31話

 一夜明けて、ドリームボックスに出勤した城崎は、いつも通り小春の部屋に向かった。

 扉をノックする。


「お、おかえり。しろさき……」


 どこか挙動不審気味な犬人の少女が姿を現した。普段ならば、ノックから比喩抜きで一秒足らずに扉が開かれるはずである。今の少女は何か後ろめたい事があるに違いない。

 その態度が決定打となり、城崎は彼女の頬を軽く抓った。


「小春」

「ふぇ?」

「昨日、僕が帰った後……何してた?」


 城崎が抓ったまま優しく問いかける。小春は目を逸らしこそしなかったが、一瞬だけ伏せそうになった。


「なにって──『星の王子さま』読んでたよ?」

「聞き方が悪かったな。僕がいなくなってから、外に出たか?」

「……外には早く出たいよ。試験に合格して、良い子だって認められてドリームボックスの外に──」

「話をはぐらかさないでくれ。自分の部屋から出たのかどうか聞いてるんだよ」


 城崎から苛立ったトーンで呟かれ、小春は怯えたような表情を浮かべた。犬耳は水源が枯れてしまい、萎びたアサガオの茎みたいだ。大きな尻尾も力なく垂れ下がっている。


「出た。出たよ。お部屋から出た」

「何をしに?」

「その……」

「嘘は許さんぞ」

「……しろさきが、所長さんとお話するのを盗み聞きしてた。してました。ごめんなさい!」


 小春は飼い主の冷静な恫喝に屈服し、頭を下げた。

 一方の城崎はというと、今回はやり過ぎたかと言わんばかりにため息を漏らした。彼は少女の頭をそっと撫でる。


「すまん。ちょっとキツく問い詰めすぎた」


 柔和な彼の声に、小春はぱっと笑顔を取り戻したが、泣き始める直前だったのか目元は僅かに赤みを帯びていた。


「ううん。私の方こそごめんね!そのね、気になっちゃってしかたなくって。しろさきが、私の話を他の大人とするって聞いて、どんな話をするんだろうって思って……」

「……どこから聞いてた?」

「ダージリンのくだり」

「全部聞いてたのか」


 城崎は苦笑もせず淡々と返すと、小春はこくり頷いた。


 ──なんてことだ。


「そうか。じゃあもう隠せないか」

「うん……ねぇ。しろさき。私、やっぱりダメな子なの?捨てられちゃうの?またひとりぼっちになっちゃうの、わ、私……?」


 途端に泣きじゃくる小春を城崎は抱きしめて、その小さな背中を壊れ物を扱うよりも丁寧に摩った。


「そんなことさせるもんか。所長との会話を聞いてただろう?僕は担当から外れる気はさらさらない」

「うん、うんっ。そうだよね……それはわかってるよ。私しろさきのこと、どんなことあっても信じてるもん──でも、本当に私から離れないでいられるの?」


 城崎は黙った。何も言えなかった。小春の言う通りだったのだ。味方もいない新人の研究員が、ベテランや大多数の支持する考えや施設の運営方針や研究の指揮から外れて生き残れる訳がないのだ。良くて左遷。下手をすればクビだ。そのどちらとも、小春との別れは避けられない。

 城崎が無言でいると、小春は彼の胸から顔を上げた。


「私、しろさきに迷惑かけたくない。しろさきのこと好きだもん。でも……」


 上目遣いの二つの瞳は涙で潤んでいる。


「しろさきと一緒にいたいよっ」

「……僕もだ。僕も、小春といたい」


 一人と一匹は暫し見つめ合うと、今度は強く抱きしめ合った。



 玄関先でいつまでもナイーブになってる訳にもいかないので、部屋に上がった一人と一匹は、今後のことについて話をすることにした。テーブル越しに対面する形だ。だが昨日の佐中とのそれよりも、全然愉しげな雰囲気だった。

 小春は城崎が座る方に手を伸ばしており、彼の手をまさぐるように指を絡めていた。鼻歌混じりの彼女からは、さっきまで泣いて悲観していたことはまるで察せらない。


「しろさきの手、おっきいね」

「そうかな」

「うん」

「君の手は小さいな」

「可愛い?」

「そうなるね」

「えへ。ありがと。ちなみに握力はね、百キロぐらいあるよ」

「……関係ないよ。可愛い」


 犬人の身体能力がどうであれ、目の前の小春は、紛れもなく自分のことを必要としてくれる、いたいけな少女なのだ。今も彼女は飼い主の「可愛い」の言葉を聞いて、尻尾を車のワイパーよりも素早く左右に揺らしている。


