26話

 七月下旬になっても、小春の面接の訓練は難航していた。開け放たれた窓から入ってくる蝉の鳴き声は、音のない部屋を無遠慮に包んでいた。


「……城崎。もういいだろ。俺は戻るからな」

「あ、はい……すみませんでした」

「これだから雑種は」


 面接官役をしていた能登谷だったが、彼は項を擦りながら部屋を出ていった。部屋には城崎と小春だけが残る。

 今日は暇そうにしていた能登谷に来てもらって、人見知りな小春が初めて他人とまともに会話する機会を設けていた。そうして彼女に面接の模擬訓練をさせていたが、面接自体が上手く進行しなかった。


 小春は自分の担当である城崎以外の人間とは喋ることはおろか、視線すら合わせようとはしなかったのである。

 口を全く開かない彼女はまだ俯いて、不愉快そうに眉を寄せている。城崎以外の人間が自分の部屋に入ってきたことも合わせて心底嫌だったらしい。

 頑なに他人を拒絶する小春に、呆れた様子で城崎は重々しく切り出す。


「おい。本当に最初から最後まで一言も喋らないとはな……どういうつもりだ」

「嫌だから」

「は?」

「私、嫌なの。しろさき以外とはお話したくない」


 視線を上げた小春は涙目になりながら、弱々しく首を横に振って訴えた。少女が駄々をこねているようにしか見えない。


「それじゃ面接にならないだろ?」

「面接なんてしたくない」

「……殺処分されたいのか?」


 城崎は声を低くして問いかけた。


「それも嫌!私、しろさきともっと一緒にいたい……」

「なら他人と話をするんだ。どんなことでもいい。人と会話することを覚えるんだ。もしさっきの面接が本番だったら、間違いなく君は落選してる」


 数秒の間を置いて、小春は席から立ち上がる。


「でも……しろさきは嫌じゃないの?私が他の人と喋っても、嫉妬しないの?平気なの?」

「するわけないだろ。君の命がかかってるんだし」

「……私、どうしていいか分からないよ」

「人馴れしろ。どのみち、人とコミュニケーションするスキルは面接試験を突破してからも必要になる。介助犬、盲導犬、聴導犬……どれをとっても、他人が何を考え、何をこちらに願っているのか判断する能力は犬人には絶対に求められるんだからな」


 冷たく言い捨てる城崎だったが、内心では小春を心配していた。秋の試験まであまり時間は残されていないからだ。


「しろさき」

「何?」

「そうは言うけど、元気がないと何もできないよね?」

「それはそうかもな」

「元気出したいから……ハグして?」


 小春は両手を広げた。首をかしげるようにして、自分の飼い主に柔らかい声でねだった。

 唐突な申し出に城崎は固まる。


 ──この子の甘え癖も直さないと。


 城崎は無言で目を細くした。それが拒否表示であることを汲み取った小春は、密かに腕を下ろす。

 半月ほど前から甘えん坊な彼女の性格を矯正しようと、こうして接触を控えるようにしていた。


 彼女が人を信用するようになればいいかと、これまで何も制限を定めていなかったが、この頃の彼女は城崎から見てもスキンシップが激しかったのだ。


「今日もダメなんだ……私が悪い子だから?」

「そういうことじゃない」

「じゃあどうしたら、前みたいにしろさきは構ってくれる?」

「……だったら今から宿題を出す。それをやってきたらいいぞ」

「宿題?なにそれ」

「職員の誰かと会話してこい」



 昼休憩を間近に控えた時刻。

 うろうろと徘徊するように歩いては、緊張した面持ちでしきりに周囲を見渡すのは、犬人の少女・小春だった。現在、彼女は完全に単独行動中だった。

 素行優良な姿を記録した報告書が層を成してきたのが役立ち、城崎が随伴していない場でも小春は施設内を自由に歩き回れるようになっていた。城崎が上層部へ何度も抗議したことも活きたのだろうが、信頼のおける飼い主と巡り会えた小春の成長がもたらした小さな偉業だった。

