7話
「なぁ204……『星の王子さま』ってそんなに面白いのか?」
「うん」
「どんな風に」
翌週、城崎は出勤してから、間もなく犬人隔離用の地下室の一室へと足を運んでいた。
現在の昼食の時間に至っても未だに204と喋っている。普段は気が向いた時にしか昼食をとらない城崎だが、今日も持参してきた弁当を箸でつつきながら、檻の中にいる少女と他愛もない話を進める。
204はビスケットをざくざくと頬張りながらも、本を汚さないように読んでいた。相変わらず彼女は同じ本を愛読している。
「お馬鹿な大人たちがいっぱい出てくるの。それが最高に哀れだから」
当初の少女が有していた城崎への異常な警戒心や敵意はなくなりつつあった。彼女がここに隔離されて既に一週間が経っている。
その間、他の人間とはほぼ接触していない204は彼を退屈しのぎの相手以上には信用するようになった。
「哀れって……」
「こどもの心を忘れちゃった可哀想な大人たち。お前は知ってる?」
「もちろん。職場にごまんといるからな」
「だよね」
204は固く引きつったように笑った。それが緊張故ではなく、自嘲めいたものであることは城崎には分かっていた。
午前中、204は自分のことについて喋った。酷い差別を受けたこと、他の実験個体は優遇されていたこと、そのせいで誰も信用できなかったこと、今まで味方なんていなかったこと……。
事前に渡された報告書通りの内容だが、彼女の口から直接聞けたことに価値がある。
「そういうものなの?」
「何が」
「人間の大人って、いつまでもこどもでいられないの?」
「残念ながらね。みんな、多かれ少なかれ病んでいく。しまいには犬人なんて倫理観ガン無視の恐ろしい研究まで始め……」
押し黙る204。
「悪い。そんなつもりじゃなかった」
城崎は失言をとりさげるが、格子を隔ててそこにいる少女は、いかにもどうでもよさそうにビスケットの最後の一枚を口に放る。瞬間、彼女の口から健康そうな犬歯がちらりと姿を表す。
「ひとつ聞くけどお前は大人?それとも、こども?」
真っ直ぐな彼女の眼差しが城崎へ向けられる。何もかも見据えているふたつの目。
城崎にはかつてのシロや他の野良犬とよく似た独特の圧を彼女から受け取った。
犬人とヒトの眼球はほぼ同じだ。けれど犬の眼球は若干構造が違う。犬の目の網膜には光を感じると言われる
だから人間の白目たっぷりの目で釘付けにされた動物は威嚇でもされたのかと、たまらず人間から目を背ける。昔から人間の目が理性や知性の象徴とされたのはこのためだ。
204の目からは、犬とヒトのどちらのようにも感じる。城崎は箸を止めてその目に魅入られた。何秒間も204にこの空間が支配されたかのような時間が流れたが、笑って誤魔化そうとする。
「大人だよ。非常に悔しいが」
「ふぅん。でもさ、ならどうして私のことを助けたの?」
城崎は
「あまり困らせないでほしいな。前にも言ったろ、仕事だ。君に死なれては困るから。たったそれだけだよ」
「来年には殺処分するくせに?」
城崎はぴたりと身体を硬直させた。初日の応接室での職員とのやり取りで、彼女は自分がどのような結末を迎えるのかはとっくに心得ているようだった。
「それまでの期間、君を守るのが僕の仕事。それ以上でもそれ以下でもないよ」
「私に殺されるかもしれないのに本を奪ったり、かと思ったら与えたり、警備員の銃から私を守ったのも……ぜんぶ?」
城崎は204と出会った最初の二日間のことがフラッシュバックした。先週の有給休暇の日にも似たような症状に苛まれているが、今回は不快感はなかった。だが城崎は舌打ちしたくなった。
「……そうだよ。それもこれも仕事だ」
「嘘。仕事したくないって他の大人たちが言ってるの聞いたことあるもん。そんな嫌なことのために、命を投げ出せるなんて思えないよ」
するどい洞察をかましてくる。彼女を上手く言いくるめるのは難しいと感じた城崎は、
「分かった分かった。もっともらしくて、面子が立つ理由がある」
「なにそれ?」
「君が子供だから。大人の僕には守る義務があった。人間であろうと犬であろうと、成熟した社会的な動物は未熟な子供を守護する本能がはたらく。これでどう?」
「矛盾してるね。なら他の施設の大人たちは私をいじめるの?」
「……それは」
城崎は言葉が詰まった。
「私にはわかる。お前は大人じゃなくてこどもなんだ。もしくは周りの人間たちがこどもなのか、そのどちらかだよ」
「悪いが、ランチタイムに哲学を語れるほど僕に学はないぞ」
心を見透かされてる気がした城崎は、食べかけの弁当に蓋をして咳をした。204はつまらなそうにベッドに座り直す。
