9話

「シロ……」


 翌日、城崎は自分の寝言で目が覚めた。また昔の記憶が夢に出てきた。恐らく原因は小春。

 幼い頃の自分と犬への追憶なんて、もうとっくに決別している筈なのに、と城崎は誰に向けてでもなく悪態ついた。


「あれ?」


 上半身を起こす。カーテンから漏れてくる朝日に目を擦り、手元の枕に手をやると珍しく湿っていた。よだれでも垂らしてしまったのかと枕カバーを外しながら、目覚まし時計に目をやる。寝坊したみたいだった。出勤には問題ないが、弁当を作るつもりだったので城崎は大いに焦った。

 ようやく信頼関係を築ける関係性までに至りそうなのに、せっかく交わせた約束をこちらの都合で破ってはここまでの苦労が白紙だ。


 彼は寝起きの脳みそに最適解を求める。机の上に転がる携帯端末で職場の上司である能登谷に電話をかけて、出勤を一時間ほどずらしても構わないかと問い合せた。実験個体204の夕方の行動データを取るためだとか言い訳を並べて。弁当の約束を忘れず、勤務態度の評価にも痛手を喰らわない唯一の手段だった。

 意外にもそれはすんなりと許されて、城崎はほっとした。フレックス制とまでフリーな職場ではないが、ほぼ同等の時差出勤が認められている土壌があったからだろう。電話先からは「そんなことでわざわざ電話すんなよ」と罵られた。


「……まあ、所詮しょせんは失敗作の担当って扱いだしな僕は」


 朝という現実に意識が覚醒するも、どこかでまだ家にいられる事実にたるみそうな自分がいたが、何も今日は休日ではない。

 城崎はふわりと欠伸混じりに朝食と弁当作りに移行した。



 ドリームボックスについて間もなく白衣に着替え、デスクに荷物だけ預けて小春の部屋へ。もちろん地下牢ではなく南棟一階の彼女の個室だ。

 移動中、すれ違う研究員たちに噂話されていたようだが、城崎は気に留めないことにする。二つの弁当を収納した小さなトートバッグは昨日よりもずしりと重かった。


「小春、おはよう」


 カチャリと古いドアノブが音を立て捻られ、彼女が出てくる。一時間遅い朝とあってか昨日よりも幾分か元気そうだった。寝癖もない。


「遅くなって悪かった。今日のスケジュールは一時間分ズレるからそのつもりで」

「そう」


 彼女は手持ち無沙汰に両手を合わせ、絡ませた指たちをリズミカルにもたつかせている。


 怪我でもしたのか、動く彼女のその手先に注視すると、肌に刃物が掠ったような切り傷が多々あった。

 昨日屋上でおにぎりを取った時の彼女の無邪気な手には、このような傷はなかった。城崎は少し不審に思った。


「これ、約束していた弁当。先に渡しとく」


 それをそっと渡すと、彼女は首をかしげた。


「これ全部私の?」

「食い意地張るな。二つ弁当箱が入ってるが、オレンジ色の蓋のが君のだ」

「そっか」

「なに残念そうな顔してるんだ。ちゃんと鮭のおにぎりは入れたからな。僕の分食うなよ」


 ぱっと彼女の顔が曇りなく輝く。幸せそうに笑う彼女を眺めて城崎は苦笑した。


「嬉しい」

「はは……ならいいんだけど」

「うん。よかった。私ね、怖かったの。しろさきがお弁当持ってこなかったら、私がした約束守れなくてどうしようかなぁって思ってたの」

「私がした約束……?」

「うん」


 彼女は自室に一旦引っ込んで、玄関先にいる城崎についてこいと言わんばかりの手招きをしてくる。


「お邪魔するぞ」


 城崎は彼女の背中を追って部屋に入る。

 部屋は狭い。入ってすぐの所にある短い廊下に台所はなく、シャワールームと簡素な洗面台や洗濯機があるだけ。奥の六畳間には机とベッドのみが置かれているすっきりとした無機質な空間があった。人間の実社会に馴染む訓練が日頃できる造りになっている。


「昨日しろさきが帰った後、頑張って集めたの。でもね、これだけしか集まらなくて……」


 ──なんだこれ……?


