14話

 翌日も雨だった。窓に滴る水滴が別の水滴と混じっては加速し、窓の縁へと急速に落下していく。また別のところで水滴同士がお互いに結びつきあいながら、生き急ぐようにガラスの空を駆ける。終わりのない小さな世界の弱々しい水の営み。それを眺めながら小春は、はぁっと溜め込んだ息を勢いよく吐いた。

 温かな小春の息はすぐさま窓に曇り空を形成する。彼女はそこへ指という筆を走らせて記号のような絵を描く。だがその雲も絵も、しばらくすると溶けて消えていった。


 ドリームボックス南棟の小春の自室。雨ざらしの静かな午後三時。一人と一匹はそれぞれの仕事をしていたが、一匹の方は勉強という名の仕事に飽きた様子だった。

 城崎は溜まった書類仕事を片付けていた。だが何度も繰り返される小春のこの一連の流れを後ろから静観していた彼は、不思議そうに話しかける。


「……さっきから何してるんだ」


 前方へと倒れた犬耳がちらりと城崎の方を向いた。眠そうに瞼を閉じかけている小春の仏頂面がそこにある。


「見てわかんない?」

「まるで分からん」

「お絵描きだよ」


 小春は再度窓へと顔を向け、さきほどと同じように思いっきり息を吐く。すると今度は窓ガラスに浮かび上がる朦朧もうろうとしたその白いキャンバスに、彼女は指の腹を這わせた。二重丸のような印が出来上がる。小春の目はどこか楽しそうだ。


「ね、しろさき。これなーんだ?」

「……何の変哲もない二重丸だな」

「感性ないなぁ」

「大人だからな。で、それ何だよ?」

「ドーナツ」


 ふふん、と鼻を鳴らして自慢げに小春が言った。


「ドーナツぅ?」

「しろさき、知らないの?」

「いや、知ってるはいるが……」


 下手くそ過ぎるだろ、と口から出そうになったのを城崎は慌てて咳払いして止める。


「いいでしょ、ドーナツ。前に読んでた小説に出てきた。主人公が学校からの帰り道に友達と食べてた場面が素敵なの」

「へぇ」

「……ねぇしろさき。ドーナツって甘いんでしょ?人って甘い物食べると幸せになれるって読んだから気になってたんだけど、本当なの?」

「そりゃあれだろ。昔、ホモ・サピエンスが生存のための食料の確保もままならない頃は高カロリーな糖類を含んだ食物が美味く感じる必要があったんだよ。美味ければ好んで高カロリーの物を食べるようになるだろ?結果、甘いものを好物にする個体が生き残り、その性質を遺伝子として後世へ残し続けた。だから名残で脳みそがそう思うんじゃないの?」


 城崎は頷いて答えるが、小春はあまり納得していない様子で尻尾の先端を小回りさせた。


「違うよ。そういう話じゃないもん」

「そうか、人類学じゃなくて科学的な話か?糖分を摂取すると血糖値が上がるから、カフェインと同じである種の興奮作用がはたらくんだ。そうすると一時的だが集中力が上がったりして──」

「ちがーうっ」

「急に大きい声出すなよ」

「私はもっと感情的な話を聞いてるの。しろさきはさ、甘い物食べるとどう感じる?」

「え?そうだな……」


 ふと彼は思い起こすが、特に該当するような感覚が舌に蘇ってこなかった。彼は昔から糖分をたっぷり含んだ菓子類を口にする習慣はなく、特に最近は小春の件の仕事詰めで甘い物を食べようという気にもならなかったのだ。首の後ろに両手を当てた姿勢で、椅子の背もたれにもたれかかった。


「悪い、よく思い出せん」

「えぇっ?味の感想ぐらい覚えておいてよぉ」

「そういうの、僕はあんまり食べないんだよ」

「こんなこと聞けるのしろさきだけなのに……」


 がっくりと肩を落とした小春は胡座をかいた。自分の尻尾を前に回すとそれを毛繕いするようにわしゃわしゃと指を踊らせる。苛立っているよりかは、何かしていないと落ち着かない、という調子の時の彼女の行動である。梅雨入りしてから、思うように散歩できなくなるとよく見かけるようになっていた。