「大人はもっと建設的な話がしたいんだ。分かるか204?」
「……なんとなく」
「よし。じゃあ君の名前を決めたいんだが」
「名前?」
「いい加減、数字だと会話しづらいんだ」
話題を逸らせて城崎は内心安堵した。
204のこれからの呼称に関しては前々から検討していたことだった。モノクロームな個体識別番号はメリットがない。研究用の観察対象なので、研究員側が感情移入しないよう、こうした処置がとられていることは彼も充分に承知している。
ただ、情緒面で難がある彼女にそうした冷酷な人間関係を押しつけ続けては、情動の調整という面は絶対に解決には至らないのだ。
本物の犬で言うところの「隔離犬症候群」だ。幼少期に社会的な刺激に欠けると、その後の社交面で問題が出るという厄介なものだ。204はまさしくそれだった。
必要なのは、失われた人との信頼。それを相互に構築していくものがコミュニケーションだ。そして会話ややり取りには、人間を相手にするのだから彼女にも同等の名前がいる。
「……名前か。なんでもいいよ」
「そうか。じゃあさ……シロとかどう?」
城崎は自分のその言葉を噛み砕きながら解釈した時、顔面が蒼白になりそうだった。
──僕は何を言ってるんだ。
目の前の204にシロを重ね合わせているとでもいうのか。沈黙する彼を204は訝しげに眺める。
「しろ?なんで?」
「いや……その、白いから」
「白い?それって私の髪のこと?」
204は頭に手をやる。そこに生える犬耳がくねくねと動く。雑種の柴犬らしいそれはまさにシロだった。
「駄目か?」
おそるおそる聞く城崎は、自分の中に巣食う感情は何者が生み出したモノなのか全く判別できなかった。疲労とか迷いとかではない。
204が発したフレーズが耳にこびり付いて離れない。
大人なのか子供なのか──。
「うーん、嫌。他のF型だって白いから」
城崎は、銃を構えた警備員の犬人部隊の面々が思い浮かぶ。犬耳はヘルメットで見えなかったが、全員白い髪をしていた。F型は全てこのように白い体毛なのだ。
「……そうだよな。間違ってるよな、こんなの」
「何が?」
「なんでもない」
肩を落とした城崎は目を伏せた。同時に反省した。自分はまだシロのことが忘れられないというのだろうか、と。
もうあの犬は死んでいる。この世にはいないのだ。それでも204に投影してしまう。シロの記憶を。姿を。思い出を。命を。
城崎はそんな自分を罰したかったが、諦めきれなかった。シロとの出会いと204のそれはあまりに似ていたからだ。決して心を開かない孤高の犬。その彼女が自分を少しずつ信用してくれる今の時の流れが……。
「白」は断念したが、彼女たちと対面した季節が偶然にも同一であることが頭に浮かんだ。
一呼吸置いてぼそりと呟く。
「じゃあ、
「こはる?」
「小さい春。今しがた思いつきのものだけど」
「こはる。こはる……」
彼女は名前を何度も口にする。
「由来は?」
「……君と出会ったのが春だから」
「“小”は?」
「体躯が小さいから」
彼女の身長は百五十センチあるかないかぐらいだった。
「そのまんま。芸がない」
「芸がないとはなんだ。柴犬の“シバ”は、古代日本語で“小さい”って意味らしいから、割かし君に合ってるだろ」
ぴょこりと彼女は耳を上下にお辞儀させるように動かす。
「私、雑種なんだけど」
「ベースは柴犬さ」
「……でも他の子、名前ない。名前付けるのっていけないことじゃないの?」
200番シリーズには誰も名前がつけられていない。他シリーズも同様に、研究員は番号でしか犬人を呼ぼうとはしないのだ。例によってこれは施設内の規則である。
「多分。流石にドリームボックス側で検査なり面談なりある時は今まで通り204で呼ばせてもらうさ。どう?小春」
しばしの間、一人と一匹は何も喋らなかった。それが容認なのか否定の意のどちらを示すものなのかは城崎は迷った。
沈黙を破るように少女が本を閉じた。彼女は身体に似合わぬ大きな欠伸をした。
「……午後はまた本でも読むか?そうなら図書室から何冊か借りてくるが──」
「寝る。本はまた今度でいい」
「そうか。それじゃ、また明日な」
「勝手にして」
犬人の少女がベッドに横たわるのを見届けて、簡素な四脚の丸椅子から腰を上げた城崎は、地下室を後にしようとする。
「ねぇ」
「なんだ?」
少女の呼びかけに城崎は足を止める。振り返ると、少女の目には涙の膜が薄らと水晶みたいに煌めいた。
「なんでもない」
以前、檻に投げつけた枕へ少女は自分の顔を勢いよく埋めた。
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