24話

 翌日こと──七夕の日。時差出勤のため午後はじめにドリームボックスに訪れた城崎は、いつものように南棟のロッカーで白衣を着ると、その足で棟の端に位置する小春の部屋へと向かった。

 到着して、周りに他の人がいないことを確認した城崎はノックして声を張る。


「小春。来たぞ」


 間髪入れず、扉と蝶番が軋む音がする。部屋の中で待っていたのは、上機嫌そうな小春だった。


「昨日より五分早いね、しろさき」

「計測するなよ」

「いいじゃん。ほら、入って」


 顔をぱっと明るくした犬人の少女。彼女は意気揚々と研究員を室内へと招き入れる。

 奥の部屋は昨日と変わらない様子だったが、机の上だけは何やら違った様相である。城崎はふと、かつての彼女が健気にも針を収集していたことが浮かんで微笑する。今の机上に散らばっているのは、鋭利な針でもなければ空論でもなかった。色とりどりの短冊たちが何枚か無造作に置かれていた。

 城崎は椅子に腰を下ろすなり、それらに視線をやった。


「短冊?どうしたんだ、これ?」

「わかんない。朝起きて、ビスケットのポストの中を見たら入ってたの。しろさきが入れてくれたんじゃないの?」

「まさか。僕、今来たとこだぞ……貸してくれ」

「うん。はい」


 小春は全ての短冊を机から拾うと、城崎に渡した。受け取った彼は、しげしげと表と裏に目を滑らす。どの紙にも何も文字は書かれていなかった。どこにでもある何の変哲もない短冊だった。数えてみると都合六枚だった。


「不気味だな。サンタクロースってわけじゃないだろうし……」

「夏だもんね」


 短冊を返して、城崎は欠伸する。

 昨夜はシロと小春のことで考え事をしていてせいで、彼はあまり眠れなかった。


「……幽霊の仕業かもな」

「ユーレイ?」

「そう。七夕になるとポストに短冊を入れて歩く、気前のいい幽霊がいたりしてな」

「しろさきって、たまに変なこと言うよね。そんなのいるわけないじゃん」


 きょとんした表情をする小春。ボケたつもりだった城崎は、彼女にスルーされて苦笑する。


「あと有力なのは織姫と彦星か?」


 ふふ、と小春は笑って犬耳を弛ませる。


「今日のしろさき冗談ばっか。面白いけど」

「そうか……」


 子供らしく微笑む小春に、城崎は後ろめたい気持ちで姿勢を崩した。

 正直なところ、城崎は小春に怖がってもらいたかった。彼女に易々と幽霊を信じて恐れてほしかったのだ。そうすると、今の自分の胸のつかえが解消するかもしれなかったからである。

 昨夜、彼の考え事の中でも特に際立って厄介な難問があった。


 『犬人には自我・意識あるいは感覚質クオリア、心、などと形容される「魂」のようなモノは存在しない』


 という一文の存在だ。ドリームボックスに転属してから間もなく、上司の能登谷から目を通すように言われて渡された犬人関連の文献資料の一節。

 城崎はこの文章がやけに頭から離れなかった。以前、小春が脱走して犬人の警備員たちに決死の抵抗を図った際、警備員たちの無味乾燥で無機質な顔を見て、真っ先にこの文章にリンクした。


 自我、意識、感覚質。心、それから──魂。


 世間には非公表で極秘である犬人とはいえ、仮にも科学的資料の文章に「魂」の文字が並んでいる。城崎はそれに違和感を覚えざるをえなかった。あまりに内容が抽象的だったからだ。だが、この文の筆者が言おうとしていることは容易に想像できる。

 つまり……犬人の主観の有無を問う難問だ。昨晩の城崎はこれについて客観的な証拠探しに思考を巡らせたものの、ついにその存在を証明できなかった。

 城崎は研究者だ。仮にも科学者の端くれだった。それでも、彼は犬人に──しいては小春に、人間と同様の主観や魂のようなモノがあってほしいと切に願っていたのだ。


 一般的に、昔から犬は自我や意識を持ち合わせていないという見解があった。デカルトの動物機械論が最たる例だ。

 犬に詳しくない人はこの説やデカルトを異常だと思うだろうが、それは動物を過度に擬人化しているだけだ。動物と人間とでは視ている世界が明らかに違うのは、疑いようのない真実だ。ユクスキュルの環世界という考え方に則れば、生態が違う犬に人間と同じような意識体系があるとは言い難いし、蟻や蜂などの昆虫に高尚な魂があるとは誰も思わないだろう。