 しかし、そうして手に入れた自由が、今は「宿題」に利用される形で彼女を苦しめていた。


 城崎が彼女に出した宿題は、施設内の職員の誰か一人と数分間の雑談をするという簡単なものだった。

 とはいえ、他人と喋りたくない小春からすれば極めて難易度の高い内容だ。

 廊下を歩く小春は何人かとすれ違う。彼らから邪険な目線を感じ取り、小春は俯いて身震いした。


 施設中を自由に歩き回れるようになったが、失敗作として、彼女のことを蔑む人間は未だに多かったのである。


 ──しろさき、助けてよ。怖いよ、私……。


 小春は挙動不審になる。ひとりぼっちは恐ろしかった。教育や訓練で一日の大半を城崎と過ごしていた彼女は、もはや野良犬のような昔の生き方には後戻りできなくなっていた。


 誰に、誰に話しかけようか、と小春は悩んだ。

 もちろん彼女には城崎の他に親しい人間はいない。犬人は予めノーカウントとして扱うことになっている。ドリームボックスの女性職員の絶対数は少なく、周りは男性職員だらけだった。彼らから今も昔も差し向けられている冷酷な軽蔑の視線に、小春は耐えられなかった。


「私、ひとりぼっち。しろさきがいないと……」


 泣きそうな小声で彼女はぼそりと呟いた。

 そして彼からの愛情を確保したまま、この状況で会話せずに済む手立てが何かないものかと考えを巡らせるも、ひとつの解決策が浮かぶ。


 ──うん、それがいい。そうと決まれば早く帰ろう。きっとそれがいいよね。


 彼女はたまらず、元来た道を引き返すことにした。



 「宿題」を小春に半ば強引に押し付けてから約三十分ほどが経過していた。城崎は小春の部屋に居残ったまま、彼女の帰りを待っていた。

 誰かに話しかけて少々の雑談をするだけなのに、こうも時間がかかるものなのか、と彼は不審に思っていた。もうじき昼休憩になる。


 危害を加えそうにない人間を彼女なりに選定しているのだろうか、とぼんやりと考えながら、今日分の報告書は何を書くか、彼は早くも用紙と睨めっこしていた。


 その時、扉の開いた音がして、城崎は玄関の方へと目をやった。足音を上げて近づいてきたのは小春だった。

 彼女が抱きつこうとしてきたのをすんでのところで制止する。


「ただいま、しろさき!ねぇ、ちゃんと宿題はやってきたらさ、ハグしてもいいよね?ね?」


 小刻みに素早く揺れる彼女の尻尾に苦笑いしながら、城崎は杞憂だったと安心した。


「宿題やってきたのか?」

「う、うんっ。ね、だから……」


 おや、と城崎は勘づく。短冊の時のことを彷彿とさせる彼女の上ずった声。抱きしめようと伸ばしかけていた手を引っこめる。


「いや待てよ。どんな話をした?」

「あ……えーと、それはっ……。あのね、えっと。最近暑いですねって世間話を少しだけ」

「どこの誰と?」

「あ、うーんと。たぁ、たしか山田さんって人だった……かな?」

「へぇ。それ南棟の人か?何を研究してる人だ?何の班に入ってる?僕と同じで犬人の教育か?それとも糧食?医療?」

「み、南棟の人だったのかなぁ?ごめんね、すごく緊張してたから、暑いですねって話しただけで帰ってきちゃって……えへへ、そこまではわかんないなぁ〜……」


 連発される質問攻めの意味を察したのか、小春の頬や額にはすぐに何滴もの汗が伝った。彼女は目がぐるりと泳いでいた。

 城崎はため息をついた。彼女に反撃の余地を与えないため、ポケットから端末を取り出して電源を立ちあげる。


「今から確認しようか。能登谷さんに電話して、ドリームボックスに山田って名前のついてる職員が何人いるか確かめてもらう。それから君と今さっき会話した人を探してもらう。いいよな?」

「そ、それは別に……何もそこまで」

「どうした。宿題やってきたんだろ?なにも疚しいことはないだろ?」


 城崎が脅すようにたたみかけると、小春はやがて観念したように、「ごめんなさい」と呟いて肩をしゅんと下げた。


「私、嘘ついた。本当は怖くて誰とも喋れなかったよ。だからごまかしちゃった。しろさきに褒めてもらって、抱きしめてほしかっただけなの。ごめん。ごめんね、しろさき……」

「……そんなことだろうと思ったよ」


 城崎は端末の電源を切って白衣のポケットに入れた。小春の肩に手を置き、静かに諭すように語りかける。


「嘘は駄目だ」


 小春は黙ったまま何度も頷く。鼻をすすりながら、涙の膜ができた赤い目を擦る、華奢で庇護欲を無性に掻き立てられる少女。

 彼女のことを優しく抱き上げたかったが、心を鬼にして堪えたのだった。

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