28話

 扉を開けて廊下に出た城崎は、呼び出してきた同僚の顔を見るなり視線を伏せた。

 彼女は待ち構えるかのように凜然とした立ち姿でそこにいる。髪を後ろに束ね、快活そうな微笑を常に浮かべる女性研究員・樗木だ。だがこの時はやつれた顔つきだった。

 心配そうに玄関から見送くる小春に再度手を振り、二人の研究員はどちらから言うまでもなく場所を変えることにした。


 二人の研究員は南棟の裏側に足を運んだ。

 ここは時間帯によらず、ドリームボックス周辺を囲む木々と南棟自体の高い背に隠されて、一日中日陰となっている区画だ。なので普段からほとんど人気がない。

 屋外とあってか、物悲しいひぐらしの鳴き声が一段と大きく聞こえる。夕方ということもあり、そこは快適なほど涼しかった。


「話って?」


 城崎の方から切り出す。彼は早くこの場から離れたかった。


「電話でも話したのと同じよ。204ちゃんのこと」

「担当を変われって話だろ。聞き飽きた。はっきり言っとくけど、どんな条件を突きつけられても僕は異動する気はないぞ」

「能登谷さんには話を通したわ。今なら他の優秀な犬人の担当に移すって」

「くどい。断る」

「……なんでそんなにあの子に固執するの?」


 さっぱりと切り捨てる城崎。そんな彼のことを樗木は鈍い視線で城崎を見た。


「僕の担当だから。逆に言えば、あの子の担当は僕なんだよ。そう易々と他の人間に変えられない」

「変えられるわよ。所詮、犬人なんだから」

「いいや変えられない。未成熟な犬人は、社会的な接触に欠けているから成長しないんだ。僕たちが勝手な都合で近づかなかったり、意図的に人間と隔離したりしてね。けど犬人にだって感情はある。僕たち研究員たちが好んで使う言い方だと情念だな。犬人には、人間と同じ情念がある。知性も欲求もある。だから……簡単に親代わりの担当の人間を変更なんて出来やしない」

「本気で言ってるの……?馬鹿みたい。感情なんて犬人にあるわけないじゃない」


 人あたりの良い樗木から想像できないほどの直球な悪口。

 城崎は怒りや呆れを何周も通り越して、苦笑してしまった。


「好き勝手言えばいいだろ。どうせ君も信じてるんだろ?犬人には自我や心、魂がないっていう学説」

「当然よ。私だってこれでも研究者よ?」


 樗木はそう言い終えてから付け加えた。


「まさかとは思うけど。もしかして、204ちゃんのそれの存在を信じてたり……感じてるの?」


 城崎は迷いもなく頷く。


「そうだけど?だってあの子、最初は僕のことをすごく警戒してたんだ。でも諦めずに色々と話しかけたり、一緒に飯食ってるうちに今じゃすっかり懐いてくれた。報告書には書いてないけど……あの子、僕といる間はずっとニコニコで甘えてるんだ。何度も笑顔を見てる。僕には、あれが単なる演技だとは思えない」

「……嘘よ」

「え?」

「そんなのっ。ぜ、絶対に嘘よ!」


 樗木は黙って首を横に振った。何度も、素早く。なにかこの世のものではないものを見るような目で。彼女の身体はがたがたと小刻みに震えていた。

 城崎は唖然にとられて瞬きする。


「そ、そんな訳ない!城崎くんっ。そんなこと絶対にありえない!犬人なんかに自我や情念が存在するだなんてっ!私は信じないからっ」

「いや、声大きいけど──」

「ねぇどうしたのっ。そうだ、きっと疲れてるだけよね?手のかかるあの問題児の相手に疲れちゃっただけだよね……?」

「樗木さん!」

「……ごめん。私の方が……疲れてたかも」


 城崎の声に我に返った様子の樗木。パニックに陥り、詰問してくる彼女を見るに、ただ事ではないだけ分かる。


「ひとつ聞いていい?」

「なにかしら……」

「犬人に自我とか情念の存在を認めるのって、そこまで駄目なことなのか?」


 ふとした疑問を口にするが、樗木はまたも剣幕を凄める。


「駄目に決まってるよ!そうなれば、私たちのここでの研究も全部無意味に……」

「どいうことだ?」

「……その学説を出したのはね、佐中所長なのよ」


 ──佐中所長が?