「分かった。そこまで言うなら今日の帰りに甘い物でも食ってきて、明日感想を教える。それでいいだろ?」


 観念した城崎がため息まじりに言うと、小春は無言でこくこくと何度も頷いては屈託のない笑顔を見せた。



 終業時間になり、城崎は報告書を上司の能登谷のデスクへ放ると、小春と挨拶して別れ、ロッカーで着替えを済ませてドリームボックスを後にした。


 ドリームボックスは例によって、食事が悲惨だ。腹を空かせた研究員たちは、昼休みや出退勤時に山をおりてすぐの所にあるコンビニに通っていた。職場の人間に会いたくない城崎は、甘い物を調達しに、研究員の多くが愛用するコンビニとは違う店舗に車を走らせた。

 しかし、車を停めて入店した彼を出迎えたのは店員の挨拶ではなく、とある同僚の嬉しそうな声だった。


「あら。城崎くんじゃん」

「あ……お疲れ」


 城崎がコンビニの店内で出会ったのは同僚の犬人研究員・樗木だった。

 彼女は長い髪をヘアゴムで後ろに束ね、白衣の下のラフな普段着のままという格好をしていた。手にはスマートフォンと小さな小銭入れ。彼女も仕事帰りにちょっとした買い物だろう。


「うん、お疲れ様。奇遇ね。そっちももう仕事上がったんでしょ?何か買い物?」

「甘い物でも食べようかなって思ってさ」

「城崎くんって甘党だったんだ」

「いや、好きでも嫌いでもないけど……そういえば樗木さん、なんでここに?コンビニなら施設に近い所にあるのに」

「だってあそこ、いつも混んでるから。他の班の人とかにあんまり会いたくないしね」


 内心、樗木は自分とは住む世界が違うタイプだと決めつけていた城崎にとって、樗木のその少しバツの悪そうな言葉遣いは意外に思えた。

 彼女は仕事のオンオフのスイッチがないくらい、他の研究員たちを取り巻きにして騒音まがいの会話をしているというのにも関わらず。


「ふーん。じゃ、これで」


 城崎がそそくさと菓子類のコーナーへと去ろうとするが、樗木は彼についてきた。


「待ってよ城崎くん!甘い物買いに来たんでしょ。ソフトクリームでも食べてかない?奢るからさ」

「イートインで?悪いけど遠慮させてもらうよ。人がいるところで食事したくないし」

「なんか前にも似たようなこと言われて昼食の誘いを断られたような……」


 苦笑いする樗木に、城崎も似たような表情を浮かべた。


「本音だよ。僕は軽い人間不信なんだ。他人の視線が昔から怖くてしょうがない」

「え、それホントなの?」

「うん。研究職に身を置いてるのだって、他人との接点があまりないからだし。実験個体と論文だけが相手なら幾分と気は楽だからさ。そういうことだから、それじゃ」


 城崎は適当なドーナツを何個か購入するとすぐに店を出た。樗木とはそれっきりで、彼女の車種も知らなかったので退店したのかは不明だったが、この一件でもう彼女が自分には話しかけて来ることはないだろうと安堵した。


「流石にあの言い方は嫌われたかな。別に気にしちゃいないけど」


 独り言が車内に微かに響き渡る。すぐに静かになると次は雨音が増してきて、孤独な研究者を包んだ。このまま停まっていると、ソフトクリームを片手にした樗木に窓をノックされそうな気がして、彼は黙り込んで車を発進させた。

 がこがことワイパーの規則的な駆動音。同じリズムの雨音。それと重いため息が車に満ちる。


 城崎はシロと別れたあの日から、他人を心の底から信用することを止めていた。

 罪のない犬たちを殺した世の中や大人たちに強い憎しみを抱いていたのだ。研究職に就いたのは樗木にも打ち明けた通り、他人との接点を排除するためだが、その後ドリームボックスに身を移したのは紛れもなく犬の研究のためだった。

