12話
筆記練習だらけの五月は加速度的に過ぎ、六月が目前に迫っていた。
近頃は雨が降る日が増えてきている。そろそろドリームボックスのある愛知県も梅雨の季節を迎えようとしていたのだ。この時期は春の暖かな陽気も次第に収まり、段々と夏らしくなってくる。
城崎は汚れた室内の窓ガラスを拭きながら、部屋の住民である小春へ話を振る。
「春が終わるな」
「そーだね」
ぺらっと乾いた紙同士が擦れる音。一定の時間を空けて聞こえるそれは、小春が読み進めている本のものだ。
彼女の季節の終わり。来年こうして同じように春が過ぎて、次の季節が彼女と共にやってくることを城崎は切に願った。
「試験は十一月だ。あと半年もない」
「時間、ないんだね」
「その通りだ。今評判が落ちると試験に参加すら出来なくなる。だから妙なことすんなよ」
「わかってるよ」
ドリームボックスはこの一ヶ月、事件が発生していない。それだけ小春の怪しげな行動には城崎が目を光らせていたし、なによりも彼女自身が常識なるものを少しずつではあるが着実に身につけ始めていたからだ。
秋に開かれる模擬社会生活試験の参加申請はすべて事前に犬人と研究員のプロフィールをまとめてドリームボックス側に提出し、書類審査が行われて可否の通知がくる。受け付けは九月から始まり、試験の開催三週間前までが締切となっている。なのでまだプロフィール用紙の作成が未完でも支障はないが、それよりも実際の試験に向けた訓練が各々に求められていた。
「今は何読んでるんだ?」
城崎は雑巾を絞る。足元のバケツへばちゃばちゃと薄ら灰色の水が滴り落ちた。
「災害時、交通事故時などの緊急時における行動、それと人工蘇生の本」
ぼすり、と閉じられるページの間から空気が抜け切る。図鑑や辞書のように分厚くてサイズも大きな書籍だ。城崎が図書管理室で借りてきた犬人の試験用マニュアル本のひとつである。
「災害時か。こんな山奥じゃ津波なんて来ないだろうけど、海沿いに住むことがあったら無関係とは言えんな」
「うん。それに山でも土砂崩れとかあるらしいよ。怖いね」
「その本、僕はあんまりちゃんと読んでないんだけど、仮に土砂災害が今起きたとして……小春はどんな行動をとるんだ?」
「それは……状況によるよ。犬人はね、人間を助けなくちゃいけないの。だからその場の指揮を執る人に指示を仰いで、救助隊と連携して、生き埋めになっちゃった人とかを見つける」
「それは頼もしいな。どう?実際、分かるもんなのか?土砂や崩壊した家屋の中に生存者がいるかどうか」
「匂いでってこと?」
「犬人といっても、嗅覚にも限界はあるだろ」
「うーん。それは試したことないからわかんないなぁ。でも鼻はいいし、自信はあるよ」
秋の試験には災害時の人間の救出や保護として、似た状況を模擬的に用意したフィールドでテストするものがある。この一ヶ月、実技に向けた実践訓練はしていなかったので、城崎は近いうちに小春にも取り掛からせることにする。
「じゃあ梅雨になったら少し試してみるか」
「どうして梅雨まで待つの?」
「雨天時の方が匂いが散漫して難易度がぐっとあがる。訓練でできれば試験の時も簡単だろ?」
「なるほど」
「それにだ。多分……試験時には台風が直撃するはずだ。わざわざ秋に試験が開かれるのは、大雨や強風の下で実技競技をさせるためなんだと思う」
「……雷とか?」
そうだ、と答える城崎は、小春の笑みの表情が強ばっていることに気づく。ちょうど以前にコーヒーの匂いが嫌だと指摘した時のような困った顔がそこにある。
「小春、去年の十一月ぐらいのこと覚えてるか?台風とか来なかったのか」
「来たよ。でっかいのが」
「なるほどやっぱりな。試験は台風を待って行われるんだ」
城崎は今年に入ってドリームボックスの南棟の研究員として外から転属してきたので、去年のこの施設の状況については小春の方が知っている。彼はドリームボックス周辺の地元育ちではあるものの、高校を卒業してから上京し、東京の大学院で動物行動学を専攻した。修士号を取得して都内のウイルス研究所にて実験用の本物の犬の飼育や観察に携わり、その後に犬人の研究要員としてドリームボックスに移っていた。
