18話

 その日の終業時刻になってから少し経って、小春の自室の扉がノックされた。

 中にいた小春は、報告書にペンを走らせる城崎の肩を叩き、音のしたそちらを指さして彼に示す。察した城崎が頷くと、小春は立ち上がって玄関までぱたぱたと小走りで急いだ。鍵を開けてドアノブに手をかけて押すと、外からむわりと温かい夏の空気が流れ込んでくる。それと同じくして一人の女性の冷たい視線が室内へと向けられる。白衣姿の樗木だった。

 部屋の奥から彼女を一瞥すると、城崎は耳栓を外した。


「お邪魔するね」


 聴導犬訓練のために音がない世界で過ごしていた城崎が数時間ぶりに聞いたのは樗木の声だった。報告書をファイルへとしまう。彼は努めて無表情で椅子から立ち上がった。

 玄関から引き返してきた小春がその背中に隠れた。白衣を掴むその手は以前よりも力任せではなくなっていたが、どことなく強かった。城崎以外の人間相手に緊張している様子だ。


「お疲れ様、城崎くん。204ちゃん。今日も訓練?」

「……そんなところ」


 気まずそうに城崎が返事をしてる途中、小春は何も言わずに彼の背中にくっついていた。樗木は苦笑して目を細めた。


「ごめん。私、怖がられちゃってるのかな?」

「気にしないでくれ。まだ人馴れしてないんだ、この子。それも含めての訓練さ」

「あ、そうなの……204ちゃん。こんにちは。少し前に電話した樗木だよ。覚えてる?」


 樗木の優しげな声にも小春は応えようともせず、城崎の背中に顔を埋めたままだった。


「204……?おい、挨拶ぐらいしてくれよ」

「……嫌」


 震える小春の声。彼女の気まぐれな性格が読めず、城崎はため息を吐いた。人見知りはまだ治らないらしい。

 その様子を眺めて、樗木は短く微笑んだ。


「城崎くん、今日の報告書、まだ能登谷さんのデスクに出してないんでしょ。話もしたいし一緒に行かない?」

「分かった。小──204、今日の訓練は終わりだ。また明日な」

「嫌っ」

「え?」


 背後にいる少女を引き剥がそうとする城崎だったが、小春は一向に離れようとはしなかった。白衣を掴むどころか、むしろ自分の担当者の身体に手を回して、しっかりと抱擁した。


「帰らないで、しろさき!今日はもっと一緒にいようよっ」


 公的な場や部外者がいる状況では、犬人らしく敬語と敬称を使えと念押ししていたが、小春は危機迫った面持ちで言った。突然の事態に城崎は戸惑う。


「はぁ?本当にどうしたんだよ急に。普段、僕はこの時間で帰ってるだろ?何をいまさら」

「いーや!嫌だって言ってるじゃんっ。帰らないでよ!しろさきっ!私と一緒にいてっ」

「痛いぞ。204」

「嫌!しろさきが帰ったら私寂しいよっ」

「204っ。痛いぞ。痛いって──おいっ。いい加減にしろ!」

「……あっ!ご、ごめんなさい……しろさき」


 犬人に渾身の力を加えられ、脆弱な人間の身体が激痛の悲鳴を上げ始めた城崎は、強い語調で彼女を叱りつけて制した。

 驚いたように慌てて拘束を解き、距離をとる小春。彼女の瞳は不安と悲哀で彩られている。それらは一心不乱に城崎へと放たれていた。


「今の君、ちょっと変だぞ?どうした。何か僕に言いたいことでもあったのか」


 城崎は小春の方へと一歩近づき、彼女に質問を投げた。樗木はその光景を見ていたが閉口したままだった。


「ちがうの。違うの、しろさき!ただ……」

「ただ?」

「明日もここに来てくれる?私と一緒にいてくれる……?しろさき、私を見捨てないっ?」

「当たり前だろ。試験までもう時間がないんだからな」


 仕事だ、の一言を口にしようとした城崎だったが、無意識に出た自分の言葉にやや呆れてしまった。彼は、自分が小春に肩入れしてしまっていることよりも、彼女の不審な言動の方が気に病んだ。


「……樗木さん、悪いけど先に出てて。この子と話がしたい」

「あ、うん。じゃあ……私、外で待ってるね」


 樗木に先に退室するよう促し、城崎は再度小春の方へと視線をやる。彼女の大きな瞳には涙の膜があった。鼻をすすって、腕で目を拭っている彼女はまるで親に怒られた子供のようだった。


