27話

 じわじわと夏が本格化した八月。その後も小春が他人と積極的に話をすることはなかった。

 仕方なくいつものように一人と一匹だけで面接の練習をすることにした城崎だったが、彼相手では小春は緊張もせず、甘えた様子で訓練に望んでいた。その調子がしばらく続いたので、城崎は流石に焦った。秋はもう目前だ。

 今週も時差出勤。昼過ぎにドリームボックスに到着した城崎は、その足で小春の部屋へと赴く。


「おかえり!しろさきっ」


 玄関で彼の姿を見つけると、犬人の少女はべたべたと甘えた。

 犬人のタックルまがいの高速ハグは良くも悪くも慣れてしまっていた城崎は、奥の部屋から飛び出すように駆けてきた小春を受け止める。


「……ここは僕の家じゃないんだが」


 研究員はあしらうため煙たそうに言ったが、当の少女は止める気配がなかった。

 一度抱きつかれると引き剥がすのは苦労する。犬人が本気を出せば、人間の骨なんて複雑骨折させるぐらいのパワーを出すことは簡単なのだ。あくまで彼女を刺激することなく、退いてもらうよう慎重に交渉しなくてはならない。


「ううん。しろさきの家でもあるの。だって私と色んなこと、ここでしてるから」

「そうかもな。でも職場だ」

「えー。ひどいなぁ、朝一緒に居られないのは寂しいんだよ?」

「分かったから」


 城崎は退くよう彼女の肩を叩くが、抱きしめられる力は逆に強まった。彼女は大好きな飼い主の胸元にしきりに顔を埋める。


「えっへへ〜。しろさきの匂い、好きだなぁー」

「おい……」


 さっさと離せ、の一言を喉の奥へとおしやって、城崎は小春の頭に軽いチョップを喰らわす。

 だが彼女はじゃれついたまま、微笑みを返すだけだ。まるで飼い主が自分と遊んでいると勝手に思い込んでいる子犬のようだった。

 どうしたものか、と城崎が半ばお手上げ状態になっていたところに電話の着信音が鳴り響く。それは彼の白衣のポケットからのものだった。


「あ、すまん。電話」


 仕事用の携帯端末を取り出して出ようとすると、小春が顔を上げた。不機嫌そうに眉を八の字にして、ぶすっとして頬を膨らませている。


「……しろさき?誰それ。ねぇっ」

「誰でもいいだろ」

「よくないよ。私といるんだから電話なんて出ないでほしいな」

「何言ってんだ小春……そういう訳にはいかんだろ?」


 近頃の彼女はすぐに機嫌を損ねる。城崎が何らかの理由で意識を仕事の方へと切り替えると、メラメラと嫉妬心を燃やすのだ。 

 彼女は低く恨めしそうに唸っている。たとえそれが、単なる業務上のちょっとした確認のみの短時間の電話でもあっても。


「はい。もしもし……あ、はい。ええ、そうです──。あぁ……分かりました。では……はい。その調整でお願いします」


 端末から耳を離す。


「やっと終わったね」


 小春は安堵の息をもらした。今回も業務内の小さな確認の電話に過ぎなかったが、彼女にとっては一大事だったらしい。


「電話の度にそうするの止めろよ小春。仕事なんだししょうがないだろ?」

「しょうがなくない!しろさき、私の担当なんだよね?だったら私のことだけ構ってればいいじゃんっ。それも仕事でしょ」

「詭弁だぞ。君との仕事を円滑にするために、他にもやらなきゃならんことが少なからずあるんだ。覚えとけ」

「むむ……」


 ぎゅう、と彼女の腕の力が増した。


「痛いぞ」

「離さないよ。今日は私とだけいるって約束してくれないと」


 そろそろ苦しくなってきた城崎は、観念したように彼女の頭を撫で回した。


「いいよ。だからもう離せって」

「えっ?いいの?本当に?本当に私とだけいてくれる?」

「いいから離せよ」

「えっへへ〜やったぁー!これで二人っきりだねっ」


 ぱっと腕の力を緩めたものの、すぐに身体を密着してくる小春に城崎はたじろいだ。

 愉快そうに振られる彼女の尻尾は白く揺らめき、大きな瞳は青く深く輝き、犬耳はきちんと屹立してこちらに向けられていた。その姿は、懐いてしまって自分から離れようとしなかった頃のシロそっくりだった。

