6話

 脱走事件から一夜明けた水曜日。城崎は出勤しようとしたが、今日が有給休暇だったことを思い出し、その足で趣味の写真に打ちこむべく近場のロケーションを巡ったものの、204の事を色々と考えさせられてしまい、集中できずに早く切り上げてしまった。

 桜がそろそろ完全に散って葉がつき始める頃で、今撮れるものはカメラに収めておきたかったが、彼は最後まで気乗りしなかった。


 どっと疲れが吹き出し、城崎はだらしなくベンチに腰を下ろした。

 そんな彼を見向きもせず、通行人が前を過ぎていく。老人と犬。赤いリードで引き連れられているのは本物の犬だった。犬人ではない。首輪をはめた成犬の柴犬だ。


 ──まだ犬を飼ってる人がいるなんて。


 城崎は感心する。この時代、犬や猫などの愛玩動物に価値を見出す人は以前よりも激減していたからだ。飼えない訳ではないが、特殊混合ワクチンの接種などで凄まじい費用が必要になるので、庶民は既に犬を手放している。


 城崎が幼い頃、犬は人間たちがほぼ絶滅へと追いやった。


 野良犬は当然のことながら、家庭にいるペットも、日本ではあらかた特務保健所の手によって処分された。

 当時世界で驚異とされていたウイルスに打ち勝つためだ。人間に伝染する未知の人獣共通感染症への最後の対応策だったのだ。そのウイルスは一般的な家畜動物は一切介することなく、人間の心理を突くように愛玩動物だった犬のみを宿主としていた。

 そして感染症は広まった。猛威の一言に尽きた。日本の総人口は八千万人を下回った。

 やむなく国連と保健機関は、現在生息している犬の九割以上の個体を殺処分する事を決定した。後に『犬の殺戮』と揶揄されるそれは、最初で最後の愛玩動物飼育数制限に関する過激な条例である。

 世界中で猛抗議が起きた。動物愛護の精神が根強いアメリカやイギリスではデモ隊と軍隊が衝突。火種は衰えることなく広がり、条例擁護派と反対派の政党が巧みに国民を扇動した結果、世界大戦後では類を見ない争いに発展してしまった。


 多くの映像は今も世界に残っている。“愛と犬”とか“平和と犬”みたいなスローガンを口ずさみながら、愛犬家たちが自動小銃を片手に星条旗を掲げているもの。治安維持のため出動した装甲車や戦車によってぐちゃぐちゃに轢かれていく犬たち、火炎放射器を死骸の山へ構える防護服姿の軍人たちのもの。みすぼらしい身なりをした貧困国の一般人が抱きかかえる痩せこけた犬を奪いあげるもの。逃げ惑う野良犬たちを一人の軍人が泣きながら機関銃を放っている画素の荒いものなど、様々な地獄を記録したものだ。どれもこれも人と犬の悲痛を極めた叫び、泣き声、鳴き声で埋まっている。


 これらの映像をニュース番組で視聴した時、小学生だった城崎は、既に行方不明となったシロのことが気がかりになって仕方なかった。

 しかし犬の殺処分によって人間の感染者数が漸減ぜんげんされ、社会経済の停滞や閉塞感が緩和されていくと、嬉しくなった人間たちはかつての伴侶動物たちを簡単に殺し始めた。犬を殺せば殺すほど、国は劇的に復興を成し遂げたのだ。

 そうしていつしか、犬は汚物の代名詞になった。ウイルスに対する抗体が出来上がり、処分の必要性がなくなっても、犬は忌み嫌われて殺され続けた。かくして人と犬の数万年にも及ぶ歴史は終わりを告げた。


 感染症が完璧に鎮静した頃、大打撃を受けて疲弊しきった日本は、今後このような事態になることを極度に恐れて高等技術研究施設・ドリームボックスを築いた。

 微かに残された犬の遺伝情報をそちらで厳重に保存し、生き残っているかもしれないウイルスの残党たちが性質を変えて復活する、来るべきその日に備えて研究を始めた。

 そしてウイルスが生体を媒介する際のサンプルデータを採取するために国際法を無視し、ヒトと犬の遺伝子を紡いだ合成人種が製造された。


 だが、やがてそれを感染症で失った犬や人間の代わりの労働力にしようとする研究員たちの狂気が熱を帯び、犬人の研究として再スタートし……。

 そこで視界が歪んだ。城崎の中で、つい最近の出来事が鮮やかに強く蘇る。


 犬人。可哀想な少女。

 無機質なビスケットの入った紙箱。

 けたたましい警戒サイレン。

 夕闇、幼い頃の記憶、銃弾、血。

 叫び声。

 ぎらりと光るナイフ。ヘリのローター音。

 檻。リード、首輪。

 買い与えた『星の王子さま』。彼女の笑顔──。


 頭痛と寒気がする。彼はもう帰ろうと思ったが、立てなかった。



 目覚まし時計のアラームで起きる。


「もう朝か」


 身体の具合が急に悪くなり、散々だった昨日のことを城崎は恨み、浅い眠りから覚めた。


 木曜日の早朝、ベッドから抜けた城崎は朝食を済ませてコーヒーを飲みながら、いつものように少々ぼんやりとする。

 ただ今日は時間がそれでも余っていたので、久しぶりに弁当でも作ることにする。


 城崎は以前まで、昼休みには食事を摂らずに寝ているか携帯端末を弄んで過ごしていたが、204の観察の件もあってかその時間を彼女に割かれることになり、帰宅前には既に胃袋が空っぽになっていた。

