16話
雨は一向に止まず、水を潤沢に含ませた空気も床にへばりついて消えようとはしなかった。湿気で摩擦の減った廊下。目が見えていても転ぶことがあるというのに、今の城崎には酷な移動だった。いざ小春の部屋を出立してから十分ほど経っている。目的地は南棟の屋上出入り口付近と定めて、施設の階段を悶々とした足取りで上っていく。だが城崎は、既に現在地を把握できていなかった。
途中で何度も
手すりを持って、一段一段踏みしめるように歩く。自分の手が感じる物の感触、それと小春の気配だけが暗い視界の中では頼りになっていた。
踊り場の半開きになった窓の隙間からは、やや勢いづいてきた雨がわっと走ってきて、静寂の施設へ染み入っている。
「ここは今どの辺なんだ?」
目的地につく素振りもなく、立ち止まる様子もない犬人の少女へ城崎は問いかける。
「あともう一回上に行けば屋上に着くよ」
小春の声に導かれるように階段をまた上る。城崎は階段を上り終えたところで、大きくため息をついた。
「あー……着いたか。目が見えないってこうも疲れるもんなんだな」
「そう?私は楽しかったよ。しろさきのこといっぱい見れたから。えへへ」
アイマスクを外そうとしたが、ここで視界を取り戻すと訓練にリアルさが損なわれるのではないかと思い、城崎はまだ暗い世界に浸ることにした。
これではどちらが訓練しているのか考えものだが、ある意味で身体障害者の行動を演じるのも犬人の訓練を任された研究員には必要なスキルである。訓練に応じて社会で求められる弱者になりきり、本物の状況下でも迅速な対応が取れるよう犬人を教育しなければ意味がないのだ。
「僕を見るのは別にいいが、周りにも気を配ってくれ」
「あんまり他の人は歩いてなかったけど」
「この時間はまだみんな集中してそうだからなぁ。午後になって研究に飽きてくると、暇した連中が廊下をほっつき歩いてるが」
「ふーん。じゃあ午後になったらまた訓練する?」
「それもいいかもしれないが……訓練はまだ初日だぞ?人を避けるってのも割と難しいらしいし。今日は午前中に歩けるだけ歩くだけでいいだろ」
「そっかー」
盲導犬の訓練がスタートしてまだ一時間も経っていない。今のところ大きな事故はなく済ませてきていたが、人と人がぶつかった際はそういう訳にもいかない。
ドリームボックスにおいて盲導犬をはじめとするこれらの犬人訓練が行われる際、他職員への通達は一切ない。予め訓練があることを知っていると、皆が対象者と犬人のペアを無意識に避けるからだ。事故がないに越したことはないが、それでは訓練にはならない。
外の社会に住まう人々の全員がそう親切ではないのは周知の事実である。目の不自由な人に対する暴力や脅迫、窃盗、根も葉もない誹謗中傷などは昔からあるし、ましては犬嫌いが転じて、盲導犬に対して手を出す者もいたから驚きだ。
「小春。引き返す前にひとつ問題だ」
「なぁに?」
「もしも僕が今、屋上に出たいと言ったらどう対応する?」
雨宿りしなければ、外は十秒ともたずに全身がずぶ濡れになるほどの雨脚だった。
雨天時あるいは他の悪天候の際、飼い主の行動をどれだけ犬人が自主判断で制限するのかという問いかけだ。将来的に犬人は、かのアシモフが提言したロボット三原則に似た、人間への服従規則が設けられる可能性が高い。だがそれを遵守するあまり、人間の生命を脅かすケースに発展してはならない。
「……傘持ってないから止めるよ。濡れちゃうし」
「なにがなんでも僕が外に行きたいと言ったら?」
「えっ?う〜ん……あ!それなら雨にうたれたいのか、そうじゃないか聞くとかは?」
「なるほどな。ならそれで前者だった場合は?傘もなく、それでも雨にうたれたいと僕が言ったら君はどんな行動をとる?最初に言っとくが、場所は出先でもちろん外だ。替えの服もない、家の人間からの迎えも来ない状況だとして」
「従う……って言いたいところだけど、違う?」
