10話

 城崎が小春の自室へ戻ると、彼女はいなかった。その代わりに置き手紙があった。インクが滲んだ書きなぐった粗雑な文字で「屋上にいる」とだけ書かれてある。

 その手紙を拾って小さくたたみ、白衣のポケットにしまってから城崎は屋上に向かった。



 南棟の屋上について扉を押し開ける。給水タンクの近くから周囲の山や街を一望している小春の横顔が目に入る。彼女の手にはやはり一冊の本がある。城崎は声をかけた。

 小春の顔が正面に向く際に、強い風で桜の花びらが微かに舞った。どうやら桜はもうシーズンを終えて散っているようだ。


「なんでここに?」

「……なんとなく」

「針を捨ててきた。もうあんなことすんなよ」

「やっぱり怒られた?」

「まあね。上司から電話で散々言われた」


 城崎は伸びをして脱力する。ふぅ、とベンチに身体を預けて空へ仰向けになった。心地よい春の日差しが彼に降り注ぐ。


「ごめんねしろさき……常識なくて。今度からの約束、針は用意しないから」

「気にすんな。別にいいさ」


 城崎はそう言うと、目を閉じた。陽の光で瞼の裏は赤黒いのに白く眩い。まるで胎内にいるかのような錯覚に陥る。母親の腹の中にいた頃の記憶がある人がたまにいるが、あれはこんな感じなのだろうか──城崎はふと思った。

 瞬きし、ゆったりとした動作で顔を小春の方へとやる。彼女に生まれる前の記憶の有無を聞いてみようと思ったが、原形質培養液・通称あばら液で満たされたプールで生まれた彼女には些か失礼に当たるかもしれない、と城崎は質問のために開いた口をすぐに閉じた。


「しろさき?」


 そんな彼の様子に小春は首をかしげる。彼女は立ち上がってタンクの階段を降り、研究員へ近づく。


「大丈夫?」


 上から覗き込む彼女は、もう対人距離を気にしてはいなかった。


「少し疲れてるだけ……それよりも、小春の手の方は?痛みはまだあるか」


 小春は首と尻尾を横に振る。


「全然。傷口もほとんど塞がってるよ」

「良かった」

「……私さ、こんなんだけど試験に受かるのかな」

「どうした急に」


 ベンチに寝転ぶ城崎へ、小春は立ち膝で顔を接近させてひっそりと会話を続ける。


「常識を身につけるのはすごく大変だってこと知ってるよ。今でもこんなんだし、試験で失敗しないか心配なの」

「これからの君次第だ。君の頑張りでどちらにも転ぶ」

「じゃあさ、まずは何を直せばいい?」


 煌めく彼女の瞳。子供と同じく純真で穢れのない光を宿す視線。城崎は目が離せなくなったが、そのまま白衣のポケットを探って紙切れを差し出す。


「何これ」

「君の置き手紙。直すとするなら、まずは文字だな。君は字が汚い。このレベルだと筆記試験で減点の対象になるかもしれん」

「え、そんなに?」


 城崎は静かに頷く。折りたたんだ紙をぺらりと開いて再度見るが綺麗な文字ではなかった。

 

「第一、これ何で書いた?大分インクが暴れてるが」

「なにって万年筆だけど」

「そんなの持ってるのか?」

「しろさきの万年筆だよ。デスクに置いてあるやつ」


 さも平然に言われて、城崎は怪訝に身体を起こした。小春は不思議そうに彼を見ている。


「君、本や針だけじゃ飽き足らず人の私物まで借用してたのか」

「いけなかった?」

「いけないに決まってるだろ。盗られた人の気持ちを考えろって前にも言ったはずじゃないか」


 城崎は小春を強い語調で叱る。次に第三者の所有物へ彼女が盗みをはたらこうとしたものなら、試験の申請すら書類落ちになることは城崎には目に見えていたからだ。


「……ごめんなさい。そっか、ダメだったもんね。人の物を勝手に使うの」


 しゅんと肩を下げる小春。耳も尻尾もぶらりと垂れ下がっている。俯く彼女に城崎は罪悪感を覚える。


「いや、ちょっと強く言いすぎた……でもな、書く物が欲しいならそう言ってくれ。僕が用意するから」

「違うの!しろさき。私ね、しろさきが使ってる物が欲しかったの」

「僕が使ってる物が?」


 城崎は理由が分からずオウム返しする。小春はこくこくと頷いた。


「うん。でもしろさきはきっとくれないから、その、勝手に……ごめんなさい」

「……なんでそんなもの欲しかったんだよ」


 犬耳の生えた小春の頭を優しく撫でて、城崎は白衣の胸ポケットにたまたま入っていたキャップ付きのHBの鉛筆を取り出す。それを包帯で包まれた彼女の手に握らせた。


「ほら、やるよ」

「えっ?これ、もらってもいいの?わぁーいっ。やったぁ!」


 初任給の明細書をもらった過去の自分よりも喜んでいる、と城崎は呆れた。

 たかだか鉛筆一本にそんな価値を見いだせる状況なんて、この広い世の中に一体どれだけあるのだろう。小春の世界はまだ始まって一年、しかもドリームボックスの内側に限定されている。城崎はいたたまれない気分になった。


