20話
数日後、介助犬の訓練もこなした小春に、更に難易度の高い訓練を受けさせようと考えた城崎は夜間訓練を思いついた。
夜間の視界が悪い外での歩行や、停電時を想定した難度の高いものだ。飼い主が聴覚障害を抱える設定での訓練は何度も行ったが、それがもしも夜間の外だとしたら飼い主共々、小春も思うように身動きは取れないだろう。そうしたケースを前提にした実りのある訓練だ。だがその性質上、従来の勤務時間である昼間には行えない。
そこで、四時間もの時差出勤を上司に申請するため能登谷のデスクに赴いた。てっきり不在かと考えていたが、体格の良い中年男性の彼の姿があった。いつも彼は上層部の合議とか、他所の研究所への訪問などで留守にすることが多く、城崎が彼と直接会うのは久しかった。
最後に面と向かって話をしたのは、春頃に小春が脱走した際の事情聴取の時。それ以降は電話や書類越し、または第三者を介した仕事のやり取りぐらいだった。
珍しく暇そうだった能登谷は、アイスキャンディーを食べていた。部屋の冷房は寒いぐらい効いているが、冷やし足りないのだろう。人間は動物よりも体温調節が下手くそだ。
何枚かの書類を持参して、自分のデスクに現れた城崎を見るなり、能登谷は苦笑した。
「何の用だ。城崎?俺の素晴らしい昼下がりに仕事の話じゃないだろうな」
「いえ、その素晴らしい昼下がりに仕事の話です。残念ですが」
城崎は能登谷の苦笑には同じ表情で応じたが、皮肉っぽさを全く含ませず淡々と返す。
彼から書類を手渡された能登谷は薄く笑う。
「……時差出勤。それに四時間もねぇ。期間は来週いっぱい……あくまで出勤が遅くてもいい代わりに帰るのが遅くなるだけで、仕事に残業代はつかないことぐらい、もちろん知ってるよな?」
「承知の上です」
「ふぅーん。なぁ、城崎って結婚してるっけ?」
「いえ」
「あ、そうだったか。いやなに、たまにいるんだよ。終業時間を遅くして、家族が寝静まった頃に帰宅したいっていう情けない大黒柱が」
能登谷はにたりと表情を歪めた。おそらく、自虐だろうと城崎は思った。
男女の雇用均等化と女性の社会進出が大幅に推進したとはいえ、まだ中年層より上の世代では仕事一本で家庭を顧みず、妻子から腫れ物扱いされている家長はいるにはいる。能登谷も似たようなものなのかもしれない。
彼のような「お父さん」は戦後の高度経済成長期によくいたが、研究者という職業に限れば仕事熱心な気質の人間が大半なので、この風潮が残留している節がある。それは『犬の殺戮』後の世界でも変わらない。
「許可して頂けますか?」
「おう」
能登谷は首肯した。書類に手早くサインだけして、ひらりと城崎にそれを返却する。
「別にいいけど、お前、本当にあの……F型の204?あの例の個体を今年の秋の試験に合格させる気なのか?」
「はい」
きっぱりと返事する城崎。彼のことを能登谷は頬杖をついて腑抜けした目で見ている。アイスキャンディーは既に平らげたようで、棒だけが皺の目立ち始めた手に握られていた。
「お前、ほんとは
「え。はい?」
「悪かったとは思ってるんだぞ。ドリームボックスに来てから直ぐに雑種、しかもお墨付きの問題児なんかの担当にされて……犬人研究者としての実践は今回が初仕事ってのに」
話の先が見えない城崎は、無言で彼を見下ろしていた。
能登谷は頬杖を解き、椅子の背もたれに思いっきり重い身体を委ねる。そのままの姿勢で天井を仰ぎながら彼は続ける。
「面倒なことに研究職ってのは自由そうに見えても案外そうじゃない。革新的すぎる研究論文を発表したり、前例のない手法をとる異端児は学閥から見放されるのがオチだ。で、研究費も機材も論文とかの根回しとかもしてもらえず、しまいには首を吊るか研究自体を辞める。俺はそういう奴を何人も見てきている。ま、だからつまらない研究をして周りの反感を買わず、媚びへつらってセコセコと俺はこの研究所でそれなりのポストを得てる訳なんだが……」
