23話
黒い画用紙にきめ細かい砂糖をまぶしたような夜空。一面に広が星々を見上げて、一人と一匹は息を呑んだ。
「ね?キレイでしょ。しろさき」
「そうだな。ここは街から遠いし、よく見えるな。綺麗だ」
天の川がはっきりと現れている。この地域でここまで見えるのは極めて珍しく、城崎は僅かに胸が興奮した。夜空を仰いで高揚するなんて、彼には何年もなかった体験だったからだ。城崎は明日が七月七日であることに気づく。
「明日は七夕だったな」
「たなばた……?あ、笹に短冊かけるやつだっけ?」
城崎の前にいた小春は、後ろへ振り向きながら首を傾げた。
「そうだ。織姫と彦星の伝説から続く行事だよ」
「その話知ってる。たしか二人はすごく仲良しだったけど、それにかまけてやるべき事をやらなかったから親の怒りを買っちゃって、一年に一回しか会えなくなるんだよね」
「そういう話だったな」
厳密には二度と会えなくなるように差し向けられたが、織姫と彦星があまりに嘆き悲しんだことから、親──神のせめてもの慈悲で二人は年一回だけ直接会えるようになったという話だ。その会える日というのが七月七日に当たる。
「ひどいよね。私なら、そんな話無視して相手の所に行く」
「ん?酷いって……織姫と彦星を引き離した親じゃなくて、お互いに会いに行かない二人の方のことか。小春は妙なこと言うね」
「だってさ、二人は相手のこと好きでしかたないんでしょ。なら、どんな困難や障壁があっても立ち向かうべきだと思うよ」
「強引だな」
「例えばさ、しろさきと年に一回だけしか会えないって言われたら、私絶対に怒るよ。どんな手段使ってもそっちに行くから」
「なんで彦星が僕なんだよ?」
「ダメ?」
「駄目じゃないが、その……他にいるだろ」
いるはずもない小春の架空のボーイフレンドを描き、城崎は投げやりに聞いたが、もちろん彼女は首を横に振る。
「いないよ。私にはしろさきだけだよ」
「小春もお年頃か」
「からかわないで」
気まずくなり、城崎は顔を背けた。最近の彼女の言動を鑑みる。まさか自分に恋でもしてるんじゃないだろうな、と城崎は深く疑った。
小春が彼に一歩近づいた。
その瞳は暗く、頭上の夜空を思わせる。その暗い宇宙の海には惑星はひとつも存在していない。
「しろさき、私のこと好き?」
さきほどの疑問はピンポイントだったようで、城崎は押し黙ってしまった。だが彼は咳をして、務めてひっそりと微笑んだ。
「好きだ。パートナーとして、犬人としてもね」
「……女の子としては?」
「それは……」
一人と一匹から笑みが消えた。
犬人にオスはいない。A型からF型までの人間の遺伝子サンプルは総じて女性──しかも二十歳未満の少女のみに限定されている。
かつての盲導犬や介助犬などは、性格が比較的温厚とされるメスが担うことが多かった。そのため人間に従う労働力として研究や訓練が進む犬人も、なるべく攻撃性を排除したいという観点から女性の「型」しか開発されていない。
犬人には生殖能力もない。性欲もない。従って犬のような発情期はないし、ヒトのように年がら年中、異性に興奮するようなこともないはずであるが、研究員の目の前にいる少女は異なるようだった。なにせ失敗作なのだから。
「分かったよ。正直に言おうか。小春。君、僕に依存してるんだろ?それは恋なんかじゃない。ただの甘えん坊だ」
城崎は自身にも言い聞かせるように敢えてキツく言い捨てた。一方の小春は口を噤んでいる。というよりも、衝撃で放心している様子だ。
「精神分析家のフロイトの言葉を借りるなら、エディプス・コンプレックスってやつに近いかもな。生まれた時から親のいない君は、僕にある種の父親像を求めて飢えてる。だから最悪、僕じゃなくてもいいんだろ?父親……いや、存分に甘えられる親の役割を果たしてくれる人間なら、誰でも構わないんだろう?」
「ち、ちがうっ。違うよ!しろさきっ。そんなことない!私、しろさきのこと好きだよ!」
小春は剣幕を凄めて強くその意見を否定した。必死と言わんばかりの形相だった。
「違わないさ」
城崎は構わず続ける。彼は、小春に語っている気にはなれなかった。恫喝のようなこの口調は、目の前の少女にではなく、実は自分自身に向けられているのだと彼は分かっていたが止められなかったのだ。
「君はあばら液から生まれた犬人。生身の親はいないんだ。でも頭も心も人間だ。だから……その埋め合わせをしようと、自分に近づく大人に依存してるんだろ?それが偶然、僕だけだった話に過ぎない」
「……なんでっ?なんでそんなこと分かってるみたいに言うの?ねぇ、どうしちゃったの、しろさきっ!ごめんねっ?私、何か怒らせるようなこと言っちゃったのかな?」
「そういうのじゃ──」
「しろさきっ!」
抱きつこうとする犬人の力には抵抗できず、城崎は彼女に押し倒される形で芝生の上に寝転がった。幸い頭は打たなかった。
視界が九十度向上し、見惚れるほどの夏の夜空が待っていたが、すぐに視界の下から小春の顔が突き出してくる。彼女が下敷きになっている研究員の顔をぎろりと覗き込んだ。
