第3章 一人と一匹の夏
17話
“自分のイヌが死んだ後で、すぐに同じ品種の子イヌを手に入れるならば、年とったイヌの友人が後に残していった心と生活の中の空虚さをその子イヌが埋めてくれることを人は知るだろう”
──コンラート・ローレンツ『人イヌにあう』
*
梅雨が急速に終わりを告げて、気温が一気に上昇していた。本格的な夏の到来。窓から差し入る日差しは刺すように鋭かった。
小春は肩をすくめて、口を開いた。彼女はだらしなく机に上半身を溶かしたように預けている。木製の机の表面がひんやりとするのだろう。
「あっついね〜……」
城崎には聞こえなかった。視線を上げもせず、書類仕事にペンを走らせて片付けている。
「しろさきぃ?ねーねーってば」
小春は犬耳をぴょこぴょこ動かしたり、机をトントンと硬い爪で小突いたりもしたが城崎は反応しなかった。彼は今、聴覚障害者を演じるための高性能な耳栓を両耳に嵌めているために無音の世界にいたのだ。
以前の盲導犬の訓練は梅雨の間に幾度となく行われた。目の見えない視覚障害者のため、代筆する犬人というシナリオも想定されていたので、小春にその日の報告書を書かせてみようと思い立った城崎だったが、これがことのほか上手く出来たので、梅雨明けには聴導犬の訓練をしようという話になっていたのだ。
音のない職場での生活は二日目だった。音を求める城崎は、既に止んでいた雨の音がふと聞こえた気がして顔を上げる。その拍子に彼を正面に捉えていた小春と目が合う。
「あれ?しろさき、今は聞こえてるの?」
城崎からすれば、小春は口パクしているようにしか見えていない。
「ん。何言ってんだ?こっちに聞こえないぞ」
城崎はそう呟くように声を出すが、それが本当に発音できているのか自分の耳でも分からなかった。
「あれ?でも今、目が合ったし……」
「だから何言ってんだよ。暑いのか?」
「うん。暑いなって思ったの。しろさきは?団扇で扇いでよ」
小春が何を言ってるのか城崎には分かりかねたが、不満そうな顔をして彼女が手をパタパタと早く動かして涼んでいるのは、アイマスクをしていない今なら理解できる。
「犬人と言っても、犬と違って舌を出して体温調節しないからな。水ちゃんと飲めよ。あと団扇使え」
「……もしかして聞こえてるの?」
「だから聞こえねぇぞ。紙に書けって。手話は完璧じゃないだろ、僕たち」
城崎は書類仕事に戻るが、小春の方はというと腹を抱えて笑っている。彼女からすると、今の会話がやけに噛み合ってしまったようで、城崎が嘘をついて自分の事をからかっているのだと早とちりしたのだろう。彼女は勝ち誇ったように満面の笑みをしている。
「なぁんだ、やっぱり聞こえてるじゃん。しろさきのバーカ。やーいやーい!聞こえてるんなら怒ってみろーだ」
けらけらと笑いながら口を動かす彼女の姿に、城崎は懐疑的になった。
「おい、小春。しつこいぞ。筆談が嫌なら手話の練習でもやり直すか?」
声を荒らげる彼の異変を察したのか、小春は目をぱちくりした。彼女は自分のノートに城崎の万年筆で書き綴る。
『本当に聞こえてないの?』
『おう』
城崎は書類を横に退けて、メモ用紙にそう書いた。症状が初期以外の聴覚障害者の大多数が自由に発声できないので、代役の城崎も本番を見越して筆談で応じた。
『ごめんね。きこえてないふりして、私をからかってるのかと思った』
彼女は比較的素早く書くが、肝心の文字が汚くなっている。城崎は首を振って記す。
『もっと丁寧に書け。漢字も使いなさい』
『分かりました』
小春は少しむすっとした表情で万年筆を持ち直し、すらすらと喋るように書いた。
その万年筆はいつぞやに城崎を看破して譲ってもらった代物だった。筆記練習がひと段落ついた彼女は、使用を城崎に許可されていた。めきめきと力をつけ始めた小春の成長ぶりに城崎は楽しかったが、筆談は億劫だった。ゆったりとした音のない会話。意思疎通。実際に行うと分かるのだが、筆談というのはお互いにもどかしいものなのだ。相手を現実に前にしながら、ネット上のチャットでやり取りするかのような感覚に陥る。綺麗に文字を書いている間は相手のことを見れないからだ。だからお互い一緒にいてもどこか疎外感を覚えるものである。
