8話

「いただきます」


 暫定的な彼女の名前が決まってから数日後の昼。ようやく地下の隔離室から開放された204──改め小春こはると、その担当である城崎は、屋上で食事をしていた。

 一緒の食事といっても、まだ犬人の少女は散歩の時と同じく研究員からは一定距離を置いている。


 小春のパーソナスペースは人間よりも広く、最低四メートルぐらいだった。城崎は出入口にあるベンチを定位置とし、給水タンクの傍にいる彼女へ時折視線をやりながら弁当を食べていた。

 彼は弁当を作ることがすっかり習慣になっていた。考えるのが面倒なのでメニューはいつぞや作ったものと大して変わらない。


「お天道様の下で飯が食えるって素晴らしいな」

「そんなに地下が嫌だったなら毎日来なくてもよかったのに」


 南棟の屋上は比較的静かなので、声を張らずともお互いに意思疎通はできる。


「冷たいなぁ君は。元はといえば、小春が脱走したのが悪いんだぞ」

「うっさい」


 軽口を言う城崎を小春が乱暴に窘める。

 彼女はまだ距離こそ必要だが、彼が命名した名前のことは認めたようだ。


「でもあの時、なんで街まで降りなかったんだ?」

「あの時?」

「君が脱走した時のことだよ。施設から逃げれたんだから、そのまま山を降りて街まで逃走できそうなもんだろ。君の脚力なら余裕そうだ」

「……逃げても私の耳と尻尾を隠して生活するのは大変そうだなって思ったの。考えて怖くなった。人通りの多い交差点の真ん中で、私だけが道を行き交うみんなに笑われてる。蔑まれてる。哀れみの目を向けられてる……そんな自分の姿を想像したら、なんだか急に恐ろしくなったの。私はどうして生まれてきたんだろうって」


 パックに入ったミネラルウォーターをストローで飲んで、小春は低い声でそう言った。


「……辛いな」


 数秒の間を空けて城崎が呻くように呟いた。

 小春のような犬人が仮に何万人も生まれたとして、他の人間と馴染んで生活する未来なんて本当に訪れるのだろうか。

 ドリームボックス上層部の熱狂的な犬人の研究体制は一旦、隅に置いておくとして、犬人が現実の社会に浸透する可能性は低いというのが現場の研究員たちでの見解なのは周知の事実である。

 そもそも犬人はウイルス対策のための研究に過ぎないし、第一にそれ自体ですら非倫理的、非人道的にもほどがある。

 たとえかつての犬の殺戮と同等の経済復興が成されたとしても、遺伝子技術を用いた合成人種による人口増産なんて国内外からは非難の対象でしかない。


 実際問題、ドリームボックスは成果を出せずにいた。性格や情動面で欠陥品を多く抱えており、犬人の有用性を疑問視する日本政府の立ち入り監査が近いとも噂もある。

 小春204ほどではないにしろ、研究員たちが常日頃から手を焼く実験個体は200番シリーズの他でも顕著だ。警備をしていた犬人部隊のように外でも通用する見込みのある優秀な個体は稀だった。


「それで、山の中を呆然と歩き回ってたらちょうど公園があって、そこにブランコがあったからちょっと休んでいて……」

「幸運にも僕が来たわけか。だったら、なんで最初に逃げた」

「それはしろさきに本盗られたからだけど?」


 小春は彼の名前を言って微笑む。さきほどまでの彼女の暗い表情は吹き飛んでいた。


「なんだ、諸悪の根源は結局は僕なのか」

「ううん。そんなこと言ってない。全部、ここが悪いんだよ」


 少女は尻尾で床をぺしりと叩いた。「ドリームボックス」と言ってるつもりだろう。


「しろさきは私を命懸けで守ってくれた。一番好きな本もくれた。牢屋にも何度も来てくれた……」


 城崎は複雑な面持ちで彼女を見ている。


「小春はどうしたい?」

「どうって?」

「これからのこと。また脱走するか、それともむざむざ殺処分を待つか」

「他に選択肢があるの?」

「ないわけじゃない。でも、僕は君の意思を尊重したいから。先に聞いておきたいんだ」


 小春はぐっと拳を握った。彼女の手中にあったビスケットが乾いた音を立てて割れる。


「死にたくないよ。私、もっと色んな事を知りたい!しろさき、これからどうすればいい?教えてほしい」


 その瞳はたしかに生きていた。生への強い渇望が色濃く漂っていた。


 城崎は「よし」と頷く。

 この子を死なせたくない、と彼は決意したのだ。


「今年の晩秋、ドリームボックスで犬人の模擬社会生活試験がある。これは犬人の適性をみるテストみたいなもんだ。合格すれば君の処分の話を取り下げられるかもしれない」


 城崎が最後の望みの綱として小春に提案したのは、ドリームボックスで毎年開催される試験だった。

 これは犬人の各シリーズや個体を多様な試験で競わせ、犬人における人間と犬の遺伝子の配合割合がどれくらいだと優良個体が生まれるのか、またはどのように研究員に育てられると社会的な個体になれるのか、など様々なデータを収集するためのものだ。

 試験で優秀なケースとお墨付きを貰えれば、殺処分という物騒な話も無かったことになると城崎は踏んでいた。


「それ、出たい。私も参加できるっ?」

「どうだろうな……去年、参加したか?」

「してない」

「なら大丈夫だと思う。君たしかまだ一歳だよな?参加歴がないなら受理されるはず」

「やった!」


 小春は柄にもなく手を大きく広げて喜ぶ仕草をした。耳は立ち、尻尾は高速で振られている。

 彼女は去年の春頃に製造された実験個体だ。つまり一歳。殺処分の話があろうとなかろうと、今年度の試験がラストチャンスになる。

 一歳という幼少な個体であっても試験に落ちればそれだけでドリームボックスには「不要」の烙印を押される。幸いなことに、小春は去年の時点から既に素行不良だったので、当時の名ばかりの担当者は彼女の参加申請すら提出していないようだ。落選個体を育てたという不名誉は犬人研究員なら誰も負いたくはない。

