15話

「案外、腹壊さないもんだな」


 城崎は濃い紅茶を飲むと、美味しそうにドーナツを頬張る小春へそう言った。

 コンビニでの樗木との一悶着から一夜明けた午前。外は雨脚が強まり始めてきた中、一人と一匹は早くもおやつを食していた。城崎は朝食を抜いてきたのでそれが食事の代わりとなるが、小春は朝の糧食を食べた後で更にドーナツを口に運んでいる。食欲旺盛なのは健康な証拠だが、次の健康診断に響かないだろうかと城崎は心配した。


「おいひいほ、ひほはき!ふへええ、ありがほ」

「食いながら喋るなって」


 もごもごと口周りを上下させて咀嚼する犬人の少女は、糖分の味を覚えたように恍惚としている。口の中のものをごくりと呑み込んでから、おやつを与えてくれた研究員へ何回か彼女は尻尾を振った。


「ありがと。私にくれるとは思ってなかったから、びっくりした。ドーナツ、すごく美味しかったよ」

「ならよかった。本当に身体の具合はなんともないんだな?」

「うん。平気みたい」


 城崎は安堵した。実のところ、彼は小春にドーナツを与えることを直前まで悩んでいた。

 元々与えるつもりはなかったのだ。自分が甘い物を食べて感想を伝えるだけのはずだったが、いつの間にか彼女に渡してしまっている。重大な規則違反だが、既に鮭おにぎりという前科を持つ城崎には大した問題ではなかったし、彼は小春の身体の変化の方を案じていた。

 犬人の身体の基礎は人間とはいえ、筋肉や神経、臓器の特性などは犬特有の要素が満遍なく混じっている。個体差はあれど、犬のアレルギー指定食品が犬人に該当するケースも過去に何件か報告されていた。犬が摂取すると最悪の場合、死に至る食品は意外にも多い。玉ねぎは例に挙げるまでもなく、ネギ、ニラやニンニク、チョコレートやカフェインを多量に含むコーラも論外であり、その他にも味付けの濃い惣菜や加工食品も極力避けるべきだと言われている。

 脂質を多く含んだドーナツも危険性がないわけでもなかったが、城崎は甘味の存在を教えておこうと思い立ったため、小春におやつとしてあげたのだ。流石にチョコレートドーナツは彼が食べることにしたが、もしかしたらチョコも危惧されているほど犬人の身体への危険性は薄いのかもしれない。


「甘いっていいね。幸せだね」


 ぺろりと口の周りを舐める少女。その顔はなんとも言えないほど緩みきっていた。


「その通りかもな」


 犬は、味蕾という味覚を感じる細胞が人間より少ないために味覚能力が低いが、甘い物は比較的好むとされている。

 やはり生存のための戦略なのだろうか。ありにも味覚はないかもしれないが、彼らは糖分を含んだ餌を好んで巣にせっせと運ぶ。

 でも、と城崎は自分が食べているチョコレートドーナツの包装の裏に記載されている栄養表示に目を通した。四百三十キロカロリーという数字に苦笑する。


「こりゃ爆弾だな」

「ばくだん?」

「カロリーがな。犬人は消費も早いんだろうが……人間は溜まるんだよ、これがまた」


 城崎は白衣の上から自分の腹を摩った。


「脂肪になるってこと?」

「そうそう。甘い物の食べ過ぎは太ることになる。太ると健康状態が悪くなる。つまり死ぬリスクが増える」

「……糖分って結構怖いんだねぇ」

「別にそれだけに限った話じゃないけどな。年頃の女の子たちの間ではな、甘い物の写真を撮ってネットにアップするのが流行ってた時期があったんだぞ?」


 最近、本でインターネットの事を知ったという小春へ城崎はおかしそうに話を振ると、彼女は開いた口が塞がらないと言いたげな表情で可愛らしい悲鳴をあげた。


「ひょええ……。悪趣味ここに極まれりだよ、そんなの。それって“今から私は不健康になるよみんな!”って発信してるのと変わらないんじゃ?」

「あははははっ。小春は面白いこと言うなぁ」

「むぅ、そんなに私の意見おかしい?」


 城崎は笑うと、彼女に向き直って小さく首を振った。


「僕も昔は似たようなこと考えてた。パフェとかケーキとかさ、好きなのは分かるけど黙って食えばいいんだよ。いちいち他人からの承認を得る必要なんてこの世界のどこにもないしさ」

