19話
「小春。今から言うように打ってくれ」
七月に入ってから、一人と一匹の訓練は徐々に本格的なものになっていた。
今は午前中に盲導犬と聴導犬の歩行補助の訓練を一通りこなし、午後からは介助犬の訓練をするスケジュールだ。特に午後の方には力を入れている。
介助犬──身体障害などが理由で日常の動作が困難な人間を様々な面でサポートする犬だ。
簡単そうに見えてもやることは多岐にわたる。本物の犬とは違って、犬人は手が使えるので、飼い主の着替えや洗顔などの日常の基本的な動きの補助も犬人の役目である。盲導犬、聴導犬などよりも、より人間の生活に溶け込まないといけない職種とも言えるだろう。
試験の事前に提出するプロフィール表は相変わらず埋まっていないが、小春はおそらく介助犬になるだろうと城崎はかねてより考えていた。彼女は人を助けていることに実感が湧きやすい役割の方が良いだろう、と近頃の訓練を監督していて思っていたのである。
「うん。なんて打つ?」
現在の城崎は交通事故に遭ってしまい、利き手と両足が上手く使えないという設定。事故したばかりの人間という立ち位置で、小春に介助犬の訓練を模擬的に行っているのだ。
利き手が怪我をしていて機能しない
「犬人の行動原理を本物の犬と単純比較することに意義があるようには見えない……だ」
「わかった」
小春は、カチャカチャと音を立ててキーボードに指を躍らせた。ピアノ演奏のように美しい佇まいではないものの、きちんと文字は打てている。
まだ小春はキーボードの文字列を完璧には記憶できていないので、時折視線を画面から伏せる時があった。その目は真剣だった。最近の彼女は、城崎が目を見張るほど真面目に訓練に受けていた。
「終わったよ、しろさき」
「よし。次……犬人の基礎となる身体の構成割合については様々な憶測や仮説が立てられているが、殆ど人間と言って差し支えない、だ」
「えーと……基礎、ほとんど……はい、できたよ」
「次。犬人の特性とは人間の身体上の欠陥構造とも言える部位を犬の優れた器官で補い、その特性を引き出すという点にある──」
「うん。ええと……欠陥、補う、と……。大丈夫だよ」
「よし。じゃあ少しペースを速めるぞ」
城崎は朗読するように話しては途中で止める、という語りを繰り返す。小春は彼のその言葉の羅列を難なく打ち込んでいく。
その後も研究理論の序文が画面の中に紡がれていく。
「……以上」
「ちょっと待ってね……よーし。終わったよ!しろさき」
小春は真剣な眼差しを緩め、ぱっと明るい表情で顔を上げた。
車椅子に乗る城崎は上半身を前に傾けて、パソコンの画面を眺める。そこに打ち込まれている文章に間違いがないか確認する。文字はもちろんのこと、変換ミス、句読点や改行などの細かいところにも打ち間違えはなかった。
「おお、よくできたな小春。問題なかったよ。完璧だ。その文章のデータ、ちゃんと保存してくれ」
「はーい」
マウスを操作し、保存のアイコンにカーソルを合わせてクリックした小春は、後ろにいる城崎へ振り返った。
さっきまでの真剣な雰囲気や態度はどこへやら、一気に愉しげな年頃の少女にもどっている。城崎はその様が愛おしくて苦笑した。
「ね、ね!しろさき、私ちゃんとできたよね?」
「ん?ああ、できたな。この調子で次も頼むぞ」
車椅子に座る城崎は、左手を軽く挙げて小春を褒める。しかし彼女の方はそれでは納得しないらしい。
「だよね?だから、その。前みたいに頭……撫でて?」
小春は城崎にぴったりと身体を寄せた。
車椅子から身動きのとれない城崎は逃れる術なく、彼女に密着される。
城崎の視線のすぐ下には、ぴょこぴょこと奇妙に動く犬耳、それが生えた頭。根元の白い髪が耳につられて揺れている。そこから更に下へ目を滑らせると、上目遣いでこちらをまじまじと見つめる少女の青い瞳が待ち構えていた。
「さっきも撫でただろ……」
しかたなく城崎は、辛うじて使える設定だった左腕を肘掛けから上げ、抱きかかえるようにして小春の頭に手をやった。荒っぽく雑に撫で回す。くしゃくしゃ、という擬音が似合うほどに。彼女は城崎にこうされるのがたまらなく好きだ。
