11話

「ううー難しいよぉ」


 弱気な小春の声を聞き、城崎は彼女の手元にある空欄まみれのプロフィール用紙を見下ろした。

 あれから両者は小春の自室へ戻って昼食をとり、彼女は文字を書く練習に勤しんでいたが、飽き性でせっかちな彼女の提案により、途中から申請用のプロフィール用紙を試しに一度書いてみることになった。お世辞にも好調ではないらしく、少女はじたばたと頭と手を悩ませている。


「何が難しい?」

「特技と趣味のところ」


 ぺたりと小春はその欄を指さす。城崎もこれは過去に何度か四苦八苦、格闘した経験があった難問だった。


「特技……はともかく、趣味はたしかにいやらしい問題だな」


 ドリームボックス内での犬人は、研究員と付き添いで訓練するか自室で大人しくしていることを余儀なくされている。趣味といっても全くないのが実情なのではないだろうか、と城崎は怪訝に眉を寄せた。

 これは非常に巧妙な罠で、レールから外れた個性的なものだと審査で弾かれる。あくまで犬人は、人間で従順で没個性的であることが求められるからだ。


「読書って書いとけ。君の場合、真っ赤な嘘ではないだろ」


 城崎は微笑混じりに言った。この国において、履歴書の類の書類にある趣味の欄にそう書く人間は掃いて捨てるほどいる。まさに没個性的であることが必須なこの国らしい。犬人と日本人は似ている。


「趣味というか日課だけど」

「読者家としては百点満点の回答だな」

「ねぇ、じゃあさ。しろさきの趣味ってなに?」

「そういや話してなかったな。写真だよ」

「へぇ。何の写真を見るのが好きなの?」

「そうじゃない。撮る方だよ。景色とか……古びた街並みとか、海辺の堤防とかな」


 意外だね、とでも言いたげに小春は目を見開いてみせる。彼女の目がどことなく輝いている。城崎には、彼女が何を望んでいるのか予測するのに研究者としての頭を使うことも無かった。


「しろさきが撮った写真って外のことだよね?」

「そうだよ。見たいか?」

「うん!」

「分かった。ならまずは文字の練習とプロフィール用紙を完成させような」

「……うぇー」


 情けない落胆の悲鳴。城崎は気を取り直して、小春とプロフィール用紙へ交互に目線を送る。


「僕も昔は趣味を問われて読書って書いたもんだ。写真だとウケが悪いことがあるからね。読書ってのはどこでもそれなりに通用する、ベストではないがベターな趣味だよ」

「しろさきも本読むの?」

「まったく。シェイクスピアぐらいしか知らないね」

「ふぅーん」

「話が逸れたな。ほらほら、書いとけって」


 小春は渋々言われた通りに書く。鉛筆と紙のかすれる音が小刻みに室内に響いた。


「……なんだか本当のことを書いてるんじゃないみたい。本は好きだけど、やっぱりこれは習慣に近いものだと思う。『星の王子さま』ばっかり読んでるもん」


 城崎は自分の学生時代のことが蘇って頭を巡り、彼女の言葉に相槌を打った。


「気持ちはわかるよ。こういう公的な書類ってのはありのままの自分を書くと何故か怒られるもんだ」

「どうしてありのままの自分を書くと怒られるの?」

「向こうはどれだけ僕たちチャレンジャーが自分を偽れるかを知りたいんじゃないのか」

「変なの、大人って」


 小春は鉛筆でこつこつと机を叩き、次の空欄へ視線を落とした。


「次、特技はどうしよっか」

「特技か……小春、何かこれといったもの本当にないのか?」

「うーん。考えてはいるんだけど、人目を避けて行動する、とかぐらいしかないかな」

「人目を?」

「私、周りの大人が怖かったから普段から逃げるように生活してたし……」


 城崎は、人目を嫌った行動パターンの彼女の姿を思い出す。その点でひとつ彼は引っかかったことを思い出したので、ついでに小春に質問を投げる。


「でも中庭でよく寝てたよな?あそこ、結構人目に晒されるところだと思うから前から変だなって思ってたんだが、なんでだ」

「ひなたぼっこ」

「え?」

「芝の上でお日様に当たるの、気持ちいいの」

「……特技に“マイペース”とでも書く?」

「からかわないでよ」


 小春は不貞腐れて頬を小さく膨らませた。彼女は城崎のアドバイスがあてにならないと、自力でアイデアを捻出しようと鉛筆を片手で弄びながら悶々と考え事をする素振りをとった。

 だがその時、べきり、と聞き慣れた木の音がした。


「あ」


 小春がはっとしたように視線と声を上げて、自分の右手の中で砕け散っているHBの鉛筆を確認した。ぱらぱらと破片がプロフィール用紙や机の上に舞い落ちる。これで本日は三本目。