「ね。しろさき。もし本当に異動になっちゃったら、どうするの?」

「さぁね。それはこっちが聞きたい」

「聞くって?」

「小春にだよ。君と離れるのは僕も嫌だぞ?でもな、最悪の場合、他に担当が入ってくれるならそれでいいんだ」

「本当は私を捨てたいの?」


 小春はぐっと手に力を込める。口角は上がっていたが、目は笑っていなかった。

 骨を締めあげられる激痛がして、思わず城崎はもう片方の手を机についた。


「待て待て。待てよ小春、話は途中だし、何もそんなこと言ってない。そうじゃなくてな。最悪の場合だよ。一番避けたいのは、君が担当なしになって、一人になることだ」

「そんなのどうでもいいよ!私ね、しろさきが傍にいてくれないなら、他の誰だっていらないもんっ。なんでそれを分かってくれないのっ!?ねぇっ」

「こ、小春、分かったから離せ……」

「あっ!ご、ごめんねっ。つい」


 覆っていた手が離されて、城崎は自身の手を引いた。

 小春がその気になれば人を一人殺すことなんて簡単だ。だからこそ、彼女が暴走するのが恐ろしかった。


「小春……仮にだぞ?今からするのはあくまで仮の話だ。もし僕が異動して、他の研究員が君の担当になったとしても、その人とは仲良くやれるか?どうだ?」

「嫌だよそんなの!私、しろさきがいいもんっ!」


 どことなく彼女の言葉遣いが普段に増して子供っぽい。城崎は頭の中で「分離不安症」の単語が浮かんだ。同時に深く反省した。


「そうなのか……」


 ──しまった。この子のこと、甘やかし過ぎてしまったのかもな。


 分離不安症とは、幼少期で躾の行き届いていない犬を飼い主の人間が過剰に甘やかすと、その犬の自立性が損なわれてしまい、飼い主から離れられなくなってしまうという……犬にとってはありがちだが非常に厄介な精神障害のひとつである。

 知識のない飼い主は「自分に頼ってくれるから可愛い」とばかり思い込んで、この不安症を放置しがちだ。可愛いから更にべったりと肌身離さず愛犬を甘やかしてしまい、共依存という名の負の連鎖が加速する。気づいた時には、飼い主が部屋からいなくなっただけで犬がぎゃんぎゃんと吠えたり、凶暴になってしまって手がつけられなくなってしまうのだ。


 動物行動学を専攻していた城崎は、まさか自分がそんな轍を踏むとは夢にも思っていなかった。

 最近は小春のスキンシップを意図的に避け、こちらに甘えないようにと彼は気配りしていたからだ。しかし当の小春は、城崎が想定していたよりも凄まじい依存心が過去に培われており、ここ数ヶ月で勢いよく爆発していた。


「僕じゃなくなっても、可愛がってくれる担当だったら……それでいいだろ?代わりさえいれば」

「嫌だよっ?しろさきに代わりはいないよ!どんなに似てても、しろさきは私にとっては一人しかいないもん……」


 意地の悪い質問をした城崎だったが、小春の純真な意見にちくりと胸を突かれた。


 ──少し前まで君のことをシロの代わりとしてしか可愛がっていなかった僕のことが?


 城崎という歪な愛犬家にとって、小春は代替品に他ならなかった。しかし今となってはそのスタンスが薄れつつあった。彼は小春個人も愛おしかった。

 小春は身を乗り出し、城崎の手を再度引き寄せると、その掌に自身の頬をあてがった。


「しろさき、私のこと見守ってくれるよね?ねぇっ?絶対に私のこと捨てないよね?ね……?」

「落ち着けって。大丈夫。当たり前だろ」

「ほんと!?えへへ、やったやった!そうだよねっ。うん、しろさきは私のこと捨てるわけないよねっ!」

「だから落ち着けって」

「──ごめん」


 少々取り乱していた小春だったが、城崎の平坦な声に我に返ったように、席に座り直した。彼女はしょんぼりと肩を落としている。彼女も気が気ではないのだ。


「なんとか……異動の件を破棄するように上にはかけ合ってみる。そっちは僕に任せろ。だから安心して、小春は今まで通りに試験に向けた対策をしてほしい。分かった?」


 素直に二回ほど頷いた小春は、すくりと席から立ち上がった。


「どうした」

「担当はしろさきがいいって所長さんに言ってくる」


 そのまま玄関まで歩き出そうとする彼女を慌てて城崎は止めた。


「さっき頷いたばかりだろ……?小春は試験の対策をしてくれるだけでいいから」

「で、でも──」

「なんだ小春。それとも僕のことが信用できないのか?」


 じろりと彼女に目をやると、ついに彼女は仕方なさそうに席に戻った。


「違うよ。私、しろさきの犬だもん」


 泣きそうな心もとない声で呟く小春は、腕でぐしぐしと目を擦った。

 この状況下で自身の殺処分の話と、飼い主から離れ離れになるというふたつのただならぬ恐怖が彼女の心を圧迫しているのだろう。


 小春は人間換算で十六から十七歳ぐらいの少女。この世界に曲がりなりにも生を受けたのはほんの一年と数ヶ月だ。年端もいかない少女に突きつけられた現実は辛いものだった。

 城崎はそんな小春のことをめいっぱい甘やかして、緊張を解してあげたいと心底思ったが、不安症を悪化させるわけにもいかないので、彼女自身には何も出来なかった。


 もう秋だ。抱きしめることも、撫でることも、適切な場面を除いては極力控えるべきだろう。

 城崎は、明日からの彼女の訓練を一層強化することにした。

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