『犬人には自我・意識あるいは感覚質クオリア、心、などと形容される「魂」のようなモノは存在しない』


 城崎の頭の中に、じわりとインクが染み入るように例の学説の一節が浮かんだ。

 同時に、数度しか顔を合わせていない佐中の顔も浮かび上がる。彼は還暦近いものの、皺の少ない聡明な顔立ちで、気難しそうな半開きの目は、何者の発言も許さない荘厳な風格がある。


 城崎でも話は聞いたことがあった。

 佐中所長──犬由来の感染症を抑えるため、世界各地で犬の殺戮が実施された直後、彼は日本政府からの助成を受けてウイルス研究のために犬人理論を極秘に練り上げた人物のひとりだ。ドリームボックスの創設者でもある。

 ウイルス研究の必要がなくなっても、労働力としての犬人製造と研究に舵を切り、今日に至るまでドリームボックスの研究員たちを指揮している。犬人の将来を予測したシナリオを提唱したのも、犬人の試験の監督と試験対策用のテキストも彼が監査して作ったものだ。言うならば佐中は犬人のスペシャリスト。その彼の研究論文として例の学説があるのならば、新人である城崎の持論に耳を貸さない樗木や能登谷の気持ちも自然なものだ。


「でも、僕はあの子の……」

「聞かなかったことにしてあげる。だからもう誰にも話さないようにね」

「……分かった」


 納得できなかったが、城崎は反論を鞘に収めた。


「すっかり脱線しちゃったわね。話を戻そっか」

「戻すって、異動のこと?」

「ええ。私は諦めてないよ。204ちゃんは城崎くんのためにならないって改めて確信したし」


 ──樗木さん、君は何が目的なんだ?


 城崎は目の前の彼女に懐疑的になる。

 これまでもそうだったが、いまいち城崎と小春の関係を崩そうとする彼女の動悸が不明だった。


「なぁ、異動したとして……僕の後釜は誰になる?まさか樗木さんじゃないだろうな?優秀な204を僕から取り上げて、業績を横取りしようだなんて思ってない?」

「違う。その逆よ。優秀な城崎くんを、失敗作の204ちゃんから取り上げるだけよ」

「癪に障る言い方だな。誰がなんと言おうが、あの子は失敗作でも不良品でもない」

「なら言い方を変えるわ……欠陥品よ。雑種犬なんだし」


 城崎は舌打ちした。もう彼はこの同僚のことを軽蔑の対象としてしか捉えていなかった。

 他人の飼い犬を欠陥品扱いする人間が、愛犬家と仲を深めることなんて不可能なのだ。


「……質問には全部答えてほしいんだけど。仮に異動するとして誰が僕の代わりに204を担当するんだ?」

「誰もつけないわ」

「は?それってつまり……」

「担当なしに戻すだけ。この先何があろうとね。それがドリームボックス上層部の答えよ。これ、渡しておくから」


 樗木から手渡されたのは、数枚の書類。『担当犬人変更についての申請書』と黒字で書かれたものだった。

 目を通すと、既に認可の欄に上層部の人間たちのサインや印鑑が丁寧に並んでおり、残すは城崎の署名だけとなっていた。

 要するに、城崎以外の施設の人間は、彼の異動に何も疑問を呈していないことになる。


「上は早めの提出を望んでるわ」


 激しい憤りを覚えた城崎は、この場で咄嗟に捨ててやろうかとも思ったが、怒りを何とか抑えた。紙は畳んで白衣のポケットにしまう。


「城崎くんが怒るのもわかるよ。ここに転属してから、強引にあの子の担当にさせられて、慣れたかと思えば急にこんな仕打ち……」

「分かってるなら、こんな話振らないでほしいんだけど?せめて教えろよ、これはどこのどいつの指示だっ?」

「……ごめん。答えられないよ」

「くそっ!」


 俯く樗木に思いっきり悪態ついた城崎は、その足で南棟へと引き返して行った。

 彼の心の中には、凄まじい憤りと、大きな喪失感への予期から生じる巨大な不安感が絵の具のように混じっておどろおどろしい色を保ちながら、霧の如く漂っていた。



「おかえりっ。しろさ──き……?」


 小春の自室に戻った城崎は、主人の帰宅に嬉しそうに抱きつく犬人の少女の背中に両手を回して、そっと抱擁を返した。

 主人に抵抗されないことに驚きつつも、小春は予想外の幸福に頬を緩めて笑う。


「あれ?あれれ、どうしたの。私に抱きつき返してくれるの、すっごく久しぶりな気がするよ」


 無邪気に跳ねる小春の犬耳を片手で撫でながら、城崎は彼女のことを更に抱き寄せる。

 尻尾も手繰り寄せて、彼女の身体全体を成人男性特有のがっしりとした体格で覆い被す、城崎のその行動に小春は頬を赤らめた。


「し。しろ……さき?」

「小春……シロ」

「しろ?ごめんね、上手く聞こえなかったよ。何しろって?私、何をすればいいの?えへへ、嬉しいけど……その、抱きつかれたままだと動けないよ」


 照れてしまって呂律が回らない彼女には気にもせず、城崎は彼女から離れようとしなかった。


「あ、な、何かあったの?おてきさんに嫌なこと言われたの?」

「小春」

「ん?」

「僕は、絶対に君のことを捨てないからな」


 城崎はそうして小春のことを抱きしめたまま、涙を流した。

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