 城崎は苦悩を悟られないよう、笑顔を取り繕う。


「でも電話は許してくれよ。防ぎようがないからな」


 その言葉に彼女は表情を曇らせたが、すぐに苦笑に変える。


「うーん。じゃあ、しろさきから他の人に電話をかけなければいいよ」


 それぐらいなら、と城崎は考える。どのみち夜間訓練の時間になれば誰も自分たちには接触してこないだろうという予想から、彼女の提案を呑むことにした。


「今日も夜は盲導犬とかその辺の訓練するか。それまでは面接の練習でもしよう」



 もう間もなく通常勤務時の定時になる頃、一人と一匹が面接の練習に区切りをつけ、夕食の弁当に手をつけようとしてる最中に一本の電話が入った。

 応えようと端末を取り出す城崎に、またも小春は懐疑的で、尚かつ怪訝な顔つきをとる。城崎は電話に出なかった。きょとんとした小春は不思議そうに彼に聞いてみる。


「どうしたのしろさき?電話出ないの?」

「迷ってるだけだ」


 その間にも着信音は鳴っている。


「なんで出ないの。別に私は怒ってないよ?しろさきが私以外の何かに注意を払ってるのは嫌だけど……外からの電話は、今日は咎めないっていう約束だもん」

「そうなんだが……」


 歯切れの悪い城崎の態度が気になった小春は席を立ち、彼の後ろに回り込むと端末を奪い取った。端末の電話画面には『樗木』の文字が映っている。


「おい!何してるっ?」


 彼女のその行動に、城崎は驚いて声を張った。


「ふぅん……?おてきさんね。知ってるよ。前に盲導犬の訓練をしていた時に、私との訓練を中止してまでしろさきを呼び出した人だよね」

「返しなさい」


 城崎が有無を言わさない口調で手を差し出すが、小春はそれに応じようとはしなかった。


「……はいもしもし」


 着信が止む。あろうことか小春が電話に出たのだ。すかさず止めようと彼女の手を掴む城崎だったが、犬人の力には敵わず、ついに取り返すことはできなかった。成人男性の城崎が両手で彼女の片手を引っぱってもビクともしないのだ。


「城崎くん……?」

「204です」


 か細い樗木の声に、小春は冷たく返した。


「あ、そうだったのね。ごめんね、城崎くんと代わってくれるかな?」

「……しろさきならいません」

「嘘をつくな──204。僕と代われ」


 電話先の樗木に聞こえるようわざと大きな声で城崎が言った。


「え?今、城崎くんいるの?どういうこと?」


 虚偽の発言をしたことが相手側に露呈した小春は渋々、端末を元の持ち主へと返却した。

 彼女は椅子に座って頬杖をついた。そのまま苛立った様子で城崎のことを仰いでいる。犬の独占欲は異常なほど強い。特にそれは、異性の犬よりも人間の飼い主に対して発揮される。


「代わったよ。で、何の用?樗木さん」

「あ、うん……前にした件についてなんだけど。その件でもう一回でいいから、直接話をしたいなって思って」

「前の?悪いけどそれはできない。話をするまでもないよ。諦めてほしい」

「……どうしても?」

「くどいよ。僕は自分の仕事をしてるだけだ」


 以前、樗木から提案された他の犬人への担当異動の件は、控えめに言っても余計なお世話だった。

 話す機会を設ける必要すらないというのが城崎の見解である。さっきは咄嗟に小春を制して端末を返すよう促したが、彼自身は本当のところ、樗木からの電話には出たくなかった。


「あのね……実は、もう近くまで来てるの」

「えっ?」

「城崎くん、今週も時差でしょ?定時になったら休憩入るんだし、ちょっとだけ話せない?私は仕事終わったから大丈夫だよ」


 耳を澄ますと、徐々に近づく廊下の足音が端末越しではなく直に聞こてくる。小春もその音にぴくりと反応する。樗木が来ているのだろう。


「……分かった」


 城崎は舌打ちしそうになるのを堪えて、端末の電源を切った。


「しろさき、もしかしてここに人を呼んだの?」


 約束を破られたと勘違いしたのか、小春は呻くような声で悲痛に抗議する。


「いや、違う。向こうが勝手に来ただけだ──。会話、聞いてたんだろ?僕は電話先の人からの誘いを断ってた」

「それはそうだけど……断り切れなかったのは事実だよね?あと、前に話した件ってなに?私そんなの知らないよ?」


 犬人は例によって聴覚が鋭い。音量を下げた端末からでも電話先の声を拾っていたようだ。

 異動の提案のことは、下手に話すと彼女に無用な心配や不安を引き起こしかねないと判断し、城崎はこれまで黙っていた。


 ただでさえここ一ヶ月ほど、小春が城崎に見せる依存度や執着度は日に日に増加している。

 いかに城崎が異動を断固拒否しているとはいえ、元来から不安症気味で所々常識が通用しない小春が、自分と親愛なる飼い主の関係を引き離す人間たちに何をしでかすかは想像したくもなかった。