首をかしげる小春が見えた気がして、城崎は苦笑する。
「残念ながら」
「そうなんだね」
「聞き分けがいいのは良い犬人の条件ではあるけど、どうしても飼い主を止めなきゃならない時もあるんだよ」
「例えば?」
「そりゃ、ここが駅のホームで、雨にうたれたいと言う飼い主の進む方向が……電車が通過する線路の上だったとしたら?」
「それは……止める。止めるよ。絶対に」
「そうだろ?だから小春、覚えておいてくれ。飼い主の命令に従わなきゃならない犬人でも従わなくていいものもある。避けなきゃならない危険があるからだ。今回の場合、雨に濡れるっていう微々たる危機だが」
「じゃあ正解は?」
「折りたたみ傘を最初から持っておく、だ。それだけ」
白衣の裏ポケットに忍ばせておいた小型の携帯用の傘を小春の声がする方向へ城崎は差し出した。それは彼女の部屋に元からある備品のうちのひとつだった。
小春は目を丸くし、ひょうきんな声を上げる。
「えー?そんな答えでいいの?……あと、いつの間に持ってたのそれ」
「知らなかったか?屋上に行くと決めた時にポッケに入れたんだ。まぁ小春も小春だぞ。飼い主役が屋上に行くと言ってるのに、傘のひとつも持ってこようともしないのはさ」
「うう……いや、外に出るなんて言わないと思ってたから」
「飼い主の行動を先読みして気遣う。犬人の最低条件だぞ?」
「ごめん」
傘を受け取った小春は、出入り口の扉を開けた。
*
一人と一匹が屋上に出ても、容赦のない雨は益々強くなっていた。風がほぼなかったことと、雨粒が比較的大きいこともあってか垂直降下してくる水の流星たちは、確固たる質量を持って、山の中の施設全域へと到着しては水たまりへと変貌する。
身を寄せ合う両者だったが、小型の折りたたみ傘なのでどちらかの身体の一部がどうしても雨に晒される。安いビニール製の傘の布地に雨が心地よく響く。
横に立つ小春の肩を抱いて、城崎は自然と彼女のことを引き寄せていた。彼は白衣から染みてくる冷たくリズミカルな雨水の感触を覚える。
「肩が濡れちゃってるよ、しろさき」
近づく彼女のその声と同時に、自分の肩を打つ雨粒が消えた。暗い世界にあっても城崎はそれがどういうことか理解できた。
「見事な気遣いだ。ありがとう、小春」
「ふふ。そっか。これも気遣いなんだ……ちゃんと覚えておくね」
「でも、君が雨に晒されなくていい」
そう言って、傘を握る小春の華奢な手をそっと彼女の方へ押した。再開される雨の直撃。
城崎はそれから小春の頭を撫でる。見えていなかったので、普段ならば絶対に触らない犬耳も触ってしまった。
意外にも、犬は基本的に人間から耳や尻尾を触られるのを嫌う。そのことを心得ていたので、城崎はこれまで小春のそれ目がけて手を伸ばすことはしなかった。けれど、今の彼女は跳ね除けることもなくじっとしていた。受け入れてくれたのである。
「……くすぐったいよ」
「少し、このままにさせてくれ」
冗談めかして笑う小春に、城崎は低い声で言った。そうでもしないと、彼女が自分から逃げていってしまいそうで彼は怖かったのだ。
「しろさき?」
「頼む。少しだけでいいんだ……」
小春の戸惑う声が聞こえる。しかし彼女の表情を知ることもなく、城崎は彼女の体温を感じていた。
彼は自分のその手が何故だか離せなかった。艶やかな髪、手触りの良い耳、温い体温──彼女の温かな血の巡り。生き物の匂い。柔らかく弾力に飛んだ耳、若干の水滴が混じった乾いた毛並み。執拗にそれらをまさぐる。
「し、しろさき……?どうしたの?これも訓練の何かなの?」
城崎はシロと過ごした雨の日のことを思い返していた。あの日もこんな雨が降っていた。ちょうど今のように初夏と梅雨時期の頃だ。降雨の中に漂う仄かな冷気。火照った肺の中の空気が冷まされて気持ちよかったが、しっかりと雨は降っていた。ひとつの傘の下で当時の城崎とシロもこうして身を寄せあっていた。
