5話

 204が素手で警備員の一匹に掴みかかろうとすると、警備員の犬人はコンバットナイフを素早く取り出して振りかざす。

 間一髪で回避する204を取り囲んで部隊の複数人で追い詰めていく。五本のナイフが高速で振られ、空気が切れる鋭く甲高い音が耳を突き抜ける。

 研究員の城崎がいる場だからなのかは不明だが、彼女達はもうライフルを使わなかった。近距離の対人戦の場合、犬人同士ならライフルよりも自前の身体能力に任せた素手かナイフの方が有利なのかもしれない。

 少なくとも彼女達が痛手を負っている204を痛めつけるのを楽しむ等の残虐な意図が全くなかったのは、城崎の目にも分かった。彼女達は204を本気で殺す気で殺傷武器を用いていた。


 しなやかで野生動物の狩りを想起させるドーベルマンとシェパードの混成部隊は、あっという間に204の退路を塞いでいく。

 攻撃は辛うじて避ける少女だが、さきほど銃弾を掠めた傷口からは動くたびに出血が増していく。直撃ではなかったが傷は深く、足元は血の水たまりが形成され始めた。

 204の息があがってきた。少女の足はおぼつかず、明らかに目眩のような症状に襲われていた。犬人部隊は一旦距離を取り、自隊で組まれた円陣の中心にいる彼女へナイフを構え直す。


 じりじりと追い込まれていく少女を前にして、城崎はいても立ってもいられずに間に割って入った。


「止めろ!204を殺すなっ」


 彼は自分の犬人を抱き上げる。服が血で濡れようと関係なかった。目の前の危険から少女を助けたい一心だったのだ。

 厳密には、シロに似た204のことを。城崎はもう失いたくはなかったのだ。

 昔の無力な自分ではシロを助けられなかったという罪悪感が、ずっと重い錨となって彼を苦しめていた。だから彼女204だけは死守しなければなるまいと彼は確信していた。


 リーダー格の犬人は収納していたライフルを再度取り出す。


「直ちに離れてください。その実験個体は非常に獰猛で危険です。こちらの指示に従ってください」

「僕ごと撃つ気か」

「人間は撃てません。ですが、204は射殺しても構わないとの命令を受けています」


 犬人部隊の誰も目標と乱入者へ停戦を求む声は出さなかった。リーダー格の犬人はナイフを捨てて本格的にライフルへ切り替え、その銃口を城崎へ突きつける。


「誤射してみろ。人間へ危害を加えた個体はガス室送りだ。君たちだって嫌だろ?」


 リーダー格以外は多少たじろいだようにも見えたが、城崎は彼女達の心の中までは探れなかった。

 周囲を見渡すと、犬人達は皆ライフルを両手でしっかりと構えていた。もう脅しは通用しない。城崎は自身の腕の中にいる少女を再び白衣で巻く。


「204ももう諦めろっ。このままじゃ死ぬぞ」

「離せ……くそ、この、こんな奴らっ……」

「おい、大丈夫か?」


 204は目を閉じると、がくりと首が下がり、身体も力なく重力に誘われるように地面へ垂れた。彼女にはもう血が足りなくなっているのだ。

 止血用の白衣を固めるため、城崎は少女を離さずにしっかりと抱きしめた。

 その場にしゃがみ、みるみる体温が下がっている204を強く抱擁する城崎は何か音が聞こえて、おそるおそる前を仰いだ。


 遠くから車の止まる音と複数人の足音は、徐々に大きくなっている。風の音もした。ばたばたと激しいローター音。上空から眩しいライトで照らされる。仄かに紫と橙色の残滓が漂う夜空にはヘリコプターが何機かいた。

 リーダー格の犬人は銃を片手に持ち直して、それら音の方へと順に視線をやっていた。彼女は最後にヘリを一瞥すると、城崎へ近づいて手を差し伸べる。


「……医療班が到着したようです。204が無抵抗のうちにドリームボックスまで護送します。城崎さんもご同行ください」



 その後、ドリームボックスに戻った城崎は負傷していないと判断され、佐仲さなか所長や直属の上司である能登谷のとやに呼び出された。

 応接室に移動し、幸か不幸かこの時間まで残っていた彼等を含めた上層部の面々に囲まれて、威圧的な事情聴取を受けた。


 あの時間にどうして施設に戻ってきたのかと理由を聞かれたものの、本のことを言える訳がないので、城崎は自前の携帯端末を職場に忘れて戻ってきたら偶然この状況に居合わせたとだけ答えた。

 続けて204が何故このタイミングで脱走したのかと尋ねられたが、担当して二日目だから分からないと彼は首を振った。


 公園での少女の悲痛な声が蘇る。大方、無断借用していた本の没収されたストレスが原因だろうが、それを正直に言ったところで事態が好転する訳ではない。

 聴取が終わると城崎は帰っていいことになったが、204はというと、南棟の治療室で傷の手当を受けた後は専用の地下独房で拘束されているらしい。犬人の回復速度は驚異的で、適切な処置を受けてから一時間ほどあまりで命に別状がないレベルにまで戻っているようだ。