「こっちの仕事のことだ。小春は知らなくていい」

「コソコソ私に隠れて何してるの?しろさき?」

「そんなのじゃない。君には関係のない話だ」

「嘘つき。ちょっとだけ声が変だったよ、今」

「誰が?」

「知らんぷりしないで。しろさきだよ。しろさきって嘘つく時、ほんのちょっとだけ声色変わるよ?」


 短冊の件や、他の職員に雑談してくるよう催促した時のことで小春は嘘をつくのが下手だと思っていた。だが、城崎は自分も大して嘘が得意ではないことを思い知らされた。


 ──僕とシロはどこか似ていたし、小春とも似ている……。


 昔から飼い主と飼い犬は似る、というような話を耳にする。

 これは科学的には否定されている。単に人間側が、自分と似た犬を選んで飼っているだけらしい。しかし、共に生活する中で相手の性質を相互に取り入れることぐらいありそうなものだ。城崎はそう考えていた。

 野良犬を見れば分かることだが、彼らは人間に懐くまでは殆ど笑わない。そもそも笑うという行為自体が非常に擬人化されている感情なのである。人間側が「犬も人の同じような感情を持っている」というイメージを投影しているに過ぎない。それにも関わらず、飼い犬は人間を前にして、あたかも人間のようにしっかりと笑う。つまり犬は人間の笑顔を学習しているのだ。よく笑う飼い主を持った犬はよく笑い、無論その逆パターンも存在する。

 ミラーニューロンと呼ばれる、相手を模倣する形質を備えた脳細胞のおかげだと言えば、どれほどの動物嫌いの科学者でも同意せざるを得ない。人と犬は最初から似てるというよりは、一緒に生活を送る中で「似たもの同士」になるのだ。

 そして今、小春と数ヶ月の間を共にした城崎は、知らず知らずのうちに自分の嘘のつき方が彼女のそれに似てしまったのではないだろうか──という推測を巡らせた。


 小春も無意識にそのことを理解し、自分の映し鏡である飼い主──城崎の嘘に敏感になっていたのだろう。

 人は鏡の前で虚言を吐けないのだ。


「嘘はダメって、しろさきが言ったじゃん」

「……分かってほしい。僕は小春のことが大事だ。大切に思ってるから、こうして施設に来て訓練させてる。樗木さんとの件を話さないのも──小春のためなんだよ」

「しろさき……わ、私もしろさきが大事だよ。でも、だから、その……他の人には渡したくないって思っちゃうの。試験に向けて訓練しようって思えたのも、外に出たかったのもあるけど、本当はしろさきのためなんだよ?だって不良品の私が良い子になれば、しろさきは幸せになれるよね?」

「……違うな」


 城崎は首を横に振った。


「え?」

「小春。今、嘘じゃなくて間違いを言ってたぞ」

「間違い?」

「そうだ。君は不良品なんかじゃない。それに僕は今でも、小春と一緒にいられて幸せだよ」

「……しろさき……!うん、私も幸せだよっ」


 顔を明るくして、尻尾を振り回す少女。研究員もこれには小さく笑う。


「そうか。なら良かった」

「うんっ。えへへへ!」

「でもそうなら、もう少し面接の訓練はどうにかしようか」

「……うー。んん、まぁがんばるよ」

「ははは。期待してるぞ」


 一人と一匹が仲睦まじく微笑混じりに見つめ合っていると、ドアをノックする音が聞こえた。

 自分たちだけの時間はここで一旦終了、とでも言わんばかりに小春は顔を暗くして俯く。


「行っちゃうの?」

「うん。ごめんな小春。二人っきりって約束だったけど……十五分ぐらい、席を外すよ。すぐ帰ってくるから」

「……針千本、集めてるね」


 悲しそうに小春は冗談を言った。


「やめとけ。今日の弁当のおかずでよければ何個か小春にあげるから」


 彼女の頭を撫でて、城崎は部屋を出るのだった。

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