 人類の最良の友──犬。感染症のウイルス根絶という名目のため、そのほとんどを殺されてしまった哀れな種。

 城崎はドリームボックスのあばら液で犬の再生ができないものかと心待ちにしていたが、それが犬人製造のための装置だと知って大いに落胆したし、人間に絶望もした。人は動物を自らのように擬人化しなければ彼らを観ることもできないのだ。


 だがある時、そこにひとつの誤算が生まれた。それはF型少女と柴犬ベースの雑種から生まれた実験個体204──シロに似た、あの小春の存在だった。彼女と出会って、城崎はシロの代わりをようやく見つけたのである。

 二十年近くの時をまたいだ再会。そして殺処分を回避するため、彼女との信頼関係の構築や訓練を経て今日にまで至った。

 一般的な感性を持つ人が、この城崎の行動や心情を垣間見る機会があったとすれば、彼は少しどころか大分常軌を逸していると思うだろう。城崎という人間は非常に薄情で利己的で、犬の尊厳を踏みにじっている、と。かつての愛犬・シロを忘れられずに、容姿が似た犬人へ彼女の記憶や魂を投影しているのだから。だが、犬の寿命は短いのだ。それにも関わらず、己の全存在と一生涯、全生命を一人の飼い主へと捧げる彼らは、実に献身的で慈しむべき愛に満ちた生き物である。犬は種を越え、人間が唯一信頼するに足る伴侶パートナーなのだ。

 そんな存在を失ってしまい、立ち直れない人間に対して「犬はいつか死ぬから落ち込むことはない」だとか「犬一匹が居なくなった程度のことでまだ気を落としてるの?」などとやけに悟ったかのような虚言を気楽に言える人間の方が、よほど精神が異常だ。

 彼らの方こそ犬を代替可能な可愛だけのぬいぐるみだと思い切っている。命の大切さを学ぶために犬を飼うことが本気で善行だと思い上がっている──。

 少なくとも、当の城崎は学生時代からそう考えるようになっていた。


 シロと出会うよりも以前に、城崎は自分の飼い犬が死んでしまった地元の友人と会ったことがあった。だがその友人が数日後にはいつもと変わらない調子で元気そうにしていたのを見て、城崎は強く軽蔑した経験があり、それが今の彼の歪な思想を形作った。結局のところ、これは犬のことをペットとして見るか、それとも伴侶として見るかの争点に過ぎない。

 言うまでもなく城崎は後者であり、動物の立場が著しく低いこの日本という国においては前者と捉える人で世間は溢れかえっていた。


 日本で人間と犬とが対等になれたことなど、一度たりともありはしない。

 徳川綱吉による生類憐みの令では犬は圧倒的に庶民という人間よりも偉くなった。戦後日本においては、庶民という人間は犬を番犬へと格下げした。

 そして経済成熟期の最中で磐石となったのは、悪名高い日本のペット産業だ。幼い犬が人にエゴのために無尽蔵に作られては高値で売り飛ばされ、要らなくなれば捨てられ殺される……。


 ──それで本当に良かったのだろうか?


 城崎は自分がぼんやりと意識が現実から傾いてると察し、ハンドルを握り直した。



 帰宅するために車を走らせる城崎だったが、途中の信号で捕まったので、購入して助手席に放置していたドーナツを仕分けた。チョコレート、抹茶、プレーンのうち最後の物をレジ袋からトートバッグへ忍ばせる。


「これは小春にあげようかな……」


 薄く微笑んだ。彼は昔もこうして、シロへのおやつをひっそりと運ぼうと画策したものだった。

 歩行者分離式で長い信号。暇に耐えかねた城崎は、雨粒の這う真横の車窓へ息を吐く。白く浮かんだキャンバスの模様が不意にシロの顔に見えてしまい、城崎は上から落書きした。小春を馬鹿にできないほどの二重丸が完成すると、犬人の試験に美術分野がないことに胸を撫で下ろすのであった。

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