「小春?」


 城崎は屈んで、小春と目の高さを合わせる。樗木が扉を閉める音がした。外にいる樗木には聞こえないように小声で犬人の少女の名前を呼んだ。


「しろさきっ!」


 小春はさきほどまでとは打って変わって、ぱっと顔を明るくした。勢いよく彼女は城崎に抱きついた。尻尾ははち切れんばかりに振られている。

 いつもと変わらない彼女を見て安堵する反面、自分との約束を破った彼女に何を言えば──それよりも、何を聞けばいいのか城崎は半ば混乱した。

 

「さっきはどうしたんだよ?樗木さんが困っちゃってただろ」

「うん、ごめんねしろさき。私……私ね。なんだか急に怖くなっちゃったの。しろさきが他の人と一緒にどこかに行ったきり、帰ってこないんじゃないかなって気がして……」


 途端に萎れる犬耳、動きを止める尻尾。小春の笑顔は凍りついていた。


「心配性だな。ここが僕の職場なんだし、そんなことあるわけないだろ」


 犬人の精神不安。人工的に生み出された合成人種の大多数に課せられた宿命。それは城崎にとって資料や文献で既知の存在だった。

 だが目の前の小春はそれとは若干異なるように思えて、城崎は釈然としなかった。少女の頭をゆっくり撫でると、彼女の腕を解いた。


「それに約束忘れたのか?人前では敬語を使うって。僕にも“さん”付けするんだぞ」

「忘れてないよ。しろさきとの約束だもん。でも、焦ってて……怒ってる?私、針千本のむ?」

「怒ってない。針も呑まんでいい。小春、焦ってたのはその不安からなのか?」


 小春はこくりと頷く。


「しろさきに、いざ204って呼ばれると……もう二度と小春って呼んでくれない気がして、私怖くて怖くて……!」

「もう泣くなって……」


 泣きじゃくる小春の肩に手を置き、城崎は彼女が落ち着くまで静かに待った。

 数分の後、ようやく平静をとりもどした彼女からそっと離れる。


「しろさき……行っちゃうの?」

「ああ」

「でもね、まだ胸のもやもやした霧みたいな気持ちが抑えられないの。だからそれが無くなるまで……待ってくれる?」


 小春は名残惜しそうに城崎の白衣の袖をぎゅっと掴んでいる。その手を優しく除きながら、城崎は微笑を浮かべた。


「……前にも樗木さんから電話があった時、小春はさ。今と似たようなこと言ってたよな」

「梅雨の時の?」

「そうだ。図書室からの帰り道。その時、そういう気持ちの名前を教えただろ?」

「嫉妬。やきもちのこと?」

「そうそれ。覚えてるじゃないか。今多分、小春の中その感情で溢れてるんじゃないかな」

「うん……そうだよ。しろさきが、他の人に盗られちゃうって思うと……悔しかった。怖かったし、憎たらしかったの」

「それは僕が?」

「しろさきも、あのおてきって人も……たぶん。ねぇ、しろさきってあの人のこと好きなの?」

「まさか」

「本当にホント?」

「樗木さんとはあくまで仕事。前にも言ったろ、大人には人間関係というものがある」

「でもでも、それってさ。やっぱりあの人がしろさきと仲良くなろうとしてるってことじゃ……?」


 城崎は、小春にかつて樗木が自分との距離を縮めようとしていると指摘されたことを思い出しながらも、首を横に振る。


「疑り深いな。仮にそうだとしても、僕は樗木さんとはそういう関係にはならないよ」

「じゃあ約束してくれる?ずっと私の傍にいてくれるって」


 小春は自信なさげに小指を前へ差し出した。無言でそれに同意する城崎。一人と一匹が絡める小指はやけに熱っぽい。城崎は指を解いた後、軽い空咳をした。


「小春が樗木さんに嫉妬する必要はないよ。だって僕は君の担当のなんだぞ。否が応でも君から離れられないし、もちろん離れるつもりもない」


 「君」が小春のことを指しているのかは城崎自身、曖昧だった。忘れられない愛犬の代理。あるいは犬人研究という仕事のパートナー。そのどちらなのか、もはや城崎には判断がつかなかった。

 そんな彼の心情を知ることもなく、小春は目を煌めかせて笑顔を浮かべた。どうやら彼女の不満を解消できたようだ。城崎は安堵する。


「そ、そうだよね!しろさきは私の担当だもんね。しろさきが私のこと捨てるわけないもんねっ。えへへへ〜嬉しいよっ」

「……そうだ。だから嫉妬なんて無意味なことすんな。じゃ、もう行くから。また明日な、小春」

「うんっ。じゃあねしろさき!また明日!」


 素直に見送る小春の頭をわしゃわしゃと乱雑に撫でて、城崎は彼女の部屋を後にした。

 部屋を出て、城崎はすぐ樗木の横顔が目に入った。彼女は小春用の糧食入れのポストの前で立っていた。彼女は横目で城崎を捉えている。その顔は、怪訝とも無表情とも言えない能面のようなものだった。



