22話

 翌週、時差出勤が始まった。昼過ぎにドリームボックスへ出勤し、前半は小春に座学を受けさせた。内容は人間の一般生活における基本的なマナーなど試験向けのものだ。

 それが終わる頃には夕方で、いつもならば城崎は退勤する時間に差しかかる。通常勤務の研究員たちが仕事を終えて、疲れた様子でぞろぞろと吐き出されるように施設を去っていく。

 そんな光景を眺めながら、一人と一匹は中庭で座って話をしていた。


「みんな帰ってくね」

「そうだな」

「朝は寂しかったけど、しろさきが遅れて来るのもいいね。だって今、あの人波に紛れずに私の隣にいてくれてるもん」

「……そう言ってくれるとありがたい。でもな、今からまた訓練だぞ?遊ぶわけじゃ──」

「わかってるよ」


 小春は自身に付けられた拘束具である首輪とリードを順に触った後、城崎を引き寄せるように彼の白衣をぐっと握った。


「訓練でもね、全然いいの。私はしろさきと一緒ならそれでいい。それだけで幸せ」


 俯きがちにそう言った彼女に、城崎は黙って立ち上がった。



 その後、基礎である歩行訓練から数時間が経ち、辺りは薄暗くなってきた。

 ひぐらしの鳴き声が周囲一帯を取り囲んで、施設に残る一人と一匹を逃がそうとしない。どこかもの悲しくなる、静謐で厳かで、ノスタルジックを感じさせる空気。昼間より涼しい風が一人と一匹の頬を撫でて通り過ぎていく。もうすっかり夜だった。


「夏だな」


 歩きながら、城崎は隣にいる小春へ呟いた。


「うん」


 幾度となく続けられた訓練のおかげで、小春の歩行ペースは城崎にぴったり合わせられていた。

 城崎が早足になれば小春もそれに習って足を早め、逆も同じ要領で調整する。出会った当初、お互いに距離を縮められなかったのとは大違いだ。


「……ここは山奥だからよく聞こえるな」

「なにが?」

「ひぐらしだよ」


 ひぐらしの安息と哀愁に満ちた合唱が人の少なくなったドリームボックス全体に響いている。カナカナカナカナ、と夏の一日の終わりを告げる美しい音色だ。


「綺麗な声だね。すっごく悲しげなのに、寂しそうじゃない。なんだかしみじみしちゃうよ。去年の夏もこんな感じだった。人が少なくなってから、ひっそり虫たちの声を聞くの。本と虫と、それから……ふふふ、ちょっとした楽しみだったなぁー」

「いい感性だ」

「しろさきも好き?ひぐらしの鳴き声」

「うん。昔のことを思い出しちまうけど」

「え?それがいいんじゃないの」

「思い返したくない記憶もあるもんだよ。特に理由はないけどさ、夏のこの時間帯ってのは大人は悲しくなるんだ」

「そーいうものなんだね。しろさき、悲しい?」

「ちょびっとだけ」

「そっか」


 城崎はシロと過ごした夏の夜のことが脳裏をよぎった。

 近所の神社で縁日の催しがあった時のことである。母親からもらったおこづかいで色々な屋台を楽しんでいたが、友人がいなかった当時の少年・城崎はすぐに飽きてしまい、シロが根城にしている山へと向かった。

 その時は今のように遅い時間だった。片手には三百円で買った、からあげの入った紙コップ。蚊に刺され、痒い皮膚を掻きむしりながらも、少年は生きているかも定かではない野良犬のため、独り足を動かしていた。暗い山の中の遊歩道を進み、ついに少年はお目当てのシロと会う。よそよそしくも、彼がこの場にいることを受け入れた様子のシロは、いつもは嗅がない油の匂いに反応を示した。少年が持ってきていたからあげだ。