 もっとも、城崎は彼女に賭けてみたい気持ちになっていたので関係ない。どのみち何もしなければ彼女はガス室で悶え苦しみながら死を迎えることになるのだ。


 小春はその結末を望んでいないし、彼女にシロを重ね合わせる城崎にとっても不都合だった。

 今まさに一人と一匹は意気投合するに事足りる目標が生まれたのだ。


「じゃあ改めて、これからよろしくな。小春」

「うんっ」


 城崎が手を挙げると、やや緊張した素振りで小春は立ち上がり、駆け出して彼の手にタッチした。だがそれっきりで再び給水タンクへと戻っていく。


「まずは人に近づくことから練習した方がいいな、小春は」

「えへへ。ごめん」



 まだまだ前途多難だった。小春を人馴れさせるため──要するに、彼女の内面的な不安定さを除去するには、狭い生活圏を広げてやらないといけないと城崎は真っ先に思った。

 現在のところ、小春が行き来可能な行動範囲には厳重な縛りがある。単独では南棟の自室とその周辺、それから中央にある中庭のみであるし、今のところ担当の城崎が随伴したとしても、別棟やその他の研究エリアへ行くには逐一申請と許可が必要だった。

 毎日同じところを散歩してても会話も弾まないし、そうなると教育にもいずれ問題が生じる恐れがある。そうなれば試験にも悪影響を及ぼす。

 ひとまずは人間の社会生活における会話練習用の本を難なくアクセスできる環境が欲しかった。図書管理室を最優先に、審査が緩そうな植物・バイオ技術の研究が集中する西棟から順番に片っ端から申請書を上層部に提出してみる。

 城崎が小春にそう伝えると、また彼女は喜んで歯を見せて笑った。


 一人と一匹はそれまでの白熱した会話で、自分たちがまだ食事を終えていなかったことに気づいて再開する。

 少女はビスケットをかじっている。城崎は自分の手元の弁当の中身を見下ろしてから、視線を上げる。


「小春、その糧食ビスケットってどんな味?」

「しょっぱい砂の味」


 城崎からの質問は即答で酷評が返された。糧食の開発に勤しむ南棟の連中が聞いたら怒り心頭だと彼は思った。


『返して』


 彼女と出会って二日目、糧食を奪われた時の小春の泣き声が城崎の奥底で流れる。

 犬人用糧食。生産性第一の粗悪な酵母にカルシウムとタンパク質を中心に添加したもので、レンガを薄切りにしたかのような固いビスケット。そんな不味い物でも盗られては泣いてしまうほど、彼女が他には何も食べられない環境で生きてきた事を彼は知っている。


「鮭のおにぎり……食べてみる?」


 悩まなかったし、迷わなかった。ずいっとそれを遠くにいる小春へ差し出すように提示すると、彼女が近づいてくる。

 小春はひょいとおにぎりを取り、匂いを嗅いだ。犬の習性からか毒がないか確かめているみたいだが、彼女はすぐにおにぎりを頬張った。大きいサイズだったがみるみるうちに彼女の口の中へと運ばれていく。


「ゆっくり食えよ。誰も取らない」


 小春の白い犬耳と尻尾が心做こころなしか水草のように踊っている。気に入ったみたいだった。一分もせずにペロリと平らげると、彼女はまだないかとねだってきた。

 もうひとつは城崎自身の分だったが、いい機会だと思ったのでそれも小春にあげた。最終的には、弁当のその他の中身である卵焼きも小松菜のおひたしもたくあんも食べられてしまった。


「美味いか?」

「……お米って、鮭って、こんな味なの?」

「うん」

「明日も食べていい?」


 彼女の瞳が蒼い宝石みたいに無垢なる輝きに満ちていた。城崎は「もちろん」と肯定する。


 ──この子、やっぱりただの何の変哲もない女の子じゃないのか?


 城崎は呑気にそんなことを考えた。

 犬人は味覚が人間に比べて劣っているので栄養補給は糧食で事足りるとされており、優良・不良の差に限らず、いずれの個体も同じものを食べている。

 犬には味蕾みらいという味を感じる細胞の数が人間より圧倒的に少ない。だからグルメな犬などありえないという話は城崎も分かっていた。しかし、犬人の身体の基礎は人間そのもので、心も人間だ。今の彼女を観察して、そんな当たり前のことを再認識させられた。


「でもこの野菜は嫌い」

「あはは……」


 紛れもなく普通の人間──。


 笑みをこぼしながら、城崎は研究員にはあるまじき考えに至って寒気がした。犬を擬人化して考えるのは動物の研究者にはあってはならないものだ。それに、試験のことを全面的にバックアップするとはいえ、あまり彼女に肩入れするのは立場的にはよくないと思った。

 これはあくまで仕事。生活のための仕事に過ぎないのだ。それが大人としての在り方なのだから、と彼は自分の胸の内に秘めた戸惑いを描き消そうとする。


「約束。指切りげんまん」

「いいぞ」


 そう自分を戒めても、初めての味に幸せそうな小春を眼前にした城崎はやがて指を出す。

 彼女の細い小指と自分のそれを交差させ、合わせて「指切りげんまん」と唄う。いつしか城崎は遠い過去にいるシロのことを思い出していた。

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