その点、手話というものは優れている。腕を中心に上半身全体の筋肉を使うので、語弊を恐れず言えば声よりも体当たりになり、言葉の意味も強くなる。従って声による会話との差異は抑えられるのだ。
一人と一匹は座学の時に予め手話を勉強していたが、それでもまだ未熟だったので、聴導犬の訓練時は筆談の方が多かった。秋の試験では、おそらく手話もテストがなんらかの形であると思わる。
少々の間、暑いだとか今日の弁当の中身は何だとか他愛もない会話をしてから、小春は悩むように眉をひそめながらノートに万年筆を走らせた。彼女は開かれたノートを立てて提示する。
『ねぇねぇしろさき』
『筆記体っぽく書くな。ちゃーんと教えた通り、明朝体かゴシック体風味の綺麗な文字にしろ』
『違うよ。ほら、こうするとさ、なんだか文字の受け取り方と言うか……なんて言えばいいのかな。感情とか、気持ちの受け取り方も違ってくるんじゃない?』
へぇ、と城崎は素直に感心した。小春のそれは普通に面白い発想だった。
『なるほど。一理あるかもな』
『でしょ?』
『面白いのは認めよう。でもな、テストじゃそれがどう評価されるのか分かるだろ?』
『それはそうだけど……うぅーん。納得はできないよ。音のない人は、絶対に目に頼ることになるよね?だったら、手話を除いて目で見える声って次は絶対文字だよ』
『そうかもしれんがな。小春、そういやその文字の書き方、どこで覚えた?』
城崎はメモ用紙のページを切り替えながら、彼女の返答執筆を待った。
『本ってね、出版社や出版年によって文字体が全然違うの。柔らかい物もあるし、きっちり格式ある文字のところもある。いっぱい本を読んでるとそういうのも楽しいんだ』
城崎は彼女が本から学んでいることを再認識する。しかも内容ではなくて、「本」そのものだと来たから驚きだった。とても読書家とはかけ離れた城崎には無理な芸当だ。
『ここの図書管理室には本がいっぱいあるもんな』
『うん。だからね、しろさき。ありがとう』
『なんだ?薮、やぶから棒に』
城崎はその漢字を間違えた気がして、線を引いて消すと、ひらがなで続行した。
『
小春がさらりとその漢字を書いて見せてくる。城崎は面食らって、ばつが悪そうに項に手を回した。
『まいったな。筆記なら小春の方が上手だったか』
『えへへ。じゃあ今日のお弁当のおかず、しろさきのひとつ頂戴?』
『なんでそうなる』
『いいじゃん』
しろさき、は漢字にしないんだな、と城崎は思いながらも彼女に問い直す。
『何が欲しい?』
長考している様子ではないが、何やらしきりに万年筆の先を往復させている。城崎が小春の手元に覗き込む前に、彼女はノートを立てた。
『からあげ』
と、太字で書かれていた。
『インクの無駄遣いだ。止めなさい』
『そんなすぐ切れな』
小春はそこまで文字を綴ると、それ以降は万年筆からインクが出なくなって掠れたまま虚しくノートに空振りする。彼女のことを知的だと見直した直後にこれだ。城崎は肩を小刻みに揺らして笑った。
「それみたことか」
城崎が口に出すと、小春は「ご、め、ん」と分かりやすいように大きく口を動かした。
*
午後からは、一人と一匹は聴導犬の訓練としてドリームボックス内を練り歩いた。
盲導犬の時に比べれば、この訓練はあまり危険はない。城崎の視界は確保されているからだ。だが音による外部からの刺激というものは必ずあるので、小春には注意が求められる。可能性は限りなく薄いが、何らかの爆発音や異音などを聞き取れなかった場合、緊急退避できなければ命の保証はできないのだ。施設の敷地内は屋外でなければ車は走ってないので擬似的な再現が難しいが、外の社会では自転車や自動車が行き交う街路で聴覚に案外頼ることになる。試験ではそれらを忠実に模したコースがある。