「ごめんなさいっ!私、いい子だよ?きちんといい子にしてるよ、この頃は。施設の規則とか決まり事とか、守るようにしてるよ?しろさきのこと……っ。しろ、しろさきの評判を落とさないようにちゃんとしてるよっ?」
「おいっ。小春、何も僕は怒ってるわけじゃない。離せ」
「いやだよ。しろさきに嫌われちゃったら、私、どうすればいいのかわかんない……!」
逃れようとした城崎の腕を犬人の力で掴んで、小春は彼を地面と固定した。
城崎は抗えなかった。徐々に力が増していく彼女は、低い声で唸っている。唸りながら涙を零していた。
「小春っ!」
城崎が叫ぶ。次の瞬間、小春は突然力を抜いて、自身の下にいる彼の胴体に身体を預けた。
体重の衝撃を受け、城崎はくぐもった声を出した。自身の胸の上にいる小春の顔を見る。涙で濡れて歪んだ彼女は泣き疲れた子供のように怯えていた。今なお苦痛の表情が浮かんでいる。
「離れてくれ」
「いやだ。離れたくないよ。私……好きだから」
「それはもう分かったから」
「……しろさき、好き。好きだよ。嘘じゃないよ。ベタベタに甘えちゃうけど、大好きなの。私、しろさきのこと都合のいい大人だなんて、絶対絶対思ってないもん……」
「分かった、分かったって!ごめん。悪かったよ……反省してる」
「本当っ?私のこと捨てないよね?ね?」
「君の担当は僕だからな」
「うん……うんっ」
安心して泣き伏す小春。彼女は城崎の胸元に顔を埋めて静かに涙を流した。
壊れ物を扱うようにできる限り優しく、彼女の頭や背中を撫でながら、城崎は夜空を見ていた。
夏の夜空に燦然と輝く大三角。そのひとつ、はくちょう座のクチバシには二重星がある。互いの引力で釣り合い、丁度いい距離で回っている天体たちのことだ。
はくちょう座の
*
十分ほど過ぎ、落ち着きを取り戻した小春に改めて謝った城崎は、本日の訓練をここで止めることにした。残りの時間は彼女とゆっくりと喋るためだ。
芝生の上に並んで寝転ぶ一人と一匹は、夜空を眺めながら話をする。ひぐらしの鳴き声はとっくに静まり返っており、施設の建物から漏れる電気もちらほらと無くなりつつあった。風もない。一人と一匹にはそれぞれの声だけが聞こえている。
「しろさき」
彼の手を握る彼女は、横目でそちらを見た。
「何?」
城崎はまだぼんやりと二重星を追っていた。周辺の星と星の間に白いラインが走り、星座たちの絵が目に浮かぶ。
「私がしろさきのこと好きって、いつから気づいてた?」
「君が僕に懐いたあたりから薄々疑ってたよ」
「そっか……しろさきにはバレてたんだ。そうだよね、私の担当だもんね」
「当然だろ」
「恥ずかしいね」
「そうか?僕は、なんというか……」
「というか?」
なんだろうか。城崎は声が出なかった。小春がもぞもぞと寝たまま身体の位置を直し、少しだけ彼に近寄った。
「僕は怖かったんだ」
「え、それって……私が?」
「そうじゃない。小春のことを怖がっていた訳じゃ……説明が面倒だな。とにかく、僕は君のことが気に入りすぎてたんだ。だから警戒してたんだ。君のことに依存してしまわないかって」
それは彼の本音だった。小春というよく出来たシロの代替を見つけてしまい、城崎はのめり込んでしまったのだ。
わざわざ『星の王子さま』を買い与えたこと。警備部隊の犬人たちのライフルの前から逃げなかったこと。「小春」と名付けたこと。糧食は不味いから、と弁当を毎日与えたこと。試験を受けさせるよう勧め、それに向けて訓練させたこと。砂糖たっぷりのスイーツを与えたこと。他の犬人の担当に移れという樗木の誘いを断ったこと。頻繁に頭を撫でて褒めたことも。
その全てが小春のために行ったものではなかった。あくまでもシロに似ている彼女のためだった。犬人研究員の仕事のためでも、少女の悲惨な未来を避けようとする善意ある大人としての大層な慈悲でもない。
城崎は、自分のために小春をここまで救ってきたのだ。そのことは彼が一番心得ていた。
「私を?」
「実を言うと、君が僕に懐くよりも前から、僕は君のことが気になってた」
「え、それ……えへへへ〜もしかして、告白?」
「いいや。そういう意味じゃない」
城崎は、はくちょう座の下の方でシロが元気に走る姿が見えた気がした。かつて、山の中に降りた鳥をシロが追いかけ回したことがあったのだ。その時の記憶をはくちょう座にかけて夢想していた。
犬。人類の最愛の友人──。おおいぬ座の姿を拝めるのは冬だが、城崎には、夏の今も思い出の犬が空を縦横無尽に駆け回っているように思えて仕方なかった。
そして、シロのことを小春に打ち明けるべきかここに来て彼は悩んだ。
「しろさき?」
「……また機会がきたら話すよ」
城崎は上半身を起こして、隣に寝そべる小春に目をやりながらそれだけ言った。曲がりなりにも好意を伝えてくれた少女に残酷な真実を打ち明けるのは流石に躊躇ったのだ。
昔飼ってた犬に、君はとてもよく似ていた。その犬のことを忘れられなくて、似ている君に投影していたんだ。君自身には今も微塵も興味がない──そう言えば終わるのだが、彼にはそれだけの度胸はなかった。
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