 少年がひょいとそれを地面へ投げると、犬は勢いよく飛びついて食べた。すぐに少年に次の塊を催促し、尻尾を振りながら犬は全てのからあげを平らげたのだった。

 その時のシロは満足そうな顔をして、蕩けた目で少年──城崎を見上げていた。


「……懐かしいな」


 ぽろっと口が滑って、研究員・城崎はそれだけ言った。小春の視線を感じて彼は口を閉じる。小春にシロのことを喋るつもりはなかったのだ。


「え?」

「なんでもない。本格的に暗くなる前に飯にするか」



 夕闇に誘われそうになった感情を断ち切り、一人と一匹は歩行訓練に区切りをつけて、一度部屋に戻った。小春からの提言で城崎が用意してきた弁当の時間である。

 これみよがしに手を洗ってきた小春は、城崎からオレンジ色の蓋をした弁当箱をもらうと、すぐに蓋を開けて中を覗き込んだ。リードは外しているが首輪はつけたままだ。


「わっ!やったぁ、今日はからあげだ」

「そういや……そうだったな」


 宝石の原石のように揺らめく光を帯びた瞳。弁当を作った少々の手間と苦労が城崎の中で一挙に解消された。

 その時、ひぐらしの声により引き出されたシロとのあの記憶が水彩画のような淡い情景となって、再び城崎を襲った。

 未だ外からはひぐらしの声が流れてきている。城崎は泣きそうになったのをこらえた。何故よりにもよって、今日からあげを入れてしまったのだろう、と弁当を準備していた数時間前の自分を恨んだ。


「えへへ〜私がこれ好きなの覚えててくれたんだ、しろさき」


 城崎の心中など知る由もなく、口をもごもごと動かして美味しそうに味わう小春。彼女の幸せそうな犬耳と尻尾の揺れ方は、愛犬の喪失をこの歳にもなっても未練がましく嘆いている城崎をさらに苦しめた。

 空咳をして、城崎は自身の気持ちと場を切り替えようと二回ほど手拍子する。

 

「ちゃっちゃと食え。それから夜間の訓練するぞ。あと二時間で僕は退勤なんだしな。ゆっくり焦ってくれ」

「けどこんな時間だよ?もう今日はここに泊まっていたったらどうかな?」

「却下。布団がないだろ。それに第一、上の人間が絶対に許してくれん」

「うー。世知辛ーい」


 梅干しを食べながら文字通り口を尖らせる小春。そんな彼女を一瞥し、城崎は自分用に作っていた軽食のサンドイッチを食してペットボトルのお茶を飲んだ。


「小春、今日は手慣らしに盲導犬からやろうか」

「そう。わかったよ」


 四つ入ったからあげを素早く殲滅し、今度はサラダを蹴散らす小春。弁当箱の半分の勢力を誇っていた白米は滅亡している。

 過去何回か城崎が野菜から食えと指導しているが、今のようにがっついてる時の彼女は止められなかった。 糧食であるビスケットしか食することを許されていない犬人の試験には明らかに必要のない配慮なので、城崎は半分諦めているのだが。


「あれ、でもさしろさき。夜間の訓練ってことはさ、視界が悪い状況に慣れるためにやるんだよね?」

「そうだけど。それがどうかしたのか?」

「夜でもここの廊下の電気、めいっぱい光ってるよ。何ひとつ暗くないけどいいの?」

「大丈夫、さっきみたいに中庭や南棟の外周を歩く予定だ」

「へぇ……ん?それって結構危ない訓練だね」

「だから前からそう言ってるだろ。小春にはこの訓練でも拘束具を念のため付けるよう忠告されてるが……初の夜間訓練で盛大に転ばれても困るしなぁ。夜は外すか?」

「心配しないでよしろさき。私は転びなんかしないよ?他の人と鉢合わせたらイヤな噂が広がりそうで怖いし、ちゃんと付けてよね。あ、ごちそうさま。今日のも美味しかったよ」


 空になった弁当箱に蓋をして、それを小春は城崎に渡した。受け取った後者の研究員は「それもそうだな」と言葉だけ返す。


「大分自信がついてきたみたいで良かったよ。しかも……あんなに嫌がってた拘束具を自ら志願するだなんて、小春も立派になったな」

「えへへ〜うん。えらいでしょ?」

「ああ、偉い」


 にこにこと微笑む小春に優しく頷く。


「ね、なら頭撫でてくれる?」


 城崎はぶふっと音を出して吹いた。今回はまだ何もしていないのに、報酬をねだる彼女が面白かったのだ。


「笑わないでよ〜。ね、ね。ねぇってばぁー」

「あれだ、からあげで前払いしたってことで」

「む。じゃ、からあげ返そっか?」

「もう君の腹の中だぞ。受け付けんからな」

「むぅ」


 欲しかった報酬が来ないと分かると、彼女は頬を膨らませ、一気に不機嫌そうに低く唸った。彼女とのこれまでの付き合いで、あくまでもそれが本気の怒りの表現ではないことをお見通しの城崎は、小さく笑った。


