第4章 一人と一匹の秋

29話

 “「あなたのためならどんなことでもいたします──おそばを離れることのほかは」”


 ──コンラート・ローレンツ『人イヌにあう』



 八月が終わっても未だに気温は高かった。

 いつも通りの昼時、城崎は小春の部屋で彼女と食事していた。鳴り止まない蝉の声の中、壁掛けのカレンダーに目をやると、九月の文字がそこには映っている。試験までは二ヶ月を切った。


 ──どうしたものか。


 彼は自分のデスクの棚にしまってある数枚の書類の存在が頭をよぎる。前に樗木から渡された異動申請書のことだ。

 依然として小春にはこのことは告げていないし、第一、素直に記入する気もなかった。しかしドリームボックス上層部は彼女のことを始末する気だろう。この申請書は、その障壁になろうとしている城崎への妨害工作とも言える。

 こんな状況で、果たして小春が試験に参加することはできるのだろうか──。


「ししゃも美味しいね」

「……そうか」


 もぐもぐと口を動かして、弁当を平らげている小春は笑みを浮かべていた。城崎は彼女の幸せそうな食事風景を眺めながらも、内心では戦々恐々としていた。


「しろさき。食べないの?」


 小春に言われて、自分の箸が止まっていたことに気づく。考え事をしていると食欲が湧かなかったのだ。


「今日は腹があまり空いてなくてな。食うか?」

「うんっ!食べる食べるっ。えへへ、ホントにいいの?」

「その代わりゆっくり落ち着いて食えよ」


 頷きを返して弁当を差し出すと、小春は幸福な食事を再開する。彼女の尻尾がご機嫌そうに小刻みに揺れている。


 ──この光景がいつまで見れるのか。


 その恐ろしい考えに、城崎は空咳をした。

 彼女とこれからも共に時間を過ごしたいのならば行動するしかない。少なくとも出来ることはすべてやるつもりだった。

 終業時刻を過ぎたぐらいに、異動の件について所長に直接かけあおうと彼は思った。たとえ自分が担当を外されようと、試験に不参加になろうとも、いずれにせよ小春の殺処分さえ回避できればそれでいい、と彼は決心していた。



 昼食後、面接練習や筆記試験対策のテキストを何冊か小春にこなさせていると、あっという間に帰宅時刻になった。

 城崎は所長室へ向かおうと立ち上がり、小春の部屋から出ようとするが、玄関先で彼女に後ろから抱きつかれて拘束された。ここ最近の帰宅時はいつもこうだった。


「小春。また明日な」

「やだ〜!もうちょっとだけ一緒にいてよー。しろさきが帰っちゃうと、私寂しいよ?」


 諭すよう優しく語りかけるが、当の彼女は聞く耳を持たない。


「帰る前に所長に話をしなきゃいけないんだ。分かるか?」

「わかんなーい」

「おい。分かってくれ」

「やだやだやだー!」


 子供っぽく拗ねた様子の彼女は城崎の背中に顔を埋めてしまい、離す気配を感じさせなかった。

 甘えてくれる犬の存在は満更でもなかったし、敢えて強く言うこともしなかったが、日を追う事に飼い主への依存度が上がっているのは良い事ではない。

 城崎は近頃の腑抜けた小春を律しなければならないと思うと同時に、これまで誰のことも信用できず、幼少期に可愛がられたことのない可哀想な彼女を自分だけは心の底から慕ってあげたいとも願っていた。相反する感情が複雑に交錯して彼を苦しめた。


