25話
帰宅した城崎は、荷物を置き、カメラを手にして車内に戻った。すぐに車を走らせ、近所の神社の境内に短冊で彩られた笹が何本か立てられていたのを見つけて寄ってみる。
こんな時間なので誰もいなかった。この日は快晴で、夜空には雲ひとつない。星の光で街が照らされているようにも思えるほど、頭上には一面の天の川が
例の分厚い短冊を笹に吊るして、下からのアングルで背景の夜空が写るように何枚か撮影する。
少し角度を変えてもう何枚か収める。それが済むと短冊を回収し、きちんと画像が保存できているかカメラのライブラリーを確認して、城崎はようやくその日の仕事を全て終えた。
*
翌日、十三時を回った頃。ドリームボックスへ出勤した城崎が南棟のとある部屋の扉をノックすると、室内から一秒足らずの凄まじい足音と共に、住民が勢いよく扉を開け放って飛びついてくる。
「しろさきー!」
声の主は小春だ。彼女の尻尾ははち切れんばかりに振られており、その喜びを全身で体現している。
彼女は片手に『星の王子さま』を持ったまま城崎を出迎えた。ノックの音に、本を机に置くことすら忘れ、玄関めがけて走ってきたのだろう。犬は主人の帰宅を事前に察知しているという論文や研究は山ほどあったが、今となっては真偽不明である。
「遅いよ。私そわそわしちゃったんだから。ね、短冊と写真は?」
「あるよ」
人数分の弁当を入れたトートバッグのジッパーを開く。忍ばせた小型の古いカメラと短冊の存在を彼女に示してから、城崎はそそくさと部屋に入った。短冊を小春に返却する。
「はい。確認しろよ、僕が一度開いたかもしれないぞ?」
にたにたと冗談っぽく嘲笑う城崎。
「えっ?あ……なーんだ、大丈夫じゃん」
彼を見て一瞬驚いた様子の小春だったが、短冊を綴じたホッチキスの芯が動かされていないことを再確認して表情を緩ませた。
「当たり前だろ?約束は守る、これは人間社会の基本的なルールだ。ルールを教える立場にある僕が破るわけにはいかんしな。写真も見るか?」
「うんっ。やった、本当に撮ってきてくれたんだね?えへへ、嬉しいなぁ。ねぇ早く見たいよ〜!」
「分かったからちょっと落ち着けって」
小春がずいずいと顔を寄せてくるのを片手で止めて、城崎はカメラの電源を立ち上げる。
ライブラリーのページを選択して、日時で最新の項目を開く。昨日の夜に収めた七夕の風景がそこには保管されていた。その中のものを適当に拡大して画面に表示すると、小春は絵にかいたように目を煌めかせて声を上げる。
「わぁ……!すごいね、しろさき。とってもキレイだね〜」
「気に入ったか」
城崎は画像の選択方法を小春に教えて、他の写真も見れるようにして、好きにさせる。
時間にして十分ぐらい、小春は歓声を口々にしながらはしゃいでカメラに夢中になった。彼女が追っていたのは七夕の写真だけではなかった。日時で保存されているフォルダなので、そのカメラ内に保管されている画像は全て閲覧できる。
彼女は城崎の制止を聞かず、本を読んでいる時のように集中して、知らない外の世界の断片図たちに見入った。知らない物や風景が写っていたり、特にお気に召した画像を発見すると、小春はすぐに城崎へ詳細を求めた。
海辺の写真は質問の嵐だった。山からは水平線だけは望めるものの、彼女からすれば文字でしか知らない世界なのだろう。
それが一段落しても、小春は大作の長編小説の本を読み終えたような心地よさそうな達成感に浸っていた。彼女はカメラを見下ろしたまま、大きな瞳に美しい光を漂わせている。きっと彼女にとってはどこかおとぎ話のようで、それでも現実の世界の話で──とごっちゃになっているのだ。混乱しながら、良い意味で圧倒されているのかもしれない。
やがて小春は城崎の方に向き直って、屈託のない犬特有の笑みをとってみせる。
「ありがと、しろさき。私の知らない世界がいっぱい見れたよ」
「そうか」
「本で読むよりも目で見るとすごいね、なによりも情報の量が」
小春はカメラを城崎へと返し、尻尾の先をぐるりと回転させてから、改めて微笑んだ。
「そりゃそうだ。人間も犬人も、視界から世界を構築してる。小春の場合、鋭敏な嗅覚とか聴覚も入るんだが……やっぱり、視覚は大事な要素だよな」
「世界かぁ。うん……でもなー。こんなの見ちゃったら、しろさきが羨ましくなるよ。いつも私と別れて帰った後、こんないい風景に囲まれてるんでしょ?ずるーい」
意地悪そうに舌を出して笑った小春は、頭の後ろで両手を組んで身体を軽く反らせた。
「否定はせん。小春が思ってるよりも何倍も世界は広い。しかも美しいもので溢れてる。この無機質な
「でもな」と城崎は釘を打つ。
「写真ってのはさ。語弊を恐れず言っちまえば、都合のいい、いいところばかりを切り取ったものなんだよ」
「都合のいい?それ、どいうこと」
「そのまんまだよ。現実の中から最良のものだけ選んでアルバム作れば、美しい記録集ができるだろ」
「……つまり?」
小春はむむ、と眉をひそめた。回りくどい言い方だった、と城崎は自省する。
「
「フェイク?」