「夜間の訓練が上手くできたら撫でてあげるから。ほら、訓練行くぞ」

「……はーい」


 小春は自らリードの先端を首輪のフック部にかけ、飼い主の持ち手の方を城崎の左手に握らせる。城崎は、それを自分の左腕にあるリードを固定するためのサポーターに似た装着器具の部分にかけて鍵をする。

 次に彼女の首輪とリードの接続部にも鍵をかける。今度は、視覚障害者の飼い主になりきるため、専用のアイマスクを白衣のポケットから取り出すと自身に装着した。



 中庭まで誘導してもらうことにした城崎は、盲導犬と化している小春に従って歩いていた。


「しろさき。今から外に出るよ」


 がちゃ、と前方から扉を開ける音がした。小春が中庭に通じる通路を確保したのだ。


「分かった。お願いする」

「うん」


 小春の歩くテンポが落ちた。一人と一匹の歩調が乱れていく。城崎がおそるおそる歩くようになったのもあるが、廊下の煌々たる照明の支援が無くなって、不安になった彼女の足の動きが段々と緩慢になったからだ。


「小春。ゆっくりでいいから」

「わかったよ。少しペースを落とすね。ごめん」

「犬人でも暗いと見えないもんか?」

「慣れれば大丈夫になると思うよ」


 犬は、人間と違って網膜の真下にタペタムと呼ばれる反射細胞の層がある。これは網膜で吸収しきれなかった外部からの光を再吸収して視神経に伝える役割を果たしている。タペタムは再吸収の際に外にも光をやや放出するので、犬の目は夜に光がまっすぐ入ると黄緑色に輝いて見える。夜間に犬の写真を撮ると目がぎらりと光って映るのはこのためだ。


 城崎は疑問に思った。犬人──小春を写真に撮った時、彼女の目は光って映るのだろうか。

 眼球や周辺の視神経の細胞構成は、流石にそっくりそのまま人間ではなかったはずだ。遺伝子の拒絶をなんとか誤魔化すため、不要な器官や細胞も多少ついてるとも聞く。


 外に出て中庭へ向かう道中、一人と一匹は鳴り止んだひぐらしを名残惜しく思った。流石に日没から時間が経っていた。他に誰もいない道を歩く。施設の建物の方はというと、寝静まっているように物音ひとつしない。

 整備された施設の歩道には間隔をあけて定点的に電灯が立っており、城崎はアイマスク越しではあるものの、仄かに光が頭に当たったことが分かった。


「……小春」

「なに?」


 名前を呼ばれて振り返る小春の気配がした。


「僕の顔が見えるか?」


「うん……見えるけど?」

「そうか。いや、気になっただけだ。案内を頼むよ」

「変なの」


 小春はまた歩き出す。電灯という好条件下ではあるが、彼女は闇夜に慣れたようで、いつもの盲導犬の訓練の時と同じように歩いている。


「……小さいけど段差あるよ。しろさき」


 城崎より数歩先を歩く小春はそう助言した。ざ、ざ、ざ、と彼女の足音。芝生に立ち入った音。城崎は、中庭の中央に広々と構える芝生のゾーンに到着したことを悟った。


「ありがとう。ひとまずお目当ての場所に到着した感じか?」


 城崎は靴の裏から伝わる芝の感触に薄く笑う。


「そうだよ。着い──」


 小春の声がそこで途切れた。

 城崎が「どうした」と投げかける。


「……しろさき、ちょっとだけ訓練のことはいいからアイマスク外してくれない?」

「え。何かあったのか?」

「ふふふ。いいから。ほら早く!キレイだよ?」

「綺麗?」


 ──何のことだ?


 城崎は言われるがまま訓練用のアイマスクを外した。視界が暗闇から回復すると、小春の後ろ姿がそこにあった。

 彼女は上を仰いでいるようだ。屋外で何を見上げる必要が……と懐疑的になる城崎だったが、彼女に導かれるように視線を上げた。眩しくはなかった。そこには目を疑うほど茫洋ぼうようとした夜空が輝いていた。


「……おお、これは凄いな」


「ね?キレイでしょ」


 暗い宇宙と、そこに浮かぶ幾万の孤独な星々が、地表のちっぽけな一人と一匹のことを眼下に捉えていたのである。

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