30話

 ケトルの湯をカップに注ぐ。柔らかな茶の香りが部屋を漂う。

 紅茶で満たされた二つのティーカップをテーブルに置き、佐中は音もなくソファに腰を下ろした。城崎とは向かい合う形になる。彼らは紅茶を飲んだ。


「それで……自分が担当する実験個体についてのお話なのですが」


 佐中は頷くように俯く。


「分かっているよ。君がしたいのは、異動の話。それも大方──私やドリームボックスへの抗議だろう?」

「はい。自分は204の担当を続けたいのですが、上司の能登谷さんや同僚の樗木さんからは何故か反対の姿勢をとられています」


 事前にクリアファイルに収めた異動申請の書類をテーブルの上に提示するよう出すと、佐中は訝しげな目でそれを見下ろした。


「能登谷と樗木は何と言ってたかね?」

「首を突っ込むなとか、あなたのためなのとか、そんな抽象的な具合です。こちらへの説明は特にありませんでした」


 城崎は少し身を乗り出して続ける。


「ドリームボックス上層部も、もちろん所長ご自身もこの申請書には認可の印を押されています。自分が疑問に思うのは、何故こんな急にこの話が上がったのか、ということです。所長。ご説明のほどお願いしたいのですが」

「……城崎くん。君の気持ちはよく分かる。だがな、ここですべてを打ち明ければ、それこそ君は──我々を酷く恨むことになる。そして恨むというのは、辛いことだ。他人から恨まれるよりも、怨嗟を込めて恨む人間の方が疲れ果てるものだ」


 佐中は重々しい口調で諭すように言うと、白衣の胸ポケットからペンを取って、机上のクリアファイルの横に縦向きで置いた。城崎が取りやすいように配慮だろう。それは城崎にとっては死刑宣告にも近いものであった。


「だから署名してくれ。我々を恨む前に。悪いことは言わない。君のためだ。実験個体204のことは忘れて、新しい個体のことに集中してほしい」

「ふざけないでくださいっ。然るべき事情も聞かされず、自分が望まない方向に話が舵を切られて、それでも恨むなと言うのですか!?」


 声を荒らげてしまう。城崎は必死だった。

 しかし佐中は務めて怜悧に返す。


「……どのみち我々が君から恨まれることに変わりはないか」

「そういう妙な言い方は止めてください!はっきり申し上げると不愉快なんですよ。能登谷さんも樗木さんもそうですが、僕を204の担当から外すのに足る理由があるのでしたら、きちんと当事者である僕に伝えるべきです」

「そうだな。私も、もし自分の犬を今の城崎くんと同じように他人から取り上げられようとされたら、君と同じく怒るだろう」


 所長という人間がこの事態を申し訳なく思っているのか、それとも何か別の意図があるのか、城崎には理解しようがなかった。

 ドリームボックス側は異動について強硬な姿勢を崩そうとはしないが、愛犬家らしい佐中はこの話について個人的にどう考えているだろう。


 それと同時に城崎は、再び考え悩んだ。

 転属直後、誰も担当がつけられない問題児の教育係にさせられたと思っていたら、このタイミングで何故か打って変わって、今度は逆に問題児から担当の自分のことを外そうと躍起になっている。


 ──これは一体どういうことなのか?僕が知らないところで、どんな事態が進行してしまっているんだ?


 またも沈黙が降り注ぐ。

 城崎は佐中の出方を伺った。乱れた息を整えるためだ。彼は久しぶりに他人に怒りをぶつけた気がして、脈打つ鼓動が早まっているのを実感していた。

 佐中は思いつめた様子でボソリと口を開く。


「城崎くん。それでも、それでもだ。どうか何も聞かずにサインしてほしい。我々を恨むなら……それなら仕方ない。構わない。だが、すべてを今ここで話すのは……勝手な言い分になってしまうが駄目なんだ。どうしても。我々は何も、君を貶めるとかそういう事のためにやっているんじゃない。それだけはどうか分かってほしい」

「お断りします。たとえ僕のためにならなくても、204の担当から外れる気はありません」


 毅然とした態度で城崎が拒否の意を返すと、佐中はソファの背もたれに老体を預けた。


「……どうしてもか?」

「はい。それでも強制的に私を異動させるのでしたら、せめて204には他の人間を担当につけてあげてください。あの子をまた野良犬に戻すなんて事は、黙って見てられません」

「野良犬?」

「あの子、本当は寂しがり屋なだけなんです。粗暴で意思疎通の能力が低いとの報告があって、僕も最初は身構えてましたし、会話もまちまちだったんですが……それは単純に僕のことを彼女が信用していなかったからです。でも今はそうじゃない。つまり飼い主のいない野良犬だったから、彼女は人見知りで問題児とされる言動をとっていたんです」