 たしかにチンパンジーやシャチなどの高等生物に意識があることは判明している。しかし、犬だけは曖昧に濁されている。

 だから死後の世界の霊的存在を彼女が信じてくれていれば、城崎は僅かながら救われたのである。


 死後を憂いて、あるはずのない未来を想うのは人間──ひいては、魂ある動物の特権だからだ。だが彼女は肝心なところで冷めていた様子だ。

 笑顔を城崎に向けている小春も、あの時の警備員たちと同じ犬人だ。しかも両者は同じF型の少女。不意に部隊のリーダー格の犬人と小春の顔が重なって見えた気がした。前者の恐ろしいまでに冷徹な表情によって、後者の無邪気な笑みが掻き消されていく。


 ──と、城崎は背筋を凍らせてゾッとした。


「しろしき。これ、書いてもいい?」


 ぺらりと短冊を提示する小春の問いかけに、ようやく城崎は我を取り戻した。平静を取り繕ってから頷く。


「もちろん。でもどこに飾ろうか?あいにくここに笹はないしな……」

「そっか、短冊って笹に吊るさなきゃダメだったよね」

「そうそう。流石にここに笹は用意できないけど、書くだけ書いとけよ。せっかくだし」

「うん」


 隣の椅子に座った小春は、前に城崎からもらった万年筆を衣服のポケットから取り出した。彼女は淡い橙色の短冊を書きやすい手元に置き、横にいる城崎を見た。


「……でもなんて書こう?」

「小春が持ってる願いなら、なんでもいいだろ」

「願いかー。うーん。やっぱりそれは、ずっとしろさきと一緒にいることかな」

「僕と……ずっとか」

「うん!ずっと、ずぅーっと。永遠にね。それこそ、織姫と彦星みたいに。お星様になったら二人だけでいられるのかな?永い時間をお空の上で」


 はくちょう座の二重星の煌めき。

 城崎は大きく息を吐いたように笑う。


「ロマンチックだな。でもな小春。君と僕とじゃ、その……」

「わかってるよ。でもだからこそ願うんじゃないの?」

「そうだな。昔からこの祭儀が受け継がれてきたのも、こうして願うためなのかもしれないな」

「うん。叶わないからこそ、お願いしたいんだよ」


 彼女のあどけない笑顔の中に、達観したような含みのある諦観の笑みが垣間見えた。城崎は途端に虚しくなった。


「試験に受かって、殺処分の件がチャラになって生き延びても、君はいつか僕より早く……君は……」


 死んでしまうんだよね、の一言は口に出来なかった。


「私は犬人だもん。最期まで、しろさきと一緒にいられないよ。ごめんね」


 小春は悲しそうに眉を寄せて苦笑するが、口調は変わらず明るい。黙る城崎に構わず彼女は続ける。


「だからさ、しろさき。それまでは私にいっぱい依存させてよ。それから、私に依存してよ。甘えとか、私がこどもから脱しないからダメって言っても……私はしろさきだけが飼い主だよ。この先もずっとね。ずっと、ずっと」



 小春の歪な愛の告白から数時間が経過し、夕方になった。昨日と同じでひぐらしの鳴き声が辺りを包み、訓練を一時止めた。

 城崎が持参してきた夕食の弁当を食べ終え、ひぐらしと入れ替わりで、またも夜が一人と一匹の元へとやってくる。


 昨日は色々あって訓練しなかったので、今日は真面目にすることにした両者は黙々と盲導犬の試験対策をこなした。

 訓練が無事に終了すると、小春の部屋に戻り、拘束具の片付けをしている頃には終業時刻になった。帰宅しようと腰を上げた城崎を小春が引き止める。


「待って待って!しろさき」

「なんだ。帰るなと言っても帰るぞ。眠いし」

「ちがうよ。そうじゃなくて、これ」

「ん?」


 彼女から寄越されたのは短冊だった。それらを見下ろす。文字の筆記訓練として教えた綺麗な文字で丁寧に綴られていた。


『しろさきがずっと幸せになりますように』

『しろさきが悩み事を抱えませんように』

『しろさきが趣味を楽しくできますように』

『しろさきに不幸なことが起きませんように』

『しろさきがお金をいっぱい貰えますように』


 城崎の幸福について、溢れんばかりの願いが短冊に記されていた。小春が随分と欲張りなのは擁護できないが、律儀に一枚につきひとつの願いで書かれている。小説か本で覚えたのだろうか。


