21話

 能登谷との腹の探り合いを終えて、城崎はひとり、冷房の空気と生暖かい空気が偏在する廊下を歩いていた。むわりと温い空気が顔を過ぎる。


 ──あの人、何を隠してるんだ。


 能登谷の思わせぶりな態度や言葉がどこか引っかかったのだ。樗木が催促した犬人担当の異動……。城崎は、おそらくあれは能登谷の差し金だと睨んでいた。

 今の小春は、担当の城崎に依存している感が拭えないものの、春先の彼女と比べれば、今の方が格段に落ち着きと従順な性格を獲得している。そのことも報告書に細かく書いて提出しているため、上層部も小春の成長を心得ているはずだった。

 それなのに、城崎へ異動の話をチラつかせている。これは一体どういう事なのだろう。


 ──甘い物でも食べたいな。


 城崎は口が寂しくなる。

 最近、彼の身体は考え事をすると糖分をやけに消費するのか、甘い物を所望するようになっていた。たまに小春にする餌付け的行為で、彼自身も砂糖の入った食物を口にする機会が増えたのが原因だった。

 デスクにいた能登谷が食べていたアイスキャンデーの存在を思い出す。ドリームボックス内の数少ない売店にあっただろうか。



 小春の部屋に戻ると、彼女は団扇を振り回すように大きく扇いでむさ苦しい冷涼を得ていた。その様子に、城崎は突っぱねるように苦笑する。


「戻ったぞ。余計暑くなるだろ、そんなんじゃ」


 そう言って、持っていたアイスの片方を小春に渡した。小春はきょとんしながら受け取った。


「おかえり、しろさき。これは?冷たいね。氷?」

「何って……アイスだが」

「あれ?私の知ってるのじゃないよ?小説だとさ、白くて柔らかくて、ぐるぐる巻きの食べ物って書いてあったような」

「それはアイスクリームだろ。これはアイスキャンディー」

「よく分かんないけど、そうなんだ?ありがと、しろさき。いただきます」


 小春はアイスの薄い包装ビニールを破りながら礼を言った。


「おう」

「んん、おいひい」


 アイスキャンデーにかぶりつき、小春はしゃくしゃくと音を立てる。彼女は一口食べる度に犬耳と尻尾を嬉しそうに揺らした。メトロノームや端の金属の球が外に弾かれ合う振り子と同じで、規則的だが、それらには劣らず素早く躍動感がある。

 城崎も誘われるようにビニールを破って、アイスを頬張る。


 以前、ドーナツを彼女に食べさせた時の光景が城崎の頭の中で鮮明に映った。文字の世界でしか見たことのない食べ物に目をきらきらと輝かせる、いたいけな少女が可愛らしかったことを彼は強く覚えている。訓練の度にちょっとした甘いスイーツを与える度、記憶の奥底に眠るシロの姿と彼女が重なったことも。シロも懐き始めてからは、幼い頃の城崎が家から持ってきたおやつをまるで自分の命の全てであるかのように喜んで食べたものだ。


 小春はアイスも知らなかったのか、と城崎は反省する。

 試験に合格させることだけを念頭に置いていたが、彼女はもっと早い段階から外のことを知りたがっていた。施設の犬人研究の規則違反にはなるが、積極的に色々な物を食べさせたり、外のことを教えた方が良いかもしれない。彼女の精神衛生にはきっとそれが一番だ。なにせ、外の世界が悪いことばかりじゃないと教えなければ、試験に対する彼女のモチベーションも霧散してしまうだろうから。けれど、と城崎は考えを一旦止める。

 今の小春は、城崎以外には心を依然として閉ざしたままだった。飼い犬としてはいいかもしれないが、いざ犬人を必要としている第三者に小春を譲渡した時、彼女が本来の役目を果たさなければ、訓練は全て水の泡となる。その時に殺処分の話が再び浮上しない保証はない。


 第一、犬人には寿命がある。そしてそれは犬と大して変わらない。人工生命体故の短い命の時間は、いつか事切れる。

 試験が無事に終わって、小春の処分の件がなくなったとしても、生き残った彼女もいつかは死ぬ。誰だって最期は死ぬのだ。


 ──その時がきたら、僕はどうするんだろう?