「なんだ、そうだったんだ。しろさきと同じ考えだったなら……私とっても嬉しいな」

「小春」

「なに?」

「僕をいくら褒めてもこれはあげないぞ?」


 さっきから小春の視線は、城崎が手にしている残り少ないチョコレートドーナツへと照準が定められていた。

 その様がかつての愛犬の姿を想わせたために、城崎は特に指摘することもなく彼女を泳がせていたが、いい加減かぶりつかれそうなので一応忠告しておいた。


「ダメ?」

「駄目だ。チョコはまだちょっと怖いしな」

「チョコはまだちょこっと怖い?」

「くだらないダジャレを思いついても大人は口にしないものだぞ」

「私まだこどもだもん。我慢できないだけ……だもん」


 よく見ると小春は涎が垂れそうになっていた。一心不乱におやつを仰ぐ瞳。城崎は良心の呵責に苛まれながらも彼女へ呟く。


「はい、ごちそうさま」


 小春が立ち上がる気配がして、城崎は先手を打った。彼はこれ見よがしに最後のひと欠片を口にしたのだ。次の瞬間、小春が残念そうに舌を出して抗議する。


「ええ〜っ。いじわる!本当に食べちゃったなぁ、もうっ。ねぇ、もっとドーナツ欲しいよぉっ。しろさきってば!」

「ちょっとうるさいぞ……」

「しーろーさーきぃっ。どーぉ、なーつ!早く買ってきてよ〜」


 小春は駄々をこねる子供のように口を悪くする。城崎はそんな彼女を一瞥しながらも、頭を抱えるように部屋の中の壁掛けカレンダーへ目をやった。試験まで残り日数もそこまでないことが彼を焦らせていたのだ。

 文字の練習や会話の練習には抜かりはない。この二ヶ月近くの期間で充分なレベルに達しているが、彼女が試験に合格しているビジョンが恐ろしいほど想像できなかった。甘えてばかりの彼女。他人とは接しない彼女……。


 いつまでもこんな事をしていていいのだろうか。

 城崎は、訓練の繰り上げを今しがた決定した。そして未来のことなど考えているのかも不明な騒々しい少女に挑戦的な口調で切り出す。


「小春。そこまで言うなら、今日から思いきって盲導犬の訓練でもやるか?」


「へ?やるって?」


 きょとんとする彼女は、それまでぴんっと立たせていた犬耳を弛ませた。


「人の話は聞きなさい。いいか、盲導犬だ。目の見えない人の生活を支える犬の練習だ。はっきり言って物凄く難度が高いぞ」

「もうどーけん……ってそうじゃなくて、私のドーナツはっ?」

「おい、くどいぞ……それがちゃんとできたらまた買ってきてやるから、君の好きなだけな」

「え!本当にっ?ね、それほんと?」


 どたばたと足をもつれさせながら、犬人の少女は研究員へ顔を近づけた。

 研究員は頷きもせずに小春の鼻先に手を当てて後方へ退けた。こうでもしないと活発な犬人の少女には力で敵わないのだ。本物の犬もこうされるとどんな大型犬でも退く。


「本当だ。ただし、やるからには真面目にやれよ。今からは訓練だからな。前にした約束は覚えてるか?」

「約束?外ではちゃんと敬語と敬称付けしろってやつ?」

「そうだ。座学はこの部屋で完結するが、実践となるとそうもいかない。外に行かなきゃならん。やれそうか?」

「うん!わかったよしろさき。外ではちゃんと、しろさきさんって呼ぶね」

「よし。じゃあ僕は今から上に話をつけてくる。訓練の申請書類を書かなきゃいけないし」



 小春204の安全性について、未だに疑問視する慎重派な上層部の人間は多い。それもそのはず、彼女は過去に何度も脱走を謀った問題児である。

 大人しくなったのも、彼女が担当の城崎に取り入ろうといい子を演じているだけだと大胆に言い切る者もいた。その確たる証拠として、城崎が別の訓練のために限られたエリア内の小春の行動規制の解除を申請したものの、門前払いされたことがあったのだ。

 けれど今回はドリームボックス現所長である佐中が城崎の申請に許可すると、なし崩し的に行動規制が解かれ、リードと首輪などの拘束具ありという条件下ではあるが、施設内ならば今後城崎と小春はどの訓練を行っても良いという大金星を獲得した。