「それで……話って一体?」


 その後、自分たちの上司である能登谷のデスクへ報告書を提出し、人気のない廊下で立ち話をすることにした城崎と樗木。自販機で購入した缶飲料を開けもせず、後者は何か決心したような目つきで肩で息をすると、口を開ける。


「城崎くんさ、他の犬人の担当に移る気はない?」

「……なにそれ?」


 聞き間違え、もしくは自分の理解力の欠如からきた不穏な質問なのかと城崎は考えを何度も巡らせるが、やはり樗木のそれは好ましくないものの類であると結論づける。


「あのね、これは──」

「待って。それさ、誰の指示?能登谷さん?」


 樗木の声を遮って、城崎は彼女が誰の命令に従っているのか詰問する。


「ち、違うよっ。あくまでこれは私からの提案」


 意外な返事。城崎は腕組みして壁に背を預ける。手に持つ紅茶の缶から、ちゃぷんと液体が揺れる音がした。


「だとすると本当に意図が分からない。え、なに?なんで僕が204の担当を離れなきゃいけないんだ?」

「だって城崎くん、ここのところ最近あの子にすごく構ってるみたいだから。南棟の職員の間では変な噂もあるんだよ?204ちゃんに脅されてるとか……色々ね。ホントに大丈夫なの?私、すごく心配で──」

「仕事だ。204に構うのは当然だろ」


 いつになく喧嘩腰な口調になる城崎を見て、樗木は萎縮したように肩を下げる。


「こういう言い方は悪いんだけど、204ちゃんは実績にはならないよ」

「は?」

「だってあの子、来年の春には処分されちゃうんでしょ?今のうちに他の担当に移った方が、この先ドリームボックスでやっていくには城崎くんにとって都合がいいと思うの……ごめん。薄情な言い分なのは百も承知だよ。でも、私はまだ城崎くんと仕事したいって思ってるから」


 苛立ちを隠すように城崎は顔を片手で覆った。彼はため息をついてから紅茶を一口飲んだ。額の汗を拭い、樗木から視線を逸らした。


「僕の担当はあの子だ。それに処分はさせない。今年の模擬社会生活試験大会で合格させて、上層部に処分の件を撤回させる」

「……秋の試験に合格させれば、たしかに城崎くんは評価されると思うよ。でもね、あの子は雑種だよ?失敗作なんだよ?試験に合格できるわけないじゃない」


 樗木のその言葉によって、人間によって勝手につくられ、理不尽な理由で周りから蔑まれ、傷つけられてきた──出会った当初の小春の悲しげな顔が蘇った。笑顔のない彼女。尻尾もふらず、可愛らしい犬耳は他人の足音を警戒するためだけに立てられる。

 城崎がもう思い返したくもない、惨憺さんたんたる彼女の心の闇。


 ──それをこんな言い方で。


 城崎は自然と缶を握る手の力が強まった。


「言っていいことと悪いことがあるぞ」


 低い声で唾棄するように苦言を呈すと、樗木は硬直した。


「だ、だってそうでしょっ。これまでロクに担当がつかなかったのだって、去年あの子が試験に参加申請すらしてないのだって、城崎くんが担当になるまで放置されてたのも……全部、あの子が不良品だからよ。しかたな──」

「もういい。話の趣旨が見えない」


 我慢の限界が訪れた城崎は、紅茶を飲み干すと、空き缶を自販機の横にあるゴミ箱へ捨てた。


「時間も時間だからもう帰る。君の真意は知らないけど、僕は204の担当を離れるつもりはない。それだけは言っとく。もし他の人の指図だったなら、その人もそう伝えて」

「城崎くんっ……ごめんっ。待って。お願い、私の話を聞いて!あなたのためなの、この話はっ」

「うるさいな。前に話しただろ。僕は……っ。僕には犬しかいないんだ。犬を見限ってしまったら、ひとりぼっちになってしまう。それだけは御免だ」

「あっ……待ってよ!」


 樗木の呼び止めるその声に何も反応せず、城崎はその場から離れたい一心で廊下を走った。彼はロッカーに寄ることもなく、脱いだ白衣をまるめて持ち、駐車場へ向かおうと施設の廊下を走る。定時の帰宅時刻をとっくに過ぎているからなのか、城崎は誰ともすれ違うことはなかった。

 小学校の廊下を走った昔の夏の情景。それが霧吹きから生まれた虹のように瞬間的に表れては消えた。消毒液に近い研究施設特有の匂いと、夏の匂いが混じっては城崎の顔にまとわりつく。その空気の中には僅かに犬の香りも感じられた。

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