「僕は──」


「……しろさき?」


 我に返った城崎は、ぎょっとしたように小春の呼びかけに反応する。

 手元に冷たい液体の感触。目をやると、持っていたアイスが少しずつ溶けていて、火山を下った溶岩のように親指の付け根に垂れていた。小春が目の前に立っている。彼女はアイス棒を手にしていない。早くも食べきったのだろう。


 城崎は考え事でぼんやりとしていたようだ。彼の悪癖。現実に帰ってこれたような妙な安心感が湧き、ほっと息を漏らした。


「少しぼーっとしてたな、はは。ごめん」

「ちょうだい」

「ん、おい?」


 城崎がベトベトになった手をハンカチで拭おうとすると、小春は彼の手を舌で舐め始めた。


 血の流れを体感させる生ぬるさ。粘っこい唾液──。


 シロがテニスボールを咥えて持ってきて、自分に渡した時。シロが差し出されたおやつを食べ終えても、尚も自分の手に顔を埋めていた時。城崎の中で、それらの記憶がばっと克明に蘇った。シロの舌の感覚。犬の体温、口の臭気、唾液の粘性。

 犬はよく懐いた人を舌で優しく、そして勢いよく舐めるのだ。


「止めろっ」

「きゃっ……!え、え?しろ、さき?」


 唖然とした城崎はすぐに手を退けて小春を叱る。


「こら!汚いだろっ?止めなさいっ」

「あっ……!ごめんっ。気づかなくて」


 ぺろりと舌をしまって、視線を下げる小春。

 城崎は初めて彼女のことを疎ましく思った彼女は、シロに似すぎていたのだ。単純にシロの代替にするにははばかられるほどに。


 今だってそうだった。強く言い伏せると、かつてのシロは罪悪感たっぷりに潤んだ瞳で城崎を見上げたものだ。それが今の小春にぴったりと重なる。

 城崎は喜んでいいのか迷った。シロの代わりとして彼女と接すれば、自分は幸せになれるはずだと確信していたからだ。それは自分の方が小春に依存することと同義だった。どこかで望んでいた事なのに、これを受け入れるべきなのか迷った。気を取り直し、城崎は小春を眺めながら、ため息混じりに言う。


「すまん……びっくりしてさ。その、今のは小春が汚いんじゃなくてな、僕の手がって意味だからな。他人の手を舐めるのってのは……あれだ、行儀悪いだろ?」

「ううんっ。しろさきの手、汚くなんかないよ?美味しかったよ、溶けたアイスも」

「そういう問題じゃないっ」

「……ごめんなさい」


 また強く言ってしまい、城崎は自分に嫌気がさした。


「……仕事が溜まってて疲れてるんだ。ごめんな。疲れてると大人はな、イライラするんだ」


 椅子に深く腰掛けてアイスの残りを食べると、城崎は息をついた。


「しろさき、その。私、なにかできるかな?しろさきの疲れを取るの、どうすればいい?」

「小春。その気持ちだけでいいよ」

「うん……そっか」


 会話につまる一人と一匹。

 城崎は何か彼女に話があったのでは、と考える。アイスではなくて──。


「そうだ」


 そう切り出したのは、城崎だった。


「来週からの訓練の話だけどさ、前半の時間は座学、後半は実践の訓練ってことで進めるから。そのつもりで」

「……前半?午前中ってこと?」


 小春の声は少し上ずっていた。久しぶりに担当の研究員に怒られたからか、緊張している様子だった。


「実は来週、仕事の時間がずれるんだ。さっき上司に許可を取ってきた。前にもあったでしょ?時差出勤ってやつ」

「あったね、一時間しろさきが遅れてここにきたこと」

「そう、あれが今度は四時間ずれるんだ。夜間の訓練をしてみようかなって思ってて」

「え、四時間も?」


 素っ頓狂な声を上げて、小春は尻尾が逆立つように動いた。


「うん。それで、午前中は僕はいない。始業は午後一時ってことになるかな。だから……時間的に昼食、悪いんだけど一人で食っててくれ。僕も家で食べてから来るから」

「それって……しろさきの弁当が来週は食べられないってこと?」

「そうなるね。そんなわけで来週いっぱい、昼食は糧食で我慢してくれ」

「えぇ〜……そんなぁ」


 小春は失望したように暗い表情になった。さきほど理不尽に叱ってしまった手前、城崎は良心の呵責に苛まれた。彼女の機嫌をなんとかしなければ訓練にも支障が生じるかもしれない。


「分かったよ、小春の夕食の弁当は今までと同じで用意するから。これでいいか?」

「えっ……本当っ?いいの?しろさき、お仕事で疲れてるんじゃないの?」

「いいんだよ。子供はそんなこと気にすんな。ちゃんと持ってきてやる。約束だ」

「わぁーいっ!やった、それなら問題ないね。ありがとうしろさき!私ね、しろさきのお弁当大好きなの!」


 喜怒哀楽の表現が大袈裟な小春のガッツポーズを見て、城崎はまたも安堵の息をもらしたのだった。

 子供らしくていいな、と彼は思った。しかし、この状況を客観的に見る人が外部にいたとしたら、過去の思い出である死んだ犬に囚われ続けて周りにあたる自分と、生きるために奮励努力し、ペアである研究員のことを労う彼女のどちらのことを子供と思うだろう、とも自嘲気味に考えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る