32話

 一週間後、夏の終わりに書き終えたプロフィール用紙を改めて清書し、一人と一匹は試験の組織委員へ提出した。

 案の定、城崎と小春のペアを良く思っていない関係者から怪訝な表情をされた。どうなるのかと思ったが、用紙は受領してくれたようだった。

 どのみち試験はまだ先だ。書類選考の結果発表も、受け付け終了後になるので、一人と一匹は今はまだ自分たちの運命を知る由もない。


 行きと帰りの道中でついでがてら盲導犬の訓練をし、小春の部屋に到着する。

 城崎は専用のアイマスクを外す。その後にリードも。それを待たずに彼の胸にぴったりと頬を当てて擦り付ける小春は、これでもかと言わんばかりに頭を上に差し出した。


「しろさきっ。私の盲導犬、問題なかったよね?」


 だから撫でろと彼女は言ってるのだろう。城崎は頷きながらも、相手にしないことにする。リードをお互いの身体の装着器具から外す作業に没頭するフリをしながら。


「そうだな、問題はなかった」

「じゃあさじゃあさ!」

「なんだよ」

「なでて?」

「馬鹿。これくらいの距離の盲導歩行は朝飯前にしてもらわなきゃ困るぞ。試験までもう二ヶ月切ってるんだ」

「あ、うん……」


 これまでと同じ報酬がもらえなかった事で、小春はかなり気が滅入ったらしい。眉を八の字に潜めている。


「ほら、今日は筆記テストの対策勉強だ。準備しなさい」

「はーい」


 小春はつまらなそうに返事し、棚からいそいそとテキストの山やプリントの束を取り出した。



 まだ僅かに蝉の声が聞こえている。

 一人と一匹は言葉を交わさず、それぞれ実務に没頭していた。城崎は研究者としての論文、報告書の類。小春はテストだ。

 コツコツと小刻みに響いてた鉛筆の音が止まり、小春はニヤけた顔を上げた。得意げな顔だ。


「終わったよ!しろさきっ。どうかな」

「ん」


 一枚のプリントを小春から受け取った城崎は早速採点する。先週に行った一般教養の科目のおさらいをさせ、簡易的な小テストを解かせていたのだ。全二十問のそのテストは、初夏あたりは壊滅的な点数だった。

 今はどうだろうか。採点が終わるとひとつも誤回答がないことに気づく。満点だったのだ。


「ノーミスだよ小春」

「ほんとっ?そ、それじゃあ今度こそ──」


 小春は、お辞儀するみたいに前頭部を提示した。犬耳も機嫌よさげに動いている。またも撫でるよう催促しているのだ。

 だが城崎は、それも無視する。


「これくらい余裕で解けなきゃ駄目だ。一般教養なんて必要最低限の科目だ。次のテストやるぞ」

「そっか……そうだよね。これぐらい、ヨユーでやらなきゃ……うん!私、もっとがんばるねっ」


 心が痛んだ。城崎は鬼教官には向いていなかった。報酬がなくて落ち込みながらも、飼い主から褒められようと精進する犬人の少女のことを思いっきり甘やかして構ってあげたかったが、彼はまだ耐えることにした。ここで褒め殺しては、彼女のためにならないのだ。


「次も一般教養。問題数を増やす。難度もな」


 ぺらりと次の小テストの用紙を小春の手元に滑らせ、城崎は机上のタイムウォッチのタイマーをセットした。


「制限時間も設ける。十五分以内。はい、スタート」

「えっ。さっきよりも多い問題を制限時間ありで……?」

「おいっ。試験中に喋るなよ」

「ご、ごめん──なさい」


 語句を強めて咎めると、小春は今にも泣きそうな表情をして、下唇を噛んだ。それから彼女は何も言わずに視線を落とした。すぐにコツコツと鉛筆の芯が紙と机を叩く音がしてくる。

 城崎はその音に揺すられるように、胸に痛みを覚えた。


 ──ごめんな。これも君のためなんだよ。


 自分の書類仕事に戻る前に小春のことを一瞥する。彼女は、目を服の袖で擦りながらも、懸命な面持ちで問題を片付けようとテスト用紙と睨めっこをしていた。


 ──全問正解だったら、今回は流石に褒めてあげないと……。


 分離不安症を治すとはいっても、甘えた犬に冷徹な対応をひたすら続ければ良いという単純明快なものではない。あくまでも適切な飴と鞭のバランスを取り戻すことが重要なのだ。