「一体何の話です?能登谷さん」
「まぁ聞けよ。俺は心配なんだ。城崎がそうなっちまわないか」
「媚びへつらってセコセコと研究所でそれなりのポストを得るかもしれないことが?」
「違うな。俺が心配してるのは、お前が周りから完璧に孤立して、研究を辞めてしまうんじゃないかってことだ」
「能登谷さんがそう言われるのは意外ですね。てっきり僕がここに転属してきて周りから浮いてるところを上手いこと利用し、204の担当っていう貧乏くじを引かせたとばかり考えてましたけど」
「やっぱぁ恨んでるじゃないのー……俺のこと。悪かったって。ゴメンね、ほんとさぁ」
城崎が
あくまでも、情緒不安定で誰も寄りつかない不良品の問題児がいると聞かされ、手が空いていた新人の城崎が強引に押しつけられる形で仕事が始まったのである。
元いた研究所は犬の研究という点では変わりはないが、犬人のデータを犬に照らし合わせて、犬と人間を宿主とする──かのウイルスの解析をする仕事が主だったので、動物行動学を専門にしていた城崎にとって肩身は広いものではなかった。そこで犬人研究を担うドリームボックスへの異動の話があがり、ようやく自分の本業が出来ると息巻いていたところ、いざ飛ばされると施設最凶の攻撃的な問題児を任されたときた。
城崎からすれば、
当初の城崎はこれを散々恨めしく思っていたのだが、いざ小春に出会うと彼女はかつての愛犬と似た犬人だった。なので、城崎はこの仕事を嫌悪する反面、後々になって自分が割り振られたことに感謝もしていたのだ。
「気にしてませんよ。仕事ですから」
「ならいいんだが。話を本題に戻そう。実際のところちょっとどころか、めちゃくちゃ拗ねてるんだろ?」
「拗ねてる、とは?」
「この時差出勤の話もそうだ。報告書も目を通してると204に対してすんごく真剣だなって思ったんだよ。樗木や他の奴らからも聞いた。普段も大分熱心に教育してるらしいじゃないか。だからもしかしたら、城崎は俺たちへの腹いせってか、嫌味で204を優良個体にしてやろうって奮起してるんじゃないのって考えにたどり着いてな」
「拗ねてるというのは、なるほど……つまり能登谷さんは、僕が周りへのくだらない復讐のためだけに今日まで真面目に仕事していたとお考えで?」
城崎は、小春の生い立ち、愛犬のシロとの思い出、そして自分の犬に対する姿勢そのものを貶された気がして内心苛立った。それが伝わったのか否か、能登谷は慌てた様子で手を振った。
「いや、うん、違うぞ。これはあくまで単なる憶測だ。それに、理由はどうあれ真剣に仕事してるなら誰も文句は言わんだろう」
「そうですか。ではこれで」
「あっ。おいおいまだ話は終わってないぞ」
退室しようと城崎が短く挨拶したが、踵を返した彼を能登谷が引き止めた。
「なんですか?」
「お前が腹いせに無理して頑張って仕事してないってのは、今ので分かったが……最近のお前、なんか必死じゃないか?焦ってるっていうか」
「……必死にもなりますよ。204の殺処分を回避するには、なんとしても今年の試験に合格させて、不良品じゃないことを証明しないといけませんから」
「それならいいんだけどね。言い方は悪くなるが、ありゃ雑種だ。城崎、たとえ不合格になったとしてもそれはお前のせいじゃないから」
その物言いに、城崎はまたカチンときた。
思えば小春の担当になった際、応接室にいた引き継ぎの男性職員も、廊下で立ち話した樗木も、同じことを口にしていた。
「雑種」に対する険のある認識のことだ。
「能登谷さん。雑種の犬が純血種よりも劣っているって話はデタラメですよ。なんの科学的根拠もない。本来の犬だって、雑種の方が感染症にかかりづらいし血も健康です。むしろ犬種に拘りすぎるが故に近親交配を繰り返している純血種の方が生物としては劣っています」