 机上には城崎が買い与えた本とは他に、まばらに光を反射する無数の細い金属製の物が散乱していた。城崎は机にそっと手をやって何本か摘む。それは裁縫針やミシン針、それから使い捨て注射器の物と思われる先が鋭利な針たちだった。それら何百本かが机の木目を埋めつくそうとしている異様な光景が彼の前に広がっていたのだ。

 城崎は青ざめた表情で小春へ振り向く。


「……これは一体?」

「針」

「いやそうじゃなくてさ。なんでこんな物騒な物集めてんだよ」

「約束だったから」


 小春は虚ろな瞳で身長差のある城崎を仰いでいる。その時、彼は恐怖よりも、何故だか彼女への庇護の欲求が優に勝った。

 瞬時にいたたまれなくなって、城崎は小春の両手を包んで撫でた。彼女は最初、くすぐったそうにしていたが受け入れた。


「あのなぁ……小春。“針千本呑ます”っていうのは比喩だよ。ものの例えだ」

「そうなの?」

「当たり前だろ。大人たちが約束の度にこんなこといちいちしてる訳ないだろ?」

「そっか」

「そっかって、他人事な……痛むか?早く治療しよう。包帯を持ってくるからここで待ってろ」

「別にいい。犬人だから、こんなのすぐ治る」

「馬鹿。もし化膿したらどうするんだ。健康上、問題のない個体しか秋の試験は受けられないんだぞ」


 視線の高さを合わせて真正面からじっと話すと、彼女はこくりと頷いた。


「……うん」



 城崎は南棟の医療担当スタッフに204が軽傷を負ったと説明して包帯を受け取り、とんぼ返りで小春の元へと走った。彼女を連れてここまで来ればいいだけの話だが、医療スタッフの面々にも疎まれている失敗作の相手をしてくれるとは思えなかったし、怪我も重度ではないので、包帯だけ貰うことにしたのだ。

 部屋へ戻り、ひとまず彼女の手をしっかりと包帯で巻いてテープで固定する。彼女は指先の感覚が布で煩わしそうにしていた。

 その後はほうきとちりとりで直に触れないように掃除し、回収し損ねて床に針が潜伏することないよう慎重に後片付けする。集まった針の群れは先端が出ないように新聞紙などの紙で纏めて、施設内の分別袋に入れてゴミ集積区へと捨てなければならない。


「しろさき、その」


 小春が居心地悪そうに彼の名前を呼んだ。


「なんだ?億劫かもしれんが、包帯はしばらく外すなよ」

「それじゃない。私もゴミ捨て一緒に行く。私のせいだし」


 城崎はその申し出を彼女の成長の一歩だと捉えて嬉しくなる。だがその反面、また集積区へ近づく彼女の姿を職員たちに見られると後々面倒な噂が生まれると思い、彼は短く首を横に振る。


「いいや一人で行くよ。すぐ戻ってくるから」



 すっかり午前中が押してきた。集積区からの帰り道、追い込むように電話の着信音が鳴った。能登谷とは別の上司からこの件について説明をしろとの連絡だった。歩きながら対応する。

 どうやら昨夜と今朝に小春204がゴミ集積区を彷徨って不審な行動をとっているのはとっくに何人かの職員に目撃されていたらしい。出勤直後に城崎が感じた研究員たちからの注目は、彼女の担当の人間の仕事ぶりを猜疑する噂話だったようだ。

 包帯を譲った医療スタッフがついさっき犬人研究の比較的上層部の人間たちにリークしてこの件が発覚したとのこと。


 城崎は医療班を恨めしく思うが、彼らは自分の仕事をしただけに過ぎない。


「どうなってるんだ城崎。君、奴への行動教育は出来ているのか?なんでも聞いたところによると、立ち入り禁止の集積区に入ってゴミを漁るそうじゃないか。しかもそれが原因で軽傷ではあるが怪我もしたと。失敗作とはいえ、ウチの大事なデータ源だぞ」

「申し訳ありませんでした。私の監督不足です。再度、施設内の行動範囲について厳重に教育しますので……」

「それはもういい。それで、何故ゴミなんか漁っていたんだね?はっきり問いただしたか」


 針千本呑ますが原因です、なんて口が裂けても言えない。


 これといった言い訳が思い浮かばなかったので、適当に犬の行動学に基づく「遊び」の一種なのではないかと理論っぽく話す。もちろん科学的根拠は絶無だが。


「……これじゃ200番シリーズだけじゃなく、私たち犬人研究者たちの株も下がるだろう?ただでさえ不良品ばかり抱えているのだ。結果を出さねば今後、政府の立入検査だってあるかもしれんのだぞ──」

「心得ております。以後再発防止に努めますので」


 ブツっと電話が切られて、城崎は思いっきり舌打ちしてやった。


 ──これから僕とあの子はどうなるのか。


 城崎は、頭上の青空へ深呼吸みたいなため息をこぼして彼女の元へ戻ることにした。

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