「そう。この媒体は、確実性の高さから人間社会でも多くの場面で用いられるけど、絶対じゃない。中には、証拠として提示した写真が偽物だったってケースもあるんだ。そして人間は、それに踊らされて何度も衝突を繰り返した」
ここ百年間に起きた人類の歴史的大事件の裏側は、カメラを有したマスメディアの台頭と、それが煽る大衆の不安から生まれたものばかりである。
映像と写真は、発信する側の人間によって歪曲されて、加工されてから受信者へと一方的に押し付けられ、ありもしない真実が数えきれないほどでっちあげられた。今世紀になっても、そのことから人間は目を覚まさなかった。様々な組織や国、民族や主義が、お互いに多大な誤解を抱きながら、理解の遅延を正当化し続けた。相互に無関心を装い、不干渉なのに水面下で睨み合ってる現実が外にはある──。
城崎は要約してそう話す。小春はゆっくりと瞬きし、彼を見る。
「“本当に大切なものは目に見えない”……ってこと?」
城崎は頷いた。何かの書籍の一節だろうか、小春のその言葉はやけに含蓄のあるものだった。
「あんまり写真にばかり心を奪わるのも駄目だってこともよく覚えておいてくれ」
「うん……難しいけど、わかった。ねぇ、それならさ。どうしてしろさきは写真を撮るの?」
小春は考えている顔つきから普段の微笑に戻すと、声も明るくして他愛もない質問を発した。城崎はカメラに目線を落とした。小春の質問は高頻度で痛いところを突いてくる。
彼はカーソルを下げていく。分厚い記憶の地層がスクロールし、時間が逆行しているかの如く、風景が過去のものへと切り替わっていく。そのカメラにはこれまで彼が使ってきた機体のメモリーのコピーが合わせて保存してあった。カーソルが最も下まで行きつく。日時順の最後、つまりライブラリーの最深部。そこには一枚の荒い画像があった。
城崎が自身の携帯端末の待ち受けにしている画像と同じデータのものだ。シロが生きている姿を収めた唯一の写真である。
「小春。思い出がないと生きていけない人間もいるんだよ。悪いことだって知っててもね。情けない限りだけど……」
城崎が趣味としてカメラを持つ理由は、日常や美しい風景の中に、意識せずシロの姿を見出してしまうからだった。
小春は不思議そうに彼を見ていたが、何か他にやることがあったらしく、机の上にあった一枚の紙を彼に渡した。
「ふぅーん……。よくわかんないけど、はいこれ。しろさき、ダメなとこないか確認してね」
「これは?」
「プロフィール用紙だよ」
全ての欄が理路整然と黒文字で埋まったそれを見て、今度は城崎の方がきょとんとした。
全て書かれているのは良いが──。
「なんで今?」
「約束だったじゃん」
「約束……?」
記憶を辿る。城崎は頭の中で記憶の層が超高層のエレベーターのように登っていく感覚になった。小春との出会いから今日までの記憶が再生される。
そこで答えを掴み、城崎は「あっ」と口に出た。
「そういえば……そうだったな。写真を見せてほしければ、プロフィール用紙を埋めろって話をしたっけ。すっかり忘れてた」
プロフィール用紙がきっかで小春に趣味の話をし、自分のそれを打ち明けていた時のことを城崎は思い出した。
「正解!だから昨夜ね、吊るした短冊を撮ってくるってしろさきが話した後、私一生懸命がんばったんだよ?」
「そうだったのか……偉いぞ小春。覚えててくれて、ありがとな」
「えっへへ〜。これはもっと褒めてもいいんじゃない?」
自慢げに犬耳を瞬きする瞼みたいにお辞儀させ、小春は手招きする。飼い主に撫でるようねだっているのだ。
「ほらよ」
城崎はぽすりと片手を彼女の頭に置いてから、しきりに撫で回した。彼女はきゃっきゃっと笑い声を上げながらも、じっとして目をつぶっている。
その幸せな顔を見ていると、さきほどのシロの写真がチラつき、城崎は彼女から目を離して用紙に目を通すことにする。以前、埋まらなかった『特技・趣味』の欄には『人を助けること・人のためになる読書などの勉強』と書かれている。
「ん、いいね。これなら試験に受かりそうだ。他のところも大体問題なさそうだし」
「え、ほんと?そっか、よかった」
「ちなみに本当の特技と趣味はなんなんだ?」
「えー?別に嘘を書いたんじゃないよ?だってさ、しろさきって人間だよね?」
「そうだけど?」
「ほら、見てよ。『人』の字を『しろさき』に置き換えてみて」
そう言われて、城崎はぱっと文章を組んだ。夏だというのに彼は寒気がした。
「……なるほどな。確かに嘘は書いてない」
「でしょでしょー。私、いいこと思いつくよねぇ」
「文字面だけなら試験ウケはしそうだし、このままでもいいか。となると、あれか。実践の訓練もそうだが、残す難関は……面接だ。秋に向けてそっちの訓練もしていかないとな」
「面接?」
「そ。人と直接対峙して話をするんだ。あ、人ってのは、もちろん僕のことじゃないからな」
小春は黙った。その沈黙の意味を理解することは、担当として数ヶ月も彼女の近くにいる城崎には難しくなかった。
一人と一匹のいる部屋の開けた窓の隙間から、雑音のような蝉の鳴き声が流れていた。
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