「いっつも僕の背中にそうやって顔を埋めるけどさ、それ楽しいのか?傍から見ててもちっとも、わかんなーい、んだけど」


 城崎は小春を尻目に、彼女の口調を真似て明るく振る舞う。言われた方の少女は上目遣いで笑顔を見せた。


「楽しいよ?ううん、楽しい……というか幸せなの。しろさきの匂いがしっかり私に染み付いた感じがして」

「体臭か」

「うん。しろさきにも、私の匂いをべったり付けられるしね。一石二鳥ってやつかな」

「一応聞いとくけど、僕ってどんな匂い?」

「しろさきはしろさきの匂いがするよ。苺の香りは何って聞かれても、苺だよとしか答えられないのと同じ」

「そういうもんか?」

「うん。似た人も物もない。だから例えられない。しろさきは、しろさきだけなの。たった一人の私の飼い主なんだもん」

「……ありがとな」


 城崎は胸の真ん中がくぼんで、徐々に穴が広がっていく感覚がした。危うく車に轢かれそうになって、生命の危機を実感した際に胸から頭にかけて波状に伝わる感覚とは違った。

 彼が感じたのは、落胆や失意の際に覚える、酷く自虐的な喪失の波だった。やるせなくて、胸や腹の底が冷えていくイメージだ。砂時計の砂が落ちていき、砂の面が崩落する最中に穴がみるみる大きくなるような。


 小春は、城崎のことを唯一無二の飼い主だと認識している。それなのに、自分の方は小春を昔の愛犬・シロの代替品ぐらいにしか思っていない。

 そのギャップが、今更ながら罪悪感となって城崎を襲ったのである。


 人は犬を選べるし、いくらでも変更できる。しかし犬は人を選べないし、一度飼われたら、捨てられもしない限りは、己の一生涯をその人に捧げなくてはならない。

 城崎がそれから何も言えずに立ち尽くしていると、しゅるりと後ろからの拘束が解かれて自由の身になった。小春が腕を下ろしたのだ。


「しろさき。それで所長さんと何の話?」


 彼女にそう言われて、彼はそこでようやく依存の抱擁が解除されたことを理解した。


「君のことだよ」

「んふふ。ごめん、嬉しくて笑っちゃった」

「なにも変な意味じゃないからな」

「ね。それ、私ついて行っていい?」


 城崎は黙った。異動の件なんて聞かれようものなら、彼女が何をするか分かったものではない。


「駄目だ」

「どうして?」

「大事な話だからだ」

「私のことを話すんだよね?じゃあ私の話をすんでしょ。しかも大事な話。私が絡む大事な話なのに、私がいるとまずいの?」


 子供特有の理路整然とした指摘は、大人には辛いものがある。

 城崎は何も言えないまま、黙って頷く。


「私に隠しごと?」

「そんなんじゃない。難しい内容なんだ。小春がいてもつまらないと思う。大人はお金の話ばかりするだろう?そういう話をしてくるんだよ」

「お金……私の飼育費のこと?」

「言い方が良くないな、養育費。まぁ……その辺だよ。予算のことで話があるんだ。君に関わるお金についての書類とかも、担当の僕の仕事だからね」

「……ふーん、そっか。わかった」


 ──やけに従順だな。


 普段ならば、ぎゃあぎゃあとやかましく色々と首を突っ込んでくる小春だが、この時はやけにあっさりと理解を示した。完全に意見が透明化されるまで、城崎に何度も説明を要求する彼女にしては珍しい反応だった。

 この子も適切な人間関係の仕組みを呑み込めたのかな、と城崎は安堵した。彼はしっかりと小春の頭を撫でてから、部屋を後にすることにした。


「じゃ、小春。また明日な」

「うん」



 所長室はドリームボックス中央棟の五階にある。南棟から渡り廊下を渡って、それから階段を上り、北棟に通じる方向の廊下にぽつんとある。

 最新設備の整った施設には不釣り合いなほど、こじんまりとした佇まいの部屋であり、『所長室』の表示がなければ会議室か何かの部屋の入口だと勘違いしてもおかしくはなかった。


 一度デスクに戻って、異動申請書の書類が収まったクリアファイルを手にしてから、城崎は所長室の前に足を運んでいた。

 所長はどうやらタイミングよく在室中らしく、『在室』の掛札がかかっている。所長の佐中は気難しそうな老人だ。城崎は彼と対面して二人っきりで話をしたことはないし、個人的な繋がりもないので、いざこれから話し合いとなると緊張してきた。なにせアポもとっていないのだ。

