第2章 一人と一匹の梅雨

13話

 “人間と同じように、イヌは家畜化された動物である”


 ──コンラート・ローレンツ『人イヌにあう』



 しとしとと雨が静かに降っている。昨日から止む気配が一向になく、空は濃淡がまばらな灰色の雲を幾重にも浮遊させている。

 初夏の到来と春の終わりを報せる梅雨がきたのだ。気が滅入る水っぽい空気、容赦なく降り注ぐ矢のような雨。六月もそろそろ中旬に入る頃、東海地方は梅雨入りしていた。

 城崎が子供の頃は、七月の中旬から下旬にかけてのシーズンだった。だがこの数年ずっと梅雨は六月からのイベントになっている。明確な理由は分からない。きっと、地球温暖化など人間が環境へ与える影響が多少なりともあるのだろう。

 実に悪天候。雨は嫌いではないが、毎日も降られては辛いものだ。けれど、城崎の隣の席で本を読む小春にとってはそうでもないらしい。

 本を何冊か手元に積み上げ、片っ端から読み漁る小春は楽しそうに緩んだ表情をしていた。

 城崎が彼女の教育担当になってから二ヶ月以上が経過し、彼女のそうした顔つきをよく見かけるようになった。


 周りから向けられる無言の抗議の視線は、以前より無くなっている。

 まだ全ての職員が犬人の彼女を受け入れた訳ではなかったが、問題行動を起こさなくなった彼女はドリームボックス内で少しずつ、そして着実に信用されるようになってきている。

 今こうして、小春が図書管理室の一角で席に座り、他の職員と変わらず自由に本を選んで読んでいられるのも、彼女の優良な素行が上層部から部分的ではあるがきちんと認められたからだ。なにも担当者の城崎が同行しているからのことではない。

 彼女の図書室の使用が認可されたのは半月前の話。ちょうど梅雨の時期と重なって、雨と読書三昧だった。


「……雨、止みそうにないなぁ」

「うん。じゃあさ、しろさき。お弁当は今日も私の部屋で食べよ?」

「そうだな」


 晴れていれば小春とは屋上で食事をとるが、雨だとそれも出来ない。いずれにせよ、そろそろ夏が本格的にやってくるので、日差しのことを考慮すると屋上でのランチも潮時だった。

 白衣のポケットに入っている携帯端末が振動したのに気づき、窓に這う雨粒の模様から視線を戻した城崎は席から立つ。


「すまん、電話が来た。すぐ戻ってくる」

「……んー」


 彼女は、ハミングするように口も開かずそれだけ返した。


 城崎は図書管理室を出て少しばかり歩き、人のいない階段の踊り場で電話に出る。床が湿気でやられていて滑りそうだった。


「もしもし」

「あ、もしもし?ごめんね城崎くん、急に電話しちゃって。時間とか……204ちゃんとか大丈夫?」


 電話の主は樗木だった。城崎の同僚であり、快活な女性の犬人研究員である。

 通達事項があるならメールでいいのに、と城崎は目の前にいない彼女に口を尖らせたくなったが慎む。


「大丈夫。それで?」

「ううん、あのね──」


 それから五分か十分ぐらい、まとまりのない世間話や雑談を投げられた。梅雨のことから始まり、雨が好きかどうかとか、同僚の誰々が傘を無くしたとか、そんなくだらないことばかり。


