんですよ」


 城崎はそこで一旦言葉を区切ると、柄にもなく、意地悪そうにほくそ笑んでから言う。


「つまり僕は担当異動後の計画書には同意せずに、作成経緯に不信感が拭えない怪しい書類で人事異動したことになる。これ、大問題ですよね?」


 城崎の持論の展開を聞いて、能登谷は居心地悪そうに黙った。飄々としていて、昼行灯でどこか掴みどころのない彼だが、焦る時は人並みに焦るものなんだな、と城崎はどこか他人事のように思った。他人の事であるのに違いはないが。

 城崎は追撃する。


「いいんですよ。異動自体はしますから。でもそれだと、元担当の個体である204の処理に何か問題が発生した際、責任を問われるの、僕になるんですよ。だってそうでしょう?担当の人間の同意のサインなく、計画書が効力を持つなんてあってはいけないんですから」

「いや。それはあれだ……。責任は新しい奴が……」

「もしかして、その際の責任は新しい担当の人間がとってくれるんですか?でもおかしいですよね。だって樗木さんから、204には担当がいなくなるって聞きましたけど。となると同意者のいない個体を処分することになるですが、これってドリームボックスの規定違反で──」

「もういい!分かった」


 能登谷が憤りに任せて叫んだ。わざらしい城崎の語りと、まったくの正論に苛ついたのだろう。

 城崎にとって、不正を働こうとした能登谷がそうして怒って良い理由などひとつもなかったが、事が上手く運びそうなので黙ってやることにする。


「分かったよ、認めるよ……。俺も含めて、色々と上のお偉いさんが今回の件について城崎を無視して色々と根回ししていたことは認める。これで満足か?」

「はい」


 にこりと微笑むと、能登谷はげんなりとした。


「それでお前は何が目的だ?ここまで実の上司のことを糾弾するんなら、異動だって取り下げようとは考えなかったのか?」

「まさか。それでは流石に上層部も黙ってはいないと思いまして。一番穏便に事が運ぶであろう選択をしただけです。それでいて、最悪の結果を回避する方法を──」

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