「いつの間に書いてたんだよ……全部僕向けのだし。てか、これはいくらなんでも書きすぎだろ」

「え?そうかなー。これでもまだまだ足りないよ?」


 城崎はくすぐったいような、照れくさくような変な気分になった。息子だか娘に似顔絵を描いてもらった父親の気持ちに近いものだ。


「ありがとな。でもこれ、君自身の願いがひとつもないぞ」

「しろさきが幸せならそれでいいの」

「あれ、これ五枚しかないな。小春、残りのもう一枚は?」

「……んーん?五枚しか私、書いてないよ」

「そうか?」

「うん。嘘なんてついてないよ?」


 上ずった声を出す小春の目はぎくしゃくと泳いでいた。初めて見る彼女のその表情に城崎は笑いを堪えた。逆を言えば、これまで彼女は城崎に一回も嘘をついていないことになる。


 ──この子でも、個人的に叶えたい願いはあるんだろうか?


 城崎は少々興味をひかれたものの、余計な詮索はしないことにする。


「で、なんで短冊を僕に?」

「あーそれはね……しろさきに写真を撮ってきてもらいたいの。前に言ってたよね。写真を撮るのが趣味だって。だからお願いしたいの。ダメかな?」

「写真……もしかして、笹に短冊を吊るした写真を撮って見せてほしいってことか?」

「そう。体力が無かったら、無理にとは言わないよ。しろさき、今日は昼から眠そうにしてたし、今さっきまで訓練に付き合ってくれてたもん」

「いいよ。それぐらい」

「え、いいのっ?よかった〜。断られちゃったら、施設逃げ出して山の中に笹がないか探しに行ってるところだったよ」

「……それはとんでもないジョークだな」


 自宅で眠りに落ちてすぐにドリームボックスからお怒りの電話が飛んできて、電話越しに頭を下げる寝巻き姿の情けない自分の背中を想像し、城崎は胸をなでおろした。

 今の時期にもう一度脱走したとくれば、試験に申請すら出来なくなるのは目に見えているからだ。


「あ!ちょっと待ってね。まとめるから」


 小春は城崎から短冊の束を一旦返すように促した。城崎は返しながらも怪訝そうに聞く。


「まとめる?」

「うん。その、あれだよ?しろさきがうっかりなくさないように……してあげるだけだよ?気にしないでね」


 小春はそう言うと、机の上に転がっているホッチキスを拾った。そしてあろうことか短冊の縁をミシン縫いするかの如く、芯で固定していく。バチン、バチンと留める音が部屋に伝わった。短冊は万年筆の文字が透けないぐらいの厚紙で、何枚か重ねた状態でホッチキスを使用しようとすると、かなり力を入れる必要があったが、犬人の彼女のパワーならなんてことはないらしい。

 自分の書類整理のためのその道具が壊れたらどうしようか、と城崎は思った。


 彼は気づいていた。自分に見えないように、小春は隠していた六枚目を束の中央に挟んでホッチキスで留めていたことを。


「よし、できた。はい。しろさき」


 そうして、彼女の願いが秘匿された短冊の束を再度渡された。


「ええ。これじゃカメラ写り悪いぞ。開けても──」

「ダメだよ?それ、明日返してもらうからね」

「分かった」


 脅すような彼女の低い声。満面の笑顔が怖い。城崎は手を前で振って彼女を宥める。

 これだけガッチリと固定されていると、芯を外して元通りに戻す作業をすると瞬時に発覚してしまうだろう。小春の短冊を見ることは諦めて、それを白衣ではなくズボンのポケットにしまう。


「それはそうと、結局この短冊を小春の糧食ポストに入れたのはどこの誰なんだろうな?ここまできて分からずじまいか」

「もしかして、実はしろさきだったり……?」

「違うぞ」


 城崎にもそれだけは謎だった。盲導犬の訓練の際に時折、アイマスクを外して施設内を探したが、どこにも短冊の装飾に満ちた笹の姿はなかった。


「まぁいいか。僕はもう帰るから。また明日な、小春」

「うん。また明日ね。バイバイ、しろさき」


 城崎は小春の自室を後にした。彼が歩き進んで、たまに振り返ると、廊下の奥でまだ少女が大きく両手を振っていた。

 普段から小春はこうしている。城崎もそれに応えた。既に勤務時間外の出来事だ。他の人が相手ならば彼はこんなことはしないが、あの少女にだけは心から優しくなれたのだった。

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