 今後十日間は彼女の自室はあちらに移ると思われる。拘束具である首輪をつけられ、リードを壁に繋がれるのだ。まるで本物の犬のように。


「204と少し話をしても構わないでしょうか」


 担当着任して早々、波乱の幕開けになった。城崎がため息まじりに疲れたように呟くと上司の能登谷はティッシュを箱ごと渡してくる。


「構わんが、血ぐらい拭いて行け」



 廊下の窓はすっかり夜を映している。誰もいない廊下は寂しくもあるが、人付き合いの疎い城崎からすれば清々するものだ。特に、白衣をまとわずに施設を歩くのはどこか新鮮だった。


 城崎は血で汚れた服を捨てて、自分のロッカーに放ったらかしにしてあったシャツを着ていた。

 おかげで道中、巡回していた人間の警備員に怪訝そうに見られたが、職員証を身につけているので支障はなかった。


 階段を下る。

 ドリームボックス南棟の最果て、地下一階の犬人独房は冷気でひんやりと肌寒く、床のコンクリートはまるで氷上にいるかのように惑わせる。ここは気性の荒い犬人を一時的に封じるための牢屋が何室も設けられているが今は角部屋に少女がいるだけだ。


 城崎の足音に呼応して、彼の姿を見る前にベッドから起きた204は檻を蹴りつけた。

 鈍く金属が軋む重低音が地下に響いた。204は険しい表情だったが、研究員と目が合うと、すんっと無表情に戻った。


「お前か」


 204は再び檻を蹴りあげる。ガシャンと檻が揺れ、空気も動く。病院の患者衣に似た簡易的な服からは、彼女の尻尾としなやかで肉付きの良い脚が露わになる。


「やめとけ。合金の檻だ、いくら犬人の力でも破壊できない」

「このリードも?」

「そうだ」


 城崎は、首輪から垂れるリードを掴む不機嫌そうな少女へ頷く。


「そいつは、犬人拘束用の特殊ワイヤーが束ねられた代物だよ。それもドリームボックス製。軍用犬でも引きちぎるのは無理だってさ」

「……あっそう」


 会話をぷつりと切って、少女は舌打ちして檻から背を向けた。脱獄は諦めたのか部屋の奥のベッドにどさりと身体を預けて横になり、天井に仰向けになったまま担当者には視線を合わせず話す。


「何か用?」

「いや、本をあげてなかったと思って。当分はこんな場所で暮らすんだから暇だろ?」


 数滴の血飛沫を浴びた紙袋を格子の隙間から入れると、彼女はぴくりと耳を立たせて横目にそれを見た。微かに彼女の目が大きく開かれる。


「安心してくれ。本自体は汚れてないから」

「そこに置け」

「分かった」

「本当に私にくれるの?」

「何度も言わるな」

「……お前、本当に変な奴」

「お互い様だ。それで怪我の方は?」

「血は止まった」


 彼女は眠そうに瞼を閉じ、患者衣の上から脇腹を摩る。脚の方は清潔な包帯がきっちりと巻かれていた。


 そういえば換えの白衣は家にあっただろうかと城崎は考える。彼女の止血の際に用いて赤くなった仕事着は、医療班から連絡が無いので多分捨てられたのだろう。


「そうか。なら問題なさそうだな。じゃあそろそろ僕は帰る。また明日な」


 無自覚に口が開いてそう言っていた。少女はぎょろりと目を彼へ向けた。


「は?」

「うん?」

「明日って何?まさかとは思うけど、ここに来る気?」

「そのつもりだけど」


 少女にそう聞き返されて、城崎は自分が204のことをシロと重ね合わせているのだと改めて知った。

 彼はシロと出会って間もない頃、餌を求めて山を彷徨いていた彼女に毎日会いに行ったが、すぐには仲良くなれなくて、追い返されるように帰る間際、言葉が通じる筈のない犬の彼女に飽きることもなく言ったことを思い出す。

 また明日な──と。


「嫌。来ないで」

「一応、君の命の恩人なんだけど……それでも?」

「それでも」

「駄目かぁ。なら仕方ない」


 目線だけ自分へやる204へ肩を竦めてみせ、城崎は来た道を引き返すことにする。


「ねぇ」


 しかしその彼を引き止めたのは、他でもない少女だった。

 

「なんだ?」

「どうして私を助けたの?あの時、あんなに必死に……なんで?」

「恨んでるのか」

「卑屈だね、お前」

「君からそんな言われ方されるとはね」


 そう返すと、檻の中で彼女は「えへへ」と笑った。屈託のない無邪気な年相応の笑顔だ。実年齢一歳とはいえ、犬人のそれは普通の人間に換算すると大体十六歳ぐらいである。余談だが、二歳以降の数え方も本物の犬と同じ換算方法で合っているらしい。


「君がちゃんと笑った顔、初めて見た」

「……うるさい。で、どうして?」


 茶化すといつもの無表情に戻る少女は、身体を起こして城崎の方を真剣な眼差しで見ていた。つい目を逸らしてしまう。その目は野良犬のシロが思い起こさせたからだ。

 どこまでも無垢で穢れのない瞳。陽光を屈折させるビー玉のような輝きを内包しながらも、疑惑の色に満ちている。人を試す犬特有の目だ。


「仕事だから」


 城崎はその半ば投げやりな言葉を204に投げて、振り向きもせず退室した。

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