謎の身震いをする小春に、城崎は懐疑の視線を浴びせ続けた。
「……もしかしてさ」
「なに?」
「いや、まさかとは思うが雷が怖いのか?」
「ま。ま、まさかぁっ」
素っ頓狂に声を上ずらせ、小春は両手を小さく振った。
「試験の外での実技は十中八九、台風に揉まれて実施されるぞ。強風と強い雨脚、場合によっては雷、それと飛んでくる木の葉やゴミなどの障害物にも耐えながら仕事を遂行できるか見れなきゃ、わざわざ試験させる意味がないだろ」
「……へー」
小春の顔がみるみる青ざめていった。その様子が少しばかり滑稽で、城崎は笑いを
「災害救助犬にならないなら、その試験も免除されるのかもしれないが」
「え、そうなの?」
城崎は頷いて、かいつまんで小春に事情を説明する。
犬人が日本社会に浸透することを大前提として、どのように犬人が日常に地位や存在を置くのかについては、ドリームボックス上層部と日本政府が用意しているシナリオがいくつかある。
合成人種への偏見や差別というのは人類史においても前代未聞なので、前もって犬人の社会での立ち振る舞いを明確に規定しておくと混乱も少なくなるという憶測で生まれた犬人の未来構想だ。
ひとつ目は、犬人が必要だと思われる身体障害者などの人間個人を審査の上で「飼い主」として認定し、各人に適切な個体を無償で与えるという案。例えば視覚が不自由な人には、盲導犬ということでレトリーバーかラブラドールをベースにした犬人を与えて、その人の生活水準を向上させる。聴覚が満足でない人には聴導犬。その他の身体障害などによって生活全般に多少の支障がある人には介助犬を……といった具合だ。
ふたつ目は、県や自治体、あるいは企業が必要とする社会労働力に応じて各組織へ有料で犬人を与えるという案。犬由来感染症によって世界の国家は独我的になり、他国との共存を視野に入れなくなっている。経済のグローバル化は完璧に崩壊した。そうして生まれた問題が安い賃金で働いてくれる外国人労働者の圧倒的な不足だ。
かつて日本は、安い労働者である東南アジア圏に工場を建てて、高品質な製品を安く作ることができた。あるいは日本に移住してきた外国人労働者を低賃金で雇って似たようなこともできた。しかし感染症によって不安に苛まれた彼らは帰国し、しかも海外に建てた会社や工場なども需要低迷によって現地での倒産が続いた。市場における労働力が激減したのだ。県や自治体といった組織も、少子化と人口減で税収の低下はもちろんのこと、災害時のボランティア活動に必須となる人材の確保すら苦しんでいる。人がどこにもいないのだ。
感染症以降、人口減によって百を優に超える町村が日本地図からきれいさっぱり消滅した。
この案は、これらの問題を解決するため、国民個人には犬人を与えずに地方自治体か企業が「飼い主」となり、犬人の生活を保証する代わりに労働者として文字通り飼うという考えだ。
純粋な労働者だけではなく、例えば災害救助犬と同じ訓練を積んだ犬人は地域の非常時に重宝されるだろう。
最後に一番厄介で物騒なものは、自衛隊と警察にしか犬人を与えないという案だ。
言うまでもなく、先の感染症によって自衛隊も警察も甚大な人的被害を受けており、組織再編という名の縮小に舵を切らざるを得ない状況下にあった。
感染症が収束して社会が安定の軌道に乗ったとはいえ、秩序維持にはどうしても武装した警察の存在がまだ必要となってくるし、自衛隊は特筆するまでもなく他国の侵攻から自国家を防衛するための砦だ。ここ十年、自衛隊は陸海空すべてにおいて志願者が定員割れしている。
警察もそうだが、両者とも昨今の緊迫した情勢下で命の危機が保証できないため若者には不人気なのだ。
軍用犬ベースで戦闘訓練をさせた犬人で自衛隊と警察のほとんどを運営できるようにし、双方の数万人単位の退職者が他の人手不足の業種に就いて経済を立て直すというのがこの案の算段だ。
とはいえ、現実に日本の国民にきちんと説明したところで、この三つのどれかひとつのみが選択されるとは思えない。