濡れた犬の臭気、体温。代謝により自己を構築する細胞を常に入れ替え、不要物を世界へ排出し、また同時に自己の中で新しい自己を生産することを繰り返して生きている故の匂いと熱。その流れを落ち着かせるかのように降り注ぐ強い雨……。
「しろさきっ」
「……なんだ?」
城崎が過去への郷愁に似た気分に囚われていると、小春の声が現実という非情な正気へと呼び戻した。
彼女は小春。シロではない。城崎はアイマスクが濡れていることに今更気づく。雨ではない。頬を熱い何かが伝っているのだ。
「さっきから何で泣いてるの?私がなにか悪いことしちゃったの?そうだったらごめんね。私、わからない。しろさきが、なんでそんなに悲しそうに私の頭を撫でてるのか……」
「いや……なんでもないんだ」
城崎は自罰的に重い咳をした。それと同じくして、見えていなくてよかったと彼は思った。視覚というリアルに頼ることを止めていたので、小春の体温や感触と自身のかつての記憶の中を用いて、擬似的ではあるものの愛犬・シロに会うことが出来たのだった。
「なんでもないなんて、嘘……」
小春はぼそりと呟いた。
「すまん。そのさ、変な冗談だった!ちょっと疲れが溜まってただけかもしれない。いや、本当になんでもないんだ。はは……」
城崎は少しだけアイマスクをずらして涙を拭った。雨空で薄暗いというのに久しい光に目をやられそうになった。
「しれないって……変なの、しろさき」
それっきり、一人と一匹は黙った。聞き飽きた雨の音が、両者に会話を急かすシュプレヒコールだと思えるほどに。
いつしかそこで時間だけが過ぎていった。雨脚が衰え始めてきて、遠景の街の上にはいくつもの雲の割れ目が表れてくる。それらの境目から、ラッパを持った天使が舞い降りてきそうなほど神々しい陽光が差し込んでくる──。
雨の音が聞こえなくなってきた。街の方から正午を告げる学校のチャイムが微かに山奥のドリームボックスに届いた。城崎はアイマスクを外し、世界を一望した。
雨上がり。澄んだ空気に満ちた屋上。水たまりの都市となったコンクリートの床は、虹と空、過ぎ行く雨雲たちの虚像を雄大に描写している。給水タンクの所々に出来た錆も、そこでは心做しか綺麗に映る。古びたフェンスも同様だった。
「しろさき」
きっちりと閉じて収納した傘を片手に持って、小春が真剣な表情で城崎の方を向いていた。光に慣れない城崎は何度か目を擦り、横にいる彼女を近くで見下ろした。
「どうした」
「わからないの」
「うん?」
「……もしさ、もしもだよ?私の飼い主になった人がいたとするよね。その人がさ、“死にたい”って言ったらさ……犬人の私はどうすればいいの?」
城崎はその質問を前にして、空を仰いで
「何でそんなことを?」
「……泣いてる時のしろさき、なぜかすごく嬉しそうだった。だから私、泣いてるのに変なのって考えてたの。でもね、時々怖いぐらいに悲しそうな顔をするから、もしかして──」
小春は一呼吸置いて続ける。
「“そう”思ったんじゃないのかなって」
城崎は内心を見透かされて口を噤んだ。犬はどこまでも勘がいい。犬は人間よりも洞察的な目を持ち、理性的な動物なのだ。
白衣の濡れた箇所に手を当てたり、ハンカチで拭いたり無駄なことをして城崎は彼女の出方を伺ったが、彼女の方はまっすぐな瞳を離そうとはしないらしい。
ため息をついてから、城崎はどこかやり切れない笑みをこぼした。
「小春。前にも話したが、ドリームボックス上層部と政府の役人たちはまだ犬人と共生するにあたって、どんな社会なら機能するのか想定できていない。いわば
「それが飼い主の……本望だったとしても?」
「そうだ。小春、だから……もしそんな時がきたら、僕を止めてくれ」
「……うん。必ず」
晴れた空の下、一人と一匹は視線を交わすと、どちらから話を切り出した訳でもなく、屋上から帰るために盲導犬の訓練を再開した。
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