 十五分の経過を告げるタイマーのアラーム音が鳴る。城崎はタイムウォッチの上にあるスイッチを切った。

 小春の方に目をやると、未だに鉛筆を走らせていたが、やがて潤んだ目でテスト用紙と城崎のことを順番に見た。どうやら終わっていないか、そうでなくても出来栄えに自信が無いようだ。


「採点するぞ」


 机から用紙を拾って、解答と見合わせながら赤ペンで丸をつけていく。

 城崎は心の中で「全問正解ですように」と祈っていた。いい加減、小春の頭を撫で回して安心させてあげたかったのだ。採点の最中、彼女は黙って俯いていた。例のテストは、三十問の問題のうち二十八個は正解。二十九問目は誤回答、三十問目は未回答だった。


 この出来には城崎自身も残念に思ったが、結果は結果なので、ため息混じりに用紙を彼女に返却する。


「小春。最後の二問……見直ししとけよ」

「うー……うん。ん、ごめん。次はちゃんと全問正解するからね……がんばるね」


 へこんだ様子で犬耳と尻尾が死んだように倒れ、小春は弱々しい声で返事した。

 先に制限時間を設けるテストをするからな、とテスト前に一言があれば、もしかしたら解けたかもしれない。城崎はそんなことを逡巡した。二十九問目はニアミス。三十問目にまでは辿り着かなかった。しかし落ち着いて取り組めば、彼女の今の能力ならば苦労しないはずの内容だった。

 元気付けるぐらいならば、不安症を促進することはないだろう……と自分に言い聞かせた城崎が小春にそっと語りかけようとしたところで、アラーム音ではない電子音が鳴った。


「なんだ……電話か」


 白衣のポケットから響くそれは、携帯端末の着信音だった。随分と間の悪い出来事に、城崎は舌打ちしそうになる。

 小春は力ない手つきで解答集を捲り、間違えた問題の答えをノートに何度も書く。その光景を見守りながら城崎は電話に出る。


「はい」

「城崎。今からこっちに来れるか?」


 電話の相手は上司の能登谷だった。


「え、今からですか?それは……大丈夫ですけど」


 城崎は横目に小春を見る。彼女と目が合った。

 犬人の少女は、とても申し訳なさそうな暗い雰囲気で飼い主を見つめている。


「そうだ。お前に話がある。来い」


 有無を言わさない能登谷の命令口調。昼行灯な彼にしては珍しい。異動の件についてだろうか。城崎は訝しげに「分かりました」と言って電話を切った。


「小春……上司に呼び出された。悪いけど、君はこのまま勉強しててくれ。さっきの間違えの確認も忘れずにな」

「うん──。でもさ、しろさき。もうじきお昼だよ?」


 小春に言われて壁掛け時計の方へ向くと、たしかにもう昼休憩直前の時間だった。

 こんな時間に呼び出すなんて、本当にタイミングの悪いことだ。しかもヘラヘラとしている能登谷があんな口調を使ってまで──。


「今日は先に食べといてくれ」


 城崎は小春にふたつの弁当箱の入ったトートバッグを手渡したものの、彼女の方は首を横に振った。すごく寂しそうな表情をしていた。


「お昼は一緒に食べたいよ……」

「多分長引く。僕の分も食べていいぞ」

「そっか……わかった。しろさき」


 今日のおかずは小春の好物でもある、からあげだった。テストの件では頭を撫でられなかったし、昼休憩も一緒に居られないのならばせめてと思って申し出たが、小春は全く嬉しそうにせず、一ミリも表情を明るくしなかった。

 小春はぼんやりとした様子で受け取ったトートバッグを机に置いた。ジッパーを開こうともしない。

 なんだか少しおかしい。寝起きの彼女よりも気だるげで、集中力というか自我が宙に散漫しているようだ。いつもの果てることのない食欲は何処にいったのか。


 このまま放っておいても大丈夫だろうか──。城崎は不安になった。

 だが緊迫した調子の上司を待たせる訳にもいかないので、「行ってくるから」とだけ小春に言って部屋を出た。



 能登谷のデスクに赴く。窓は締め切ってはいるものの、外から蝉の声が入ってくる。まるで部屋全体が夏の残滓に閉じ込められたかのようだった。

 それなりに格調ある椅子の背もたれに身体を預けている能登谷は、城崎の顔を見るなり、一枚の紙を提示した。


「急に呼び出してすまんな……昼休憩なのに」

「いえ。それでこれは?」

「勝手に読んでくれ。俺はもう目を通してるから」


 ぶっきらぼうな言い方で渡された用紙。その内容を把握して、城崎は背筋が凍った。


「……204の担当異動後について?」


 それはある種の計画書だった。今後の小春の取り扱いについて、割と詳細に予定が練られたスケジュールの一覧表が記載されている。

 それによると担当の異動日は、試験の受け付け終了となる十月下旬。そして来年の三月十五日が「処分」の日らしい。書類の右上の印鑑のスペースには、上層部の面々の赤いそれがしっかりと並んで押されている。