ひとつ目は一番穏便だが、まず経済再生の面においては効果は薄い。ふたつ目は逆に経済を包括的に再生できるが、県自治体の地方権力、あるいは企業の利益独占に繋がる恐れがある。そして最後は、犬人に治安に関わる重要組織を担わせることを忌避する国民感情を強く刺激してしまうだろう。
おそらく全ての案が近い将来で採用されるが、その割合にこそ注意を払うべきなのだ。
盲導犬、聴導犬、介助犬、災害救助犬、軍用犬。試験では主にこの五つを基礎にした各種雑多な競技テストが用意されている。だが、試験を受ける犬人の適正が既に固まっているなら専門外のものは受けなくても良いのかもしれない。介助犬になろうとしている犬人が空手や柔道を覚えても無駄であるように。
「……つまりだな、まだ犬人がどんな風に社会に求められるか社会モデルが決まってないから、念のために色んなことを試験でさせるってことだよ」
「なぁーんだ。せっかく勉強したのに。災害救助犬にならないなら必要なかったね、さっきの本も」
小春はさきほどとは別の開いてた本も閉じた。
「それは?」
「
「おい、それはちゃんと勉強しとけ。どの犬でも必須になる課題だと思う」
二転三転する話に小春はついてきておれず、また拗ねて頬を膨らませた。事実、災害救助犬でなくてもある程度の救助活動の手際は犬人に突きつけられる義務だ。しかし小春は何の専門犬になるかは決まっていなかった。そのためプロフィール用紙も相変わらず完全に埋まってはいない。
「私、何になるのかなぁ」
「試験ではそれも含めて点数化するけど、介助犬には介助犬、盲導犬には盲導犬の試験が……って感じに専門別にはなってない。あくまでオールマイティに訓練しとけってことだな、早い話」
そして何にも向いていない個体は即刻排除される、と城崎は付け加えるのを差し控えた。
「ねぇしろさき。軍用犬って警備員のこともさすの?」
「そうだろうな。戦闘訓練を積んでるんだろうし」
「嫌だな、それ」
小春は顔を顰めた。大方、先月脱走した時に交戦した武装警備部隊の犬人たちを憎んでるのだろう。
「それだと、必然的に残すは直接人の生活を支えるものになる。第一、小春は柴犬がベースだしな。盲導犬、聴導犬、介助犬のどれかに落ち着くと思う」
「うー。私は雑種なんだけどぉ。働きたくないよー」
ごろりと身体を床に寝かせる小春。彼女の耳と尻尾は萎れたように下がり、ぺたぺたと力なく床を打っている。城崎は彼女の頭をそっと撫でた。シロの毛並みを思い起こし、思わず手を引く。
「……悪いが野良犬とか愛玩犬ってケースは認められないと思うぞ」
「だよねぇ。でもさ……しろさき。昔、本物の犬が生きてた時代って、大抵の犬は家庭で飼われる愛玩犬だったんだよね?」
「そうだな」
「今って本物の犬、いないの?絶滅したの」
「いるにはいる。でも、社会に貢献するような……それこそさっき言った介助犬たちみたいな働く犬は絶滅したよ。麻薬探知犬がいる空港もない。地雷探知犬もね。おかげで世界中大混乱だ」
「それで、私たちみたいな犬人が研究されてるんだね」
「きっかけは感染症のウイルス研究だったけど……今じゃその方が語弊がないかもな」
城崎は携帯端末を見る。着信やメールはなし。時刻は十時過ぎ。
待ち受けのホーム画面は、シロを遠くから捉えた風景写真。彼女の写真はこれしか残っていない。
「……小春。犬ほど人間に尽くした動物はいないよ。本当に。でもそれにひきかえ、僕たち人間は馬鹿ばっかりなんだ。犬という友人を殺し回った挙句、自分たちの首を絞めてるんだから」
一人と一匹は無言になった。気まずかった訳ではない。自分たちの今後の不透明さによる不安でもなかった。お互いが顔を見合わせているこの世界があまりにも出来の悪い歴史の上に成り立っていたのを哀れんだだけだ。
「しろさきは犬飼ってたの?」
「……いや。飼ったことはない」
「そう」
「ほら小春。君が将来何になるかは別にして、こういう勉強は損しないもんだぞ」
城崎は電源を落とした端末を白衣のポケットに滑らせて、明るい作り笑いの表情を浮かべると、机の上にある本をめくった。
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