 城崎は短く笑って、新品の鉛筆を自動の削り機に差し込んだ。先を尖らせてからそれを彼女に渡す。


「ほら」

「ありがと、しろさき。ごめんね……」


「頭をフル稼働するのも結構だが手にも気を遣えよ?筆記試験中にへし折ったら減点だぞ」


 犬人の力は人間の比ではない。人間用の製品は、鉛筆がそうであるように犬人向けではなく、彼女たちが不意に力を込めてしまった際に簡単に破損してしまう。

 日常を健やかに送る上で需要が途切れない生活用品は、家電も含めて案外とても脆いものだ。とはいえ犬人がそれを易々と壊し続けると、飼い主はたまったものではない。従って、犬人を人間社会に順応させるためには、常日頃のこうした力加減なども抑制させる綿密な教育が必要だ。秋に開かれる試験でもこれは細かくチェックされて点数化される。テストの点数だけではなく、素行すら見られるのだ。


「わかってるよ……しろさき、やっぱり万年筆で練習しちゃダメ?えんぴつだとすぐ折れちゃう」

「筆記試験は一律、鉛筆以外は使用禁止だ。これも試験のためだと思ってくれ」

「……はーい」


 小春は間の抜けた返事をして、またプロフィール用紙と睨めっこを再開した。



 夕方になって終業時刻が迫る。結局その後、プロフィール用紙を埋めることを諦めた小春は、再び文字の書き取り練習に励むことにしていた。

 小春は本を読むには充分な知識があるようだが、書くことにおいては小学生ぐらいのレベルからやり直した方が良さそうだった。

 実際、筆記能力の低さは犬人開発においては最大級の難点と化している。


 読む能力は簡単に底上げできる。犬人をあばら液から製造し、肉体として完成してから直接、脳へ高速学習させるだけでいい。だが書くという作業を教え込むのは非常に大変だった。

 そもそもの話、鉛筆やペンなどの筆記用具を握って紙に記す作業ということ自体、人体工学的には非効率的にも程がある。十本の指先マニピュレーターを総動員するにはキーボードの方が理にかなっているのだ。それにも関わらず、人間は何百、何千年にもわたって筆記という手法を続けてきたのだからお笑いだ。

 文字を記すのは人間だけである。半分が犬であり、言葉を持たない動物である犬人の識字率を向上させるのは至難の業だ。


 城崎は廊下の自販機で買った缶コーヒーを飲み、そんなことを考えながら、彼女の背中から練習用のノート全体を眺める。

 五十音のひらがなは割と様になった字体が並んでいて驚く。城崎が事前に赤ペンで手本として書いた文字を複写するように同じ文字が延々と綴られていた。


「上手いじゃん、小春」

「そう?」

「今日はここまででいいから、ちょっとノート見せてくれないか」

「いいよ。はい」


 小春はノートを閉じて城崎へ渡した。ノートの滑からな表紙には無味乾燥な明朝体で「犬人用筆記練習帳」とだけ記載されている。縦書き仕様のそれは南棟のデスクにいくらでもあるので、屋上から戻ってくる道中に城崎が何冊かもらってきた物だ。

 秋までに漢字や簡単な英語も書けるようにしなければ、と城崎は思いながら、小春が書き進めたページを一枚ずつ丁寧に確認していく。不意に何か見落とした気がして、城崎はぺらりと前のページを見返した。彼はそのページの端に小さな文字を見つけた。


 『小春』の文字だ。 何個もその文字が重なるように綴られていた。

 名前について彼女から特に抗議されるわけでもなければ、かといって感謝されることもなかったが、城崎はこれを見て彼女の本当の気持ちに触れられた気がした。

 この件については特に言及はしないことにしてノートを彼女へ返した。


「お疲れ様。これで今日分の報告書の内容は考えなくて済むよ」

「ほうこくしょ?」

「そう、報告書。小春の様子を偉い人に教えるのも僕の仕事のひとつ。そのための書類のことだよ」

「大人っていっぱい書類書くもんね」


 小春が疲れたように右手を肩で回す。書き疲れた様子だ。


「しろさきは文字書くの好き?」

「どっちでもないけど……最近はパソコン業務の方が多いから、報告書ぐらいが手書きなんだ。だから漢字とかよく忘れる。苦手と言った方がいいかな」

「しろさきも練習する?」

「ははは。考えとく」


 彼女に差し出された新品のノートを受け取った城崎は缶コーヒーを飲み干し、息を吐く。

 犬人の彼女を前にして気を張りつめ、神経を使うことは以前より格段に減っている。それだけ自分と小春の信頼関係が築けてきた証拠だ、と城崎はリラックスして彼女と会話する。


「小春は?文字を書くの楽しいか」

「うん。それなりに」

「そうか」

「ね……しろさき」

「なんだ?」

「くさい」

「えっ?」


 突然の告白に城崎は固まった。それまでの穏やかな彼の気持ちが一瞬で凍りつく。


「なにっ。まさか加齢臭?僕まだ三十路じゃないんだけど……」


 瞬時に仕事に引き戻される城崎。犬人は例によってすごく鼻が利く。あまりに酷い体臭を撒き散らしていては、彼女との関係にヒビが入ってもおかしくはない。

 城崎は、白衣の肩や袖に鼻を当てて自身の体臭を嗅いだ。だが小春は彼に首を振る。


「違う。しろさきの匂いのことじゃないよ。それのこと」


 彼女がずいっと見上げる先には、城崎が手に持つコーヒー缶。


「なんだ、びっくりしたよ……コーヒー苦手なのか?」

「ちょっぴり」


 口ではそう言うが、小春は冗談半分に険しい表情を浮かべた。

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