 意気揚々と弁当作りに着手したが、冷蔵庫を開けるとロクなものがなかった。普段の朝食と夕食はメニューを統一している。研究員らしく効率的だと言えば聞こえはいいが、単に一食ごとに何を食べるか考えるのが面倒だったまでの話だ。


 週末に翌週分の食料を買い溜めて一週間はそれで過ごす。

 204を探して施設内を歩き回っただけで筋肉痛になるほどの運動不足だし、太らないためにもあまり余分な物は買わないようにしていた。冷凍鮭の切り身が何枚かとパックに入った小松菜のおひたし、たくあん、それから卵が二個ほどが余っていたのでそれらを使うことにする。洗った米を炊飯器にセットして準備完了。早速、城崎は調理にとりかかった。


 ──あの子の分、どうしようか。


 フライパンに油を垂らしながら、城崎はそう思った。少女はきちんと食事を摂っているではないかと思い直すが、あのビスケットなんて本当に美味いのだろうか。犬人が摂取可能な食物は人間と違うのでは……と彼は調理中に余計なことを考えていく。

 結果、卵焼きは発がん性物質の色を帯びた。



 城崎は出勤して着替えを済ませ、鞄と弁当用のトートバッグを提げて南棟の廊下を歩いていたが、後方から明らかにこちらの歩調に合わせて接近してくる存在に思わず止まって振り向いた。


「あっ……お、おはよう。城崎くん!」


 樗木おてきさんか。


 ぱっとはにかむ彼女の笑顔が朝からは若干眩しかった。声の主は同僚の女性である樗木。

 てっきり204かと思っていた城崎は、まだあの犬人の少女は檻の中だったと拍子抜けながらも、目の前の樗木へ応える。


「おはよう」

「204ちゃんはどう?」

「え?」

「あーそっか。城崎くん昨日休みで知らなかった?勝手に借りてた本を204ちゃんが返却したってドリームボックス内でちょっとした話題になってたんだよ。城崎くんが説得したんでしょ?すごいね!同期として私も鼻が高いよ」


 ──人が休んでる時にそんな噂が広まっていやがったのか。こっちは殺されかけたんだぞ。


 胸中で口が悪くなる。樗木は彼を賞賛しているつもりだろうが、注目の的にされたくない城崎からすれば随分と傍迷惑な話だった。

 第一、204に自主返納を促したとはいえ結果的にはこちら側が強制的にやっただけだ、と内心口を尖らせる。そんな言い方では自分が腕のいい調教師みたいに思われるのではと気に病む。話に尾ひれがついてとんでもなく誇張されてしまっている。一瞬、城崎は人目や人付き合いを忌み嫌う204に深い親近感を覚えた。


「図書室の室長さん以外、あの時のこと知ってる人いないと思うんだけど?」

「その室長さんが色んな人に言ってるんだよ?曲がりなりにも204ちゃんが人に従ってるのなんて初めて見たって感じに……あ、そうそう。城崎くんがお弁当持ってるなんて珍しいと思って話しかけたんだった、忘れちゃってた。ふふ。彼女さんでもできた?」

「自作だよ」

「そーなんだぁ。あ、ごめんね!長話で引き止めちゃって。じゃあまたねっ」

「うん、じゃあ……」


 ──やっと解放された。


 背中に冷や汗が出る。樗木がいなくなり、嵐のような喧騒に研修施設特有の淡白な静けさが蘇る。城崎は心底安堵した。彼は昔から無駄話が多い人が好きではない。

 脱走の件については全く触れなかった樗木に多少の違和感を覚えながらも、城崎は南棟の地下室へと移動した。



 挨拶だけでもしておこうと204の牢屋に訪れる。彼女は意外にもすんなりと目を覚ました。

 眠そうな目つきに、寝癖が跳ねた髪が年相応の人間の女の子っぽくて可愛らしい。枕元には一冊の本が転がっている。

 城崎は昨夜に新調した白衣の襟を正してから、声をかける。204は欠伸した。


「おはよう、204」


 彼女からの返事はない。城崎は繰り返す。


「おはよう」

「うるさい」


 投げられた枕が豪速球と化し、檻にぶつかった。城崎は顔色ひとつ変えずに続ける。


「僕は昨日休んでたけど、その間に何か変わったことは?」

「ない」


 檻越しの朝の会話にうんざりしたように204は本を開いて視線を落とした。


「檻の中だもんな。そりゃそうか」

「何か用?私は本読むから」

「お、朗読してくれるのか」

「しない。あーもう、めんどくさ……」


 204は他に何か檻へ投げつけようと物を探すが、特になかったのでバツが悪そうに城崎を睨んだ。


「ん?」

「頼むから消えて」

「あははは、別にいいじゃないか。それ一冊しかないと流石に飽きるだろ」

「飽きない。失せろ」


 吐き捨てるように言う少女へ城崎は満面の笑みを浮かべた。


 難しい子だな、と城崎は肩を下げて喉の奥でため息をついた。それでも、死にそうな窮地のあの状態から彼女を助け出すことが出来て良かった。彼はそう誇らしげに微笑した。


「もうすっかり元気そうで安心したよ──」

「あのさ」

「どうした?」


 藪から棒に204が口を開いた。彼女は俯きがちに城崎へ言葉をひとつひとつ紡ぐ。


「本……ありがと。嬉しかった」

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