「にゃはー。うえへへ〜っ。しろさきにこうしてもらうの、幸せだなぁ」
「……そうか。でも猫じゃあるまいのに、“にゃ”はないだろ」
緩みきった彼女の目元や頬を見て、城崎は呆れたように言う。
「えーいいじゃん。楽しいんだから」
「にしても考えものだな。小春。将来、君が誰かのサポートをする犬人になって外で暮らすとして、いちいちこうして撫でるように要求するのか?」
城崎は怪訝に思っていた。最近はこうして、小春から事ある毎に報酬を求められることが多かったのだ。訓練が進むと甘えてきたり、撫でろとねだってきたりなど、多種多様に駄々をこねる彼女が不安だった。
そのあまりの熾烈さに、城崎はそろそろ規制を設けようかとも目下検討していた。しかし心のどこかでそれが嬉しい自分がいたことは彼にとって認めたくない事実だった。
「なに言ってるの?私はしろさき以外に何もお願いしないよ。だって私の担当は、しろさきなんだもん」
首を傾げて、小春はさも不思議そうに言った。
「あのなぁ。そう言われると困るよ。僕が君の担当でいられるのは、あくまでドリームボックスにいる間だけだぞ」
「……えっ?そうなの?」
「そりゃそうだろ。僕は身体が不自由ってわけでもないし」
城崎は右腕を動かし、足をもぞつかせた。
「ならさ、しろさきの腕……折ってもいい?」
さらりと平気でとんでもないことを口走る彼女の額に、城崎は冗談めかしたデコピンをかます。そうでもしないと、本当に彼女が実行に移しそうで恐ろしかったのだ。
「いいわけないだろ」
「いでっ。でも、私しろさきと一緒にいたいよ。どうすればいい?」
「……小春。僕のことを慕ってくれるのは素直にありがたいし、嬉しいよ。でもなぁ、君にも未来がある。困っている人に寄り添って、人の幸せを助けるのが犬人の役目だ。もちろん、君自身に自分の幸せを追求する自由がないとは言わないけど」
「じゃあ、やっぱりしろさきの腕を折るよ。足も折る。それで、介助が必要になるよね?私が一緒にいてもいいってことにならない?」
「多分ならないだろうな。骨が折れただけで済んだなら数ヶ月で元通りだし」
小春は何度か瞬きした後、何か妙案を思いついたように口角を上げた。
「……眼球って元通りになっちゃうかな?」
「おい。小春、それは絶対に止めろよ」
城崎はドスの効いた声で彼女を制した。背筋に冷や汗をかく。車椅子に身体を預けていて、犬人の彼女に身体を密着されている自分の力では、この状況からの逃走は不可能だと城崎は承知していた。
もし彼女がその気になれば、僕のことを──。
介助がなければ生きていけない、惨たらしい自分の姿を予想した城崎はごくりと生唾を呑んだ。戦々恐々とする彼とは裏腹に、小春は頬を膨らませて大変不機嫌そうに顔を赤くしているだけだった。
「……しろさきの嘘つき。私のこと、見捨てないって言ったのに。ふんだ、針千本呑んじゃえばいいんだ、しろさきなんか」
背もたれと背中の隙間に手を回され、ぎゅっと力強く彼女にハグされる。それが八つ当たりのような力任せのものではないことに、城崎は彼女の鋭い言葉に隠された本意を読み取る。
城崎は彼女の頭をぽんぽんと優しく叩く。
「見捨ててないだろ?今だって、小春のために訓練させてたじゃないか」
「ううん。訓練して試験に合格して、処分の話が無くなって生き延びたって……しろさきと一緒にいられないなら、私にはなんの意味もないよ」
「小春……」
「嫌だよ。せっかくしろさきと仲良くなったのに。私、誰も信じられないこんな世界で、やっとしろさきと会えたのに。しろさきは私を捨てるの?ねぇってばっ……」
「ちょ、泣くなよ。落ち着けって。なにもそこまで言ってないだろ。ただ、いつかは君も自立しないとって話をだな……」
ぼろぼろと大粒の涙が小春の目から頬へと伝って、城崎の白衣へと落ちた。
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