「文字の練習なら万年筆よりも鉛筆の方が好ましいし、今後はそれ使えよ。あと、僕の万年筆を返してほしいんだけど」

「えー」

「えーとはなんだ。それ僕のだぞ」


 城崎が言い終えると、小春は患者衣みたいな自分の服にひとつだけあるポケットから万年筆を取って、それを空へ高く掲げた。


「占有権だっけ?持ってる人が所有物を自分の物って主張できるんだよね。だからこの万年筆も、今は私の物!」


 無邪気に笑う小春。城崎は薄く笑った。彼女はどうやら糧食の時のことを再現してるようだ。


「覚えてたか。否定はできんが……なっ!」


 城崎は隙をついて素早く手を伸ばす。小春の手にある万年筆を奪おうとするが、彼女は人間よりも何倍も高い身体能力を存分に活かして華麗に回避する。


「遅いよしろさき」

「くそ、やっぱ早いな犬人は」

「うん。だからこれは私の物。ね?いいでしょ」

「僕以外の人間の物を盗らないって、約束してくれるならいいぞ。あと筆記の練習には使わないってのも」

「ふふん。ちゃんと守るよ」

「ならいいんだが」


 小春はくすりと鼻を鳴らした。悪いことをして自慢げにしているあたり、まるで本物の子供だ。城崎は口には出さなかったが、親が子を見るような気持ちで彼女を見つめていた。


 ──シロもテニスボールを返さなかったな。


 城崎は内心に現れる一匹の野良犬の記憶の欠片を振り払うように言葉をひねり出す。


「……それで、どうして屋上に呼んだんだ?」

「なんとなくって言わなかったっけ」

「本当は理由があるんじゃないのか」


 城崎が口調を正していつものように聞くと、小春は万年筆と鉛筆を大切そうにポケットにしまった。


「外を見たくて」


 彼女はそれから遠方を指さす。フェンス越しに広がるドリームボックスの外の世界がそこにはある。


 街並み──施設の無機質な棟とはまた違った建物が玩具の如く雑然と立ち並ぶ片田舎の地方都市、ここ岡崎おかざき市の中心地の方角だ。

 でこぼこの地平線は人工の灰色、それと山々の緑色の絨毯と群青の空に挟まれて、どこまでも果てなく開かれている。緑色の中にはちらほらと桜色もあった。


「試験に受かったら、私の処分の話は取り下げられるんだよね?」

「その可能性は高い」

「……外に出れる確率は?」


 城崎は口を噤んだ。いつかは彼女が外に出る未来が本当にあるのだろうか、と自問するが答えは出せない。

 将来、犬人が社会に溶け込む日が訪れるのだろうか。この狂気の研究とその産物である犬人の存在は日本という国が心の底から望んでいるのだろうか。仮にその日が来るとして、それまでに何年かかるだろうか。

 犬人の寿命はかつての犬と同等だ。よく生きても二十年には中々届かない。小春が生きている間に、犬人は日本社会を支える人材として認められるのだろうか。


 疑問が次々と浮かぶ城崎だが、彼自身なにひとつ分からなかった。ただ、その一端を担っているのは自分と目の前にいる世間知らずな犬人の少女であることは理解していた。

 特に失敗作が続く昨今のドリームボックスにおいて、優良個体の育成方法は喉から手が出るほど欲しいノウハウだ。雑種の失敗作という烙印を押された小春。その彼女が郡を抜いた成績を残せれば、現状に大きな影響を与えることは確実に出来る。

 つまり自分たちの成果で犬人の未来が決まるかもしれない。城崎はそう思った。


「本音を言うと分からないよ。犬人はまだ外じゃ存在すら知られていないし、ドリームボックスが主に犬人研究のための場所ってことも非公表だ。今年の試験に受かったからって、すぐに外に出れる訳じゃない。でも、試験も受からないような個体が外に出れることは絶対にない」

「そうだよね」

「だから犬人が社会に役立つと証明するんだよ。それが出来たら、ゆくゆくは君がドリームボックスの外に出れる時も来るかもしれない」


 確証はなかったが、城崎は小春を励ますことしか道がなかった。目の前にいる少女から、これ以上希望だけは破壊したくなかったのだ。

 それが自分の仕事とは何も関係がないと彼が気づくことはなかった。ただ、小春のためだった。彼女を失いたくない自分のためだった。


「それまで私、生きてるかな」

「……少なくとも、来年の処分の話は絶対に避けないとそんな話も出来なくなる。僕の言ってること分かるか?」

「うん。試験、絶対に合格する!しろさき、今から部屋に戻って文字書くの練習しよ」

「ああ、そうするか」


 小春は改まった表情で城崎を見てから、フェンス越しに広がる憧れの世界を一瞥し、慌ただしくその場を後にする。大きく振られる尻尾を追って、城崎は屋上の出入口の扉を静かに閉めた。

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