 つまり──これらの件は既に確定となったのだ。


「ま、待ってくださいっ。能登谷さん!これは一体なんですかっ?」

「実験個体204を処分することは元々決定事項だった。ちょいと話がまとまってなかったから、城崎、お前にそれまでの繋ぎを任せたワケだが……もうそれも必要なさそうだ。こうなることは、お前自身分かってた事だろ?」

「なら試験はどうなるんですかっ?受けもさせず、204を不良品だと性急な判断を下して、折角のデータ源を殺してしまうんですか」


 城崎はその言葉を口にしてて嫌になった。この場では研究者として適切な言い回しなのだろうが、あの可愛らしい小春のことをそんな風に言い捨てるのは些か堪えそうになる。


「雑種は育成しても無駄だと上層部が判断しただけのこと……いやなに、お前のせいじゃない。そう気に病むな。喜べよ、もっとマシな個体の担当に配属してやるから」

「断ります」


 毅然とそう返すと、能登谷はぴくりと身体を止めた。彼はやがて重たいため息を吐いた。


「……なんでそこまで204に肩入れするんだよ。頼むから、分かってくれ。俺が上から何か言われるだろ?」


 能登谷は悲痛な表情だった。城崎は前に彼とここでした会話を思い出した。彼は所帯持ちだ。ドリームボックスでそこそこのポストを得ている現状を部下一人の反乱で取り消されたくはないようだった。

 そうだ──。城崎は冷静さを取り戻した。

 何も自分だけが正義なのではないのだと考えを改めた。だがそれは、小春を見殺しにする理由にはならない。


 空咳をして、城崎は平静な態度で能登谷に切り出す。


「いえ。決して感情的な理由から肩入れしてる訳ではありません。204は報告書にも記載している通り、順調に……いえ、かなり素晴らしい調子で能力を高めています。盲導犬や聴導犬、介助犬などの訓練にも大きな支障は見られません。試験でも、トップクラスとまではいかずとも、平均よりも上の成績をおさめる可能性が高いです。せめて処分の件は……試験の結果が出るまで待っていただけないでしょうか?」


 城崎は上司の方に書類を返す。


「……言いたいことは分かる。だがなぁ……上には逆らえんよ」


 能登谷は疲弊しきった声で呟いて、デスクの棚から何かを取り出し、机上にカツンと音を立てて置いた。

 それは彼の印鑑だった。朱肉のケースを開き、彼は赤い四角のその絨毯に印鑑の面を押し付けた。


「なんで最先端のこの施設が紙媒体の書類なんだろうね。はっきり言って困るよなぁ、これ」


 能登谷は億劫そうに言った。城崎は冷や汗が出た。

 次の瞬間、彼の『能登谷』の赤い字が染みとなって書類の右上に刻印された。


「……一応、城崎の意見は聞いとかんといかんかなぁと思って押すのは待ってたんだ。でも悪いな。俺も仕事だから」


 再び能登谷から書類を返される。サインしろ、と彼の切羽詰まった声が聞こえた気がした。

 おそらくは今回が最後通告だろう。これに反抗しようものなら、左遷かクビか──。城崎は拳を握りしめた。顔が歪み、歯を食いしばりそうになる。能登谷が悪い訳ではない。彼はただ、自分の仕事をしたまでだ。城崎にはそれが分かっていた。


 ならば自分の仕事とは?

 小春が居なくなってからの自分の仕事とは──?


 城崎は考えたが、その答えはさっぱり出なかった。否、出したくなかったのだ。

 例え小春が殺処分されても、ドリームボックスに留まるのなら、城崎の仕事はやはり教育担当だろう。小春が死んでも次の犬人が来る。


 次の犬がいるから愛犬の死を悲しむな、と薄情者から言われているみたいで、それは城崎にとっては不快だった。同時に、これまで小春のことをシロ扱いしていた自分に激しい嫌悪感が湧いた。

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