 城崎は息を呑む。小春のためにも、彼女を失いたくない自分のためにも、ここは退けない。

 異動の話の真意を聞き出し、そうでなくともこの話を取り消しにするか、小春の試験には支障がないよう根回しする。あわよくば、彼女の殺処分の件だって──。

 意を決した彼は、所長室の両開きの扉にノックする。


「どうぞ」


 扉の向こうの室内から、そう低い声がして、城崎はおそるおそる扉を開けた。

 室内には所長である佐中ひとりだけだった。彼は部屋の最奥にある木目の美しい重厚なデスクの前で立っていて、城崎を出迎えた。


「失礼します。突然すみません、佐中所長。自分は南棟の犬人教育班の城崎です。実験個体F型の204の担当の──」

「知ってるよ。かけたまえ」


 気品溢れる風格で、佐中は城崎のことを見つめている。思わず気後れしそうになった。


「はい。あの、所長。実はお話がありまして……」

「……君が何を言いたいのか、それも私は知ってるが、長話になるだろう?紅茶でもいれるよ」

「あ、すみません。では」


 手招きされ、デスク前にある二つのソファのうち、下座の方におずおずと座る。思ったよりも歓迎的な彼の雰囲気に、城崎は腰を下ろすなり背もたれにもたれそうになったが、失礼のないよう姿勢は正した。

 紅茶を用意しに、部屋の隅へと行く佐中の姿を目で追ってから、城崎の興味は入ったこともなかった所長室へと傾いた。足元の絨毯、それとソファとテーブルは応接室の物と配置も似ていた。おそらく内密な話をするための場としても所長室は機能しているのだろう。

 壁際には何を奨励するためなのかも分からない、堅実なデザインの学術賞のトロフィー、額縁に収められた賞状の数々が置かれている。その脇には佐中の物なのか、犬の写真が入った古い写真立てがあった。黒い柴犬だろうか。骨状の玩具を咥えている幼い犬。快活そうな光を宿した黒い瞳でカメラ目線に座っている。今にも動き出しそうな犬の写真だ。


「ダージリンでいいかね?」

「……あっ。はい」


 急にそれだけ聞かれて、城崎はそれが紅茶の茶葉を聞く質問だとも分からず肯定した。ぼんやりと思索するのは例によって、城崎の悪癖である。

 佐中は部屋の隅にある棚を開けると、高級そうなティーカップのセット、次いで紅茶の葉が入ったスチール缶を手際よく取り出した。城崎が部屋中を眺めている間に、既に電気ケトルは湯を沸かそうと働いている。茶葉を二人分のティーカップに入れ、湯が沸くのを待つ佐中は、手持ち無沙汰気味に部屋を歩き、城崎が見ていた黒柴の写真立てを手にした。


「可愛いだろう?」


 佐中はほんの僅かに微笑んだ。


「ええ、はい。もしかして所長が飼われている犬ですか?」

「かつてね。犬の殺戮以前に飼っていた犬だよ」

「そうだったんですか」


 未知の人獣共通感染症を抑えるために行われた飼育犬の大規模殺処分は、今からもう十五年以上前の話だ。写真の犬はもう存命ではないだろう。城崎は余計なことを聞いたかな、と反省する。


「名前は──」


 佐中はそこまで言って、区切ったように途端に閉口した。

 城崎は何も言わずに彼を見ていた。皺の目立つ老人の顔はどこか悲しそうだった。


「……とても良い犬だった」


 二人の間に訪れる、質量のない沈黙。

 気まずくはなかったが、城崎はその沈黙の意味を汲み取れなかった。

 その空間にメスを刺すように、電気ケトルが湯を沸かし、ぱちりとスイッチが反転する音が小さく部屋に響いた。

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