「どうだかな。俺もその話は何度も聞いたことあるが、それこそ科学的根拠が乏しい。第一、犬人は犬人っていう生物が性交して生まれる世代交代型の生物じゃない。人間があばら液から生み出した人工生命体だ。ベースとなる遺伝子は既に用意してあるものだし、一般に純血種とされる個体だって、言ってしまえば人間と犬の雑種に過ぎない。ただでさえこの両者を結びつけるだけでも技術的も倫理的にも無理が重なってるってのに、何種類も犬の遺伝子を無理に組み込んだ雑種が問題児になるって考えても不思議ではないだろ?実際、200番シリーズで一番の不良品は、雑種の204だ。その前の180番も190番シリーズも、みんな雑種は総じて未完成に終わったしな」
城崎は押し黙る。能登谷の言い分もそれなりに筋は通っているが、心の中で納得できない。雑種だからなんだと言うのだ。
そもそも、彼は雑種という言い方が嫌いだった。アメリカ人と日本人のハーフの人のことを「雑種」と言おうものなら、人権侵害だとか世間は騒ぎ立てるくせに、犬にはそれが許されるとは一体どういう了見なのだろうか。
雑種に対する不信感のようなものは今も昔も拭えない。雑種は見た目が汚いとか、頭が悪いとか変な噂が広まって、結果としてショードッグで活躍する「美しい犬は純血種に限る」というイメージが固着した。結果、ショーで目立つような犬種の保持として、近親交配が繰り返され、犬種という幻は存続した。しかし本来の健康な血は途絶えた。
犬由来で猛威を奮った例のウイルスだって、それが原因なのではないか。
昔から城崎の頭の中には仮説があった。人間による交配が続いて犬の血があまりに近くなりすぎ、遺伝的多様性が激減した結果、世界規模で犬を温床にした感染症が広まったのではないだろうか。不衛生だった野良犬のシロと接していても、自分が感染症に罹患しなかったのはシロが雑種で、飼い犬に多い純血種よりも血が健全だったからウイルスを持っていなかったのではないだろうか、とも。
人間の「可愛らしいモノが欲しい」という穢らわしい欲望とエゴの結果、犬は様々な交配による改良がなされ、改良が終着点に行き着くと、今度は同じ犬種同士を交配させて犬種という幻影を保持し続けることに精を出した。
例えばブルドッグは、元は闘牛用として開発された犬である。逆三角形のボクサーのようないかつい体格も、潰れたような鼻も、噛んだら死ぬまで獲物まで離れないという獰猛な性格も、すべて牛との
人間は可愛い犬を手に入れるのなら、親同士の近縁なんてどうでもいいらしい。ひたすらに可愛さを追求する。そのためなら、高齢で体力のない親犬に何匹も際限なく子犬を産ませる。それが遺伝子の弱い犬でも構わない。
犬と人の歴史が如実にこれを証明している。人はあまりに犬という友人を愛し過ぎたが、同時にあまりに残酷になり過ぎた。
「長話になったな、悪い悪い。とにかく、気楽にやれってことだ。204は雑種だ。たとえ殺処分になったとしても誰も恨まんし、誰も咎めん。初仕事の城崎なら……実績にだって残らないかもしれんしな」
「ここだけの話にしてくれますか」
「構わんが、なんだ?」
「何日か前、他の犬人の担当に移らないかと樗木さんから提言されました。あれは誰の差し金ですか?」
能登谷ははっとしたように視線を上げた。
「城崎。俺はな……204にあんまり肩入れするなと言いたんだ。それだけだよ」
その後何も言わず、城崎と能登谷は対峙するように見つめ合った。少しして、能登谷のデスクにある固定電話の内線のコール音が部屋に木霊した。彼は受話器を持ち上げる。
「はい。能登谷ですが──。はい。あ、ええ……左様ですか」
その声色はもはや、城崎が入室してきた時のような柔らかで暇そうな中年男性のものではなくなり、いつも仕事をしている時の彼のものに切り替わっていた。
それが自分へのゴングだと悟った城崎は、能登谷に軽く会釈して退室していった。
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