 これまでの小春との日常が鮮明に目に浮かぶ。信頼を勝ち取るに至った経緯は、殺されそうになっても対等に振る舞い、ライフル銃から庇ったり、本や食事や名前を与えたり、実に様々だった。

 小春はそれらを城崎と経験した上で、彼のことを自分の飼い主だと認めるに至った。何も初めから人間嫌いという訳ではないのだ。もしそうならば、今だって彼に懐いていないはずだ。小春の評価が低かったのは、単に信頼関係を構築していない外部の人間が、人間側に都合よく彼女の能力を見積もろうとしていた傲慢故の話に過ぎない。


「犬には人が必要です。人にも犬が必要なように……ですから、たとえ僕を担当から外したとしても、204には誰かつけてほしいんです──!彼女をまた孤独にするのだけは止めてください。お願いしますっ」


 城崎は立ち上がって頭を下げた。彼自身、意識した行動ではなかったが、小春のことを思えばこそ身体が反射的に動いていた。


「……座りたまえ」


 佐中は腕を組んで何か考え事をしていたが、すぐに城崎を席に座るよう促す。

 座り直すと、城崎は佐中の雰囲気ががらりと変わっていることを実感した。歓迎的な当初のそれは霧散し、博識な学者の出で立ちになっている。いかにも気難しそうな老人といった具合だった。


「ドリームボックスに転属してきた後、ここで論文を読まなかったか?」

「論文ですか」

「そうだ」


 ちょうど、例の論文の一節がよぎる。犬人の研究を記した学術論文。


 前に樗木と会った際、それは他ならぬ所長が執筆した物だと教えられた城崎は、目の前にいる佐中がその事を言ってるのだろうと思った。


「……所長が書かれた物を読みました」

「そうか。多分、君が読んだのは私が犬人理論を構築した最初期に書いたものだと思う。そこにはこんな一節があった……『犬人には自我・意識あるいは感覚質クオリア、心、などと形容される「魂」のようなモノは存在しない』……これについてどう思う?」


 試されているな、と城崎は感じ取った。

 なにせ佐中は生来の研究者だ。その彼がそんな論文をわざわざ執筆したのだ。ここで正直に答えれば、能登谷や樗木から返されたのと似たような反応の二の舞になる。それは火を見るよりも明らかだった。だが試練を目前にして、若い研究者はそれでも自分の意見を言ってやると腹を括っていた。


「間違っていると思います」

「ほう」

「犬には、犬人には、意識があります。人間と同じで明日を想い、詩を紡ぎ、人と繋がる精神を備え持っています」


 佐中は何も言わず、城崎のその言葉をまるで自身の内で反芻するかのようにして黙っていた。

 城崎はそこではっとした。もしかして異動の話が舞い込んできたのは、これが原因なのではないだろうか。

 犬人に関して非科学的な思考を持っている研究者がいるとの噂が拡散し、狭い施設内から徐々に上に伝わることが無いとは断言できない。しかも転属してきた直後の城崎は問題児の担当になり、しばらくは周囲から好奇の視線を浴びていた。城崎は過去の犬のことを思い出し、204に親密に接していた。おまけに小春という人間のような名前までつけて、弁当まで作ってきたり、本まで与えてる始末だ。

 それを誰かに打ち明けたことはなかったが、その事実がもし既に漏れてしまっているとしたら?

 そんな人材をただでさえ問題児な小春に割り当てることが、どのような危険を生み出すか、上層部が分かりかねたから──。


 城崎は青ざめた顔で佐中の目を見る。彼の目は静かな悲哀の色を帯びていた。


「……城崎くん。君は研究者失格だ。もう帰りたまえ」



 少し経ってから城崎は俯きがちに、クリアファイルを片手に所長室から廊下に出た。

 結局、異動の話を根底から撤回させることは叶わなかった。サインすることはなかったにしろ、今回の所長への直談判は、控えめに言って失敗。その一言に尽きた。

 それどころか、この一件でドリームボックスの所長にまで見限られたような気もする。孤立無援となった現状で、真に信頼できるのは、やはり小春だけのようにも思えた。彼女のために、自分は何をなすべきなのか。城崎はそれだけで頭がいっぱいだったが、沈む視界にちらりと鈍い光が差した気がした。


 足元を見ると、窓から差し入る陽の光に溶け込むようにして、それはあった。廊下に落ちている数本の髪の毛。その細い繊維が橙色の斜陽を僅かながらに反射して一瞬だけ光ったのだ。

 所長室とはそこまで距離のないところにそれはあった。摘んで見てみると、体毛らしき繊維であることが分かる。

 それは白い犬の毛だった。

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