「何か用があるんじゃないの?」


 小春を待たせているのだけど、と城崎は内心苛立った。電話の主題を尋ねる。樗木は押し黙ったが、間もなく、はしゃぐように笑った。


「あっ。長話になっちゃってごめんね。えへへ……その、もしよければなんだけど……たまにはお昼一緒にどうかなぁって思って!ダメかな?」

「樗木さんと?」

「う、うん。そうだけど……」


 一呼吸置いて彼女は小さい声になった。実は過去にも何度か、今回と同じように彼女から話を持ちかけられていた城崎は迷った。


「せっかくだけど、204がいるから遠慮しておくよ」

「そっか……それならしょうがないんだけど……でもそれって204ちゃんの担当が終わらない限りは、城崎くんは他の誰ともお昼にご飯食べられないってこと?」

「かもね」

「城崎くん、本当に真面目だね」

「これも仕事だよ。用はそれだけ?」

「……あ、うん。そ、それじゃまたね!時間とってごめんなさいっ」


 軽くため息をつき、ぷつりと通話が切れた端末を白衣のポケットに落とす。

 城崎が図書室の階へ引き返そうとすると、小春が上の階から降りてきた。


「もう正午だよ。私の部屋に行こ」


 小春の声に導かれるように腕時計を見ると、針は一本に重なろうとしていた。思ったよりも電話で時間を削がれたようだ。

 湿気があり転びそうになる踊り場をものともせず、彼女はすらりとそこを通って階段へと片足を下ろす。城崎は彼女の後に続く。


「そうしようか。あ、ちゃんと本片付けた?」

「元あった棚に返したよ」

「そうか。じゃあ退室する時は室長さんに挨拶してから出たか?」

「うん。ちゃんとしてきたよ」

「おぉ偉いぞ。その調子だな」

「……ねぇっ。しろさき」


 小春は横にいる城崎の白衣の袖を咄嗟に摘んだ。階段の途中で下りるのを制止してきたのだ。その拍子に両者は足元がもつれてしまい、危うく踏み外すところだった。


「な、なんだよっ?」

「さっきの電話……相手は誰?」


 城崎は思わず小春の方を見ると、猜疑と不安の色が混じったその瞳に吸い込まれそうになる。彼女の目はいつだって蒼く美しい。だが、今はどことなくよどんだ雨雲のようだった。


「……階段の上で袖引っ張るな。危ないだろ」

「ごめん。でも聞いておきたかったの」

「相手は僕の同僚。昼食に誘われたんだ」

「その割には長電話だったけど?」

「まったくだな。あの人、無駄話が多くて困ってるんだよ」


 小春はゆっくりと息を吐き、肩を下げた。


「同じ人」

「ん?」

「同僚って同じ人なんでしょ。最近、やたら電話をかけてくる……違うのしろさき?」


 近頃の樗木との通話を盗み聞きでもしていたのだろうか、と城崎は勘ぐる。

 ここのところ、仕事中に樗木からの遊びや食事の誘いの電話を何度か受けていた。その度に小春と会話や訓練を短時間ながらも中断していたので、命懸けの試験に望む小春からすれば疎ましい存在であることは言うまでもない。


「違わないが」

「その人の名前は?」

「そんなこと聞いてどうする?」

「しろさきに無駄話しないように私から言う」

「ははは。その気持ちだけで充分だよ」


 いつになく不機嫌な小春に冗談っぽく苦笑して、その場の凍りつきそうな空気をなんとか和らげようと試みる。同時に階段を下りる足を再開させる。だが、彼女には逆効果だったようで、今度は後ろから腕を強く掴まれる。驚いて振り返る。いつもより彼女の顔が近かった。二段ほどの段差が一人と一匹の普段の身長差を埋めていた。


「笑わないで」


 今の小春には、本を読んでいる時のような微笑は微塵もなかった。彼女の犬耳はぴんと屹立しており、尻尾は不穏なまでに硬直していた。

 確かな焦り。戸惑い。緊張、それから敵対。

 城崎は彼女に首を締め上げられた時のことが鮮明に頭をよぎり、ぎょっとした。


「何を怒ってる?」

「しろさきって私の教育担当なんだよね?」

「おう」

「なら他の人なんかに構ってないで、私と一緒にいてよ。その同僚と電話しないでさ」


 ──小春?


 掴まれている腕が痛い。その時、城崎が口に出した言葉は、彼本人にも予想がつかない意外なものだった。


「……嫉妬でもしてるの?」

「嫉妬?」


 小春は拍子抜けしたようにその場で立ち尽くす。指の力を緩めて、何度か瞬きする。


「私以外の誰かと仲良くしないで……って思う気持ちのこと……独占欲?そうなのかな?」


 指摘されるまで、小春は自分の感情に無自覚だったらしい。というのも、少女は未だ担当者以外の人間との接点がない。城崎が何処かに行ってしまうのは、小春からすれば施設内での生存において非常に不利な話だった。

 人間も犬も古来より社会的な動物だ。周囲に味方が担当の自分しかいない彼女には無理もない反応かもしれない。


「概ねそうだな。でも施設で仕事する以上、どうしても人間関係は避けられない時があるから……そこは理解してくれるよな?」

「嫌な無駄話もそのうちのひとつ?」

「そう言われると弱る」


 城崎は痛いところを突かれた。


「その類の雑談は個人的に好きじゃない。ただ、一般的にはそういった会話は大事なんだ。人と仲良くなるには談笑が一番やりやすい。人間同士の会話の半分以上がなんの意味もない雑談で構成されてるって論文を昔読んだことがある」

「あっそ。ならその同僚の人も、そうなんじゃないの?」


 小春はそっぽを向いて、赤みがかった頬を子供みたいに膨らませてそう言った。


 ──樗木さんは僕と親しくなりたかったのか?


 自分で言ったことを彼女に投げ返されて、これまで同僚の樗木からのコンタクトの真意に今更ながら城崎は気がつく。

 小春にものを教えてもらった感じがして、これでは立場が逆ではないかと彼は思った。


「おそらくは……そうなのかもな」


 数段、上の段にいる小春の横顔を仰ぎながら、城崎は捻り出すように言った。それから二十秒ほどの沈黙がゆったりと流れる。

 微かな雨音は低い地鳴りのようにこの場を包んで離さない。小春の後方にある踊り場の大きな窓の水滴を眺めていると、彼女は退屈そうに咳をした。


「……しろさき」

「何だ?」

「私、いちゃうよ」

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