 色々と適当な能登谷は別にして、以前の申請時は規制解除の反対派だった佐中がなぜ急に味方になってくれたのか理由は不透明だが、とにかく喜ばしい話だ。城崎が意気揚々と小春の自室へ戻ると、彼女は扉の前で座っていた。


「小……204。喜べ、許可が降りたぞ」

「え。しろさきさん、それ本当ですか?良かったです!」


 見つめ合う一人と一匹。他人行儀で、どうにもお互いの口調や呼び方が落ち着かないようである。


「……人がいない時はいつものままでいいよ」

「うん。そうする」


 気を取り直して、両者は盲導犬の訓練を始めることにした。まずは拘束具の装着だ。

 城崎は小春の頭の上から首輪を通して、頃合のところできつくない程度に締めると、ポジション的には鈴に似た南京錠でベルト状のそれが解けないようにした。鍵は白衣のポケットへと入れて、彼女の首に手を当てた。


「苦しくないか?」

「大丈夫だよ。でも」

「でも?」

「やっぱり慣れないね。牢屋にいた時にもはめてたから、これ」


 南棟の地下にある隔離室のことだ。四月の脱走後、十日間ほど小春が拘束されていたあの部屋の光景が不意に浮かんで、城崎は何も言わずに彼女の首から手を離した。

 そのまま彼女の頭へと手を伸ばすと、耳を避けるようにそっと撫で回す。


「ごめん。どうしてもつけろって上がうるさくてさ。今は我慢してくれ」

「……うん」


 小春のその返事を聞いてから、城崎は自身の左腕に固定されたサポーターのような装着具からリードを伸ばした。その先に取り付けられている固定用のフックを小春の首輪のそれに引っ掛け、また鍵をかける。


「これで固定完了……。僕を引きずり倒さないと逃げれないって訳だ。上も酷いこと考えるよな、全く」

「準備オーケー?行こうよしろさき」

「待て待て。最後に一番大事なもの忘れてるぞ」


 城崎は苦笑いし、専用のアイマスクを装着する。外界からの光が殆ど遮断されてしまい、闇の世界へと様変わりしてから、左手を小春の肩に乗せて話しかける。


「小春。この手の訓練はな、目の見えない人間側の動きを制限していると思われがちだけど、実際は犬人の方の行動を制限してるものなんだ」

「制限……?私の方が?」

「試しに歩くぞ」


 数歩、歩き出す。


「あっ──」


 小春は小さく声を上げた。早くも違和感を覚えたようだ。

 段差のない平らな廊下であるはずなのに、みるみるうちに足並みがばらついてくるのである。これは身長差の歩幅からくるものではなく、城崎のペースに小春が合わせられないことから生まれたものだった。

 普通、人は誰かと並行して移動する際、お互いに視覚が保たれているので、自分の横にいる人間と同じスピードを維持できる。微調整できる。お互いにそれをなんとなく譲歩し合えるからだ。今の城崎のように目が見えていないと、そうもいかない。否応なしに彼の歩行スピードに目の見える小春が合わせ、並走が辛うじて成り立つ関係になるのだ。


「ま、待ってよしろさき!」


 ぴたりと足を止める城崎。


「この先は?まだ階段までは遠いと思うが」

「えと、別に何もないけど……さっき、私の方が引っ張られてたよ。慌てて止めちゃった」

「な?だから難しいって言ったろ。融通の利かない他人に歩行を合わせるってことは、当然合わせる側……つまり目の見える犬人の方が必然的に無理強いされるんだ。これが当たり前に出来ないと盲導犬の試験をパスするだなんて夢のまた夢だろうよ」


 城崎が笑いもせずに小春へ口を酸っぱくする。今の彼には彼女がどんな表情をしているのかは見えなかった。


「……出来そうか?」

「やるよ。私、試験に合格したいし。それに……」

「それに?なんだよ」

「また甘い物、食べたいもん」


 その声は、試験の存在を初めて聞いて望むと決意した時のものと同じだった。城崎は微笑んだ。


「分かったよ。じゃあ始めはゆっくり行こうか」


 そう言うと、隣に小春の息遣いを感じながらも、城崎は何も見えない真っ暗な施設へと足を踏み出した。

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