つまり聴導犬の訓練というのは盲導犬の時よりも修練が詰めない分、落選個体が増えてくる。事実、四年前の180番シリーズの犬人は個人枠で参加した個体の三分の二が聴導犬の試験で弾かれている。
歩行中や移動中というのは、状況が状況なだけに筆談というのは不自由するものだ。手話は例によって両者が未熟なので、城崎が小春の肩を軽く叩いたりして、目配せなどで意思疎通を行うが、それだけではどうにもならない事がある。
城崎には身に覚えがあった。だからこの訓練中は彼はやや緊張していた。
二階、西棟方面への廊下を歩いているとそれは起きた。白衣越しに伝わる細かな振動。音は聞こえなくても訪れる恐怖。
──来たか。
そう、電話である。城崎の携帯端末に宛てられたものだ。仕事関係のものなのか、あるいはそれとも──。
おそるおそる端末の電源を立ち上げて画面を見る。着信はかの同僚・樗木からだった。城崎は出るか迷ったが、小春はそんな彼に不思議そうな眼差しを向けている。
この子に出させる訳にもいかないだろうし、と城崎は頭を悩ませた。試験のことを思えばこれぐらいのテストもありそうだったし、失礼の許されない上司相手にこの訓練をすると思えば、同僚であり同じ訓練の経験がありそうな樗木に小春の電話相手を任せるというのが妥当な線だった。
けれど城崎は、この前のコンビニでの一件から彼女と全く会話していなかった。彼女からの着信もなかったし、テキストチャットも皆無だった。それがこのタイミングで来たのだから、城崎にとってはたまったものではないだろう。
城崎は画面の「応答」に指を置き、横にスワイプしてから小春に渡して、電話に出るジェスチャーをとった。
頷きながら小春が出る。彼女の声は城崎には分からない。無論、電話の主の樗木の声も。白衣の裏ポケットからメモ帳を取り出し、城崎は小春にペンを握らせた。内容を簡潔に教えるようアイコンタクトすると、彼女はゆっくりと瞬きした。
「もしもし。しろさきですが」
小春は頭の犬耳に当てて出る。城崎は耳栓を外したくなる衝動に駆られた。彼女が何か失言をしないだろうかと心臓がはち切れそうになった。
「あ……あれ?その、城崎くん……だよね?間違えました?」
小春はメモ帳に綴る。
『しろさきかどうかきいてきてる』
城崎はそれを見てメモ帳に返す。
『そうだと答えて。204だと自己紹介。訓練中だとも』
それを見て、小春は少し緊張した面持ちで口を動かす。
「間違えてないです。これ、しろさきの携帯電話です。私たち、今は訓練中で、しろさきは今喋れません。耳も聞こえません。なので、えと、私が代わりに出ています。私は実験個体の204です」
「あ……204ちゃんだったのね!私ね、樗木です。城崎くんのお友達。話がしたいから少しだけ訓練を止めてくれないかって聞いてくれる?」
城崎は小春が樗木の言葉を書くのを制止し、メモ帳に走り書きする。『ご用件は?』
「樗木さん、ちょっとだけ待っててください」
「ふふふ。わかった」
彼にものを伝えたい小春はおどおどしながら、ペンを握ると急いだ。『おてき、訓練をやめて電話でろっていってる』
城崎はむず痒い思いで、『訓練のリアリティがなくなる』とメモに綴った。小春はそれに習って樗木へ伝える。
「しろさき、出たくないって言ってる」
「……なんでかしら?」
そのまま小春がメモに書くと、城崎は怪訝な顔つきで小春を見つめた。彼女は怖くなり、下唇を薄く噛んで樗木へ答えた。
「訓練のリアルさが弱まるからって」
「そう。なら今日の帰りに会えないか聞いてくれる?」
「わかりました」
小春はメモ帳に『帰る時に会おう?』と記した。城崎は舌打ちしそうになった。渋々ではあったが、少